サイレント・パレット

サイレント・パレット

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第一章 言葉の褪色

校正者である僕、水瀬湊にとって、言葉は世界のすべてだった。一文字の誤りが文章全体の調和を乱すように、一つの言葉の選択が人の心を温めもすれば、凍てつかせもする。僕はその繊細な均衡を愛し、守ることを生業にしていた。だから、僕の世界から言葉