誰かの夢で、君と会う

誰かの夢で、君と会う

0 5152 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 沈黙の予感と古書の香り

神保町の裏路地に佇む『柏木古書店』の空気は、百年分の物語を吸い込んで澱んでいた。古い紙とインクの匂い、革装丁が放つ微かな甘さ、そして沈黙。俺、柏木湊(かしわぎみなと)にとって、それは世界で最も心安らぐ香りだった。祖父から受け継いだこの場所で、俺は本の番人として、人との過剰な関わりを避け、静かに生きてきた。

その静寂を、心地よく乱す存在がいた。藤宮栞(ふじみやしおり)さん。週に二、三度、決まって夕暮れ時に現れる彼女は、陽だまりのような笑顔を振りまきながら、いつも同じ質問をする。

「すみません、古い植物図鑑で、月下美人が大きく載っているもの、入っていませんか?」

彼女が探している本は、この店にはない。それでも彼女は諦めずに通ってくる。そのひたむきさが、いつしか俺の心の古い頁を、そっとめくるようになっていた。

問題は、俺の特異な体質にあった。

誰かに本気で恋をすると、その夜、必ず相手の『最も大切な記憶』を夢で見てしまうのだ。それは一度きり。鮮明で、五感のすべてを伴うリアルな体験。かつて、この能力のせいで恋人を深く傷つけたことがあった。彼女の最も辛い記憶を見てしまい、同情と傲慢さを履き違えた言葉をかけてしまったのだ。「知ったかぶりしないで!」と泣かれた時の顔が、今も瞼の裏に焼き付いている。人の心の一番神聖な場所に、土足で踏み入るような行為。それ以来、俺は誰にも深く心を寄せないよう、頑丈な扉を閉ざしてきた。

だから、栞さんに惹かれている自分に気づいた時、強い恐怖を感じた。彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥で鍵が軋む音がする。彼女が書棚の間を歩くたびに、その残り香が俺の意識を絡めとる。駄目だ、これ以上は。

ある冷たい雨の日、店を出ようとした栞さんが、入口で小さな手袋を片方落とした。俺は慌てて拾い上げ、彼女に駆け寄った。

「藤宮さん、これ」

「わ、ありがとうございます!」

彼女が受け取った瞬間、指先が微かに触れた。その温かさが、電流のように全身を駆け巡った。ウールの手袋から伝わる、彼女自身のぬくもり。その夜、俺はベッドの中で天井を見つめながら、ついに覚悟を決めた。

もう、この気持ちからは逃げられない。

もし彼女の心に触れることが許されるなら、たとえそれが夢の中の覗き見だとしても、俺は彼女を知りたい。彼女が何を大切にしているのか、その根源に触れてみたい。俺は栞さんの笑顔を思い浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。どうか、美しい記憶でありますように、と祈りながら。

第二章 月下美人の夢

意識が浮上すると、俺は知らない庭に立っていた。ひんやりとした夜気と、むせ返るような花の甘い香り。見上げれば、インクを零したような夜空に、ダイヤモンドダストを撒いたような無数の星が瞬いていた。天の川が、白く巨大な帯となって頭上を流れている。

「おじいちゃん、見て! 咲いたわ!」

鈴を転がすような、幼い少女の声。振り返ると、そこにいたのは七歳くらいの栞さんだった。おかっぱ頭を揺らし、白いワンピースを着た彼女が、興奮した様子で老人の手を引いている。その隣で、柔和な笑みを浮かべる白髪の老人。

二人の視線の先には、大輪の白い花が、月光を浴びて神秘的に咲き誇っていた。月下美人だ。一夜しか咲かないという、儚くも気高い花。その純白の花びらが、暗闇の中で燐光を発しているように見えた。

「本当だなぁ、栞。今年も綺麗に咲いてくれた」

老人は、少女の頭を優しく撫でた。その手は節くれだっていたが、とても温かそうだった。

「この花はな、お星様がいちばん綺麗な夜を選んで咲くんだ。星と約束してるんだよ」

「やくそく?」

「そうさ。だから、この花が咲いた日は、一年でいちばん星に願い事が届きやすい日なんだ」

幼い栞さんは、小さな手を合わせ、瞳を閉じて懸命に何かを願っている。その健気な横顔を、老人は慈しみに満ちた眼差しで見つめていた。俺はその光景を、ただ黙って見つめることしかできなかった。まるで透明人間になったかのように、二人は俺に気づかない。これは彼女の記憶なのだ。彼女の原風景。彼女という人間を形作る、最も温かく、最も切ない、大切なひとかけら。

夢から覚めた俺の頬を、一筋の涙が伝っていた。胸が締め付けられるように痛いのに、同時に、温かい光で満たされるような不思議な感覚だった。あの老人は、彼女の祖父だろう。そして、あの満天の星空と月下美人の記憶こそが、彼女が今も植物図鑑を探し続ける理由なのだ。

この能力が、初めて人を理解するための道標になった気がした。罪悪感ではなく、共感と愛しさが込み上げてくる。俺は彼女をもっと知りたい。そして、彼女の力になりたい。

その日から、俺の行動は変わった。全国の古書店のネットワークを使い、彼女が探している図鑑を本気で探し始めた。店での彼女との会話も、以前よりずっと自然になった。

「星、お好きなんですか?」

「え? どうして分かるんですか?」

驚く彼女に、俺は「なんとなく」と笑って誤魔化した。夢のことは、まだ言えない。でも、いつか。いつか、この気持ちを伝える時には、すべてを話そう。栞さんと俺の距離は、古書の頁がめくれるように、少しずつ、しかし確実に縮まっていくのを感じていた。

第三章 食い違う星図

一ヶ月後、俺はついにその本を見つけ出した。九州の小さな古書店に眠っていた、一冊の古い植物図鑑。出版年は大正時代。手描きの挿絵が美しいその本には、見開きのページいっぱいに、見事な月下美人が描かれていた。夢で見た、あの花だ。

「藤宮さん、これ…じゃないでしょうか」

店に来た彼女に、震える手でその本を差し出した。彼女は息を呑み、ゆっくりと本を受け取ると、愛おしそうにその表紙を撫でた。頁をめくり、月下美人の挿絵を見つけた瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「…そうです。これです。ずっと、ずっと探してたんです…!」

彼女の心からの喜びに、俺は自分のことのように嬉しかった。この笑顔を見るために、俺はいたのだとさえ思った。

「柏木さん、本当にありがとう。もしよかったら、今夜、お礼をさせてくれませんか」

彼女からの食事の誘いを、断る理由などなかった。

予約してくれたのは、小さなビストロだった。ワイングラスを傾けながら、彼女は少し恥ずかしそうに、そして嬉しそうに、あの植物図鑑についての話をしてくれた。

「あの本、実は祖父の形見なんです。私が小さい頃に失くしてしまって…ずっと心に引っかかっていたんです」

「そうだったんですね。おじい様、植物がお好きだったんですか?」

俺は、知っているくせに、そう尋ねた。夢の中の優しい眼差しを思い出しながら。

「ええ。特に星が綺麗な夜に、庭で色々な話をしてくれました。…あ、そうだ。私が一番大切にしている祖父との思い出、聞いてもらえますか?」

来た、と思った。俺は心の中で、あの月下美人の庭を思い描いた。彼女の口から語られるその光景を、俺は誰よりも鮮明に理解できるはずだ。

「ぜひ」

俺は微笑み、彼女の言葉を待った。

「私が小学校に上がる前、祖父が最後に教えてくれたことなんですけど」

彼女は、懐かしむように目を細めた。

「古い本の、修復の仕方だったんです。破れた頁を、和紙でどうやって直すかとか、糸が解けた背表紙を、どうやって綴じ直すかとか…。『本はな、栞。ただの紙の束じゃない。書いた人の魂と、読んだ人の時間が詰まってる宝物なんだ。だから、大切に治して、次の人に繋いでやるんだよ』って。あの日、祖父のインクの匂いがする指先と、真剣な眼差しが、私の宝物なんです」

…え?

俺の思考が、完全に停止した。

月下美人は? あの満天の星空は?

「…星の話とか、お花の話では、ないんですか?」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「もちろん、そういう話もたくさんしてくれましたよ。でも、一番って言われたら、やっぱりあの日のことです。今の私が本を好きでいられる、原点なので」

彼女は屈託なく笑った。その笑顔が、今はガラスの破片のように俺の胸に突き刺さる。

混乱、という言葉では生易しい。足元の地面が、音を立てて崩れていくような感覚。俺が見たあの夢は、一体、何だったんだ? 彼女の最も大切な記憶ではなかった? なら、俺が見たあの感動は、あの涙は、全て俺の独りよがりな勘違いだったというのか?

俺は彼女の心に触れたつもりでいた。彼女を理解した気になっていた。だが、違った。俺は何も分かっていなかった。この能力は、やはり呪いなのだ。人の心を覗き見、分かった気になって傲慢になる、ただそれだけの。

「柏木さん? どうかしましたか? 顔色が…」

心配そうに覗き込んでくる彼女の顔を、俺はまともに見ることができなかった。

第四章 二人のための序章

店を出て、夜の冷たい空気に晒されても、頭の中の混乱は収まらなかった。俺は、栞さんにすべてを打ち明けることに決めた。たとえ幻滅されても、このまま嘘を重ねて彼女と向き合うことはできない。公園のベンチに座り、俺は自分の特異な体質のこと、そして彼女の夢を見たつもりでいたことを、途切れ途切れに話した。月下美人と、星空と、優しい祖父の記憶。

彼女は黙って、最後まで俺の話を聞いてくれた。軽蔑されるか、気味悪がられるか。俺は固く目を閉じた。

「…その夢、もう少し詳しく教えてもらえませんか」

栞さんの声は、意外なほど穏やかだった。俺は夢で見た光景を、できるだけ正確に描写した。庭の様子、祖父の言葉、幼い彼女の表情。

すべてを聞き終えた彼女は、しばらく何かを考え込むように俯いていたが、やがて顔を上げると、驚くべきことを口にした。

「柏木さん。その夢…もしかしたら、私の記憶じゃなくて、柏木さんのおじいさんの記憶じゃないかしら」

「え…? 俺の、祖父の?」

「私の祖父と、この古書店の先代…つまり柏木さんのおじいさんは、親友だったんです。昔、よく二人で庭いじりをしていました。うちの庭で、月下美人を咲かせたのも、柏木さんのおじいさんの協力があったからだって、父から聞いています」

彼女の言葉に、雷に打たれたような衝撃が走った。

夢の中の視点は、確かに少し高かった。幼い栞さんと彼女の祖父を、少し離れた場所から温かく見守るような視点。あれは…。

あれは、親友とその孫娘の幸せなひとときを眺める、俺の祖父の眼差しだったのか。

「君に恋をしたことで、能力が発動したのは間違いない。でも、君が探していたのは、君の祖父の形見であると同時に、俺の祖父にとっても思い出深い品だったんだ。だから、俺が見たのは、君の記憶じゃなくて、その本に宿っていた、俺の祖父の記憶だったんだ…」

俺の祖父が、親友家族との温かい交流を、『最も大切な記憶』として、その心に刻んでいた。

全てのピースが、カチリと音を立ててはまった。途端に、視界がクリアになる。俺は、人の心を覗き見る呪われた能力者なんかじゃなかった。俺はただ、祖父の大切な想いを、時を超えて受け取っただけなのだ。そして、その記憶に導かれるように、栞さんに出会った。

「すごい…。なんだか、映画みたいですね」

栞さんは、ふわりと微笑んだ。「私たちは、誰かの大切な記憶に、導かれて出会ったのかもしれない」

その言葉に、俺は救われた気がした。今まで呪いだと思っていた力が、二つの家族を、過去と現在を繋ぐ、奇跡の架け橋のように思えた。

俺は、自分の傲慢さを恥じた。一つの記憶を見ただけで、相手のすべてを理解した気になっていた。でも、人はそんなに単純じゃない。大切な記憶は一つじゃないし、記憶だけがその人を作るわけでもない。これから知っていけばいい。目の前にいる藤宮栞という人間を、俺自身の目で、耳で、心で、ゆっくりと。

「藤宮さん。いや、栞さん」

俺は彼女の手を、そっと握った。今度は、手袋越しではない、直接の温もり。

「俺は、君の記憶ではなく、君自身を知りたい。これから、二人で新しい記憶を、たくさん作っていきませんか」

彼女は、驚いたように少し目を見開いた後、今までで一番美しい笑顔で、こっくりと頷いた。

帰り道、二人で見上げた夜空には、夢で見た日と同じくらい、無数の星が輝いていた。俺たちの物語は、誰かの夢の中からようやく抜け出して、今、現実の最初の頁を開いたのだ。古書店の窓明かりが、そんな俺たちをいつまでも優しく照らしていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る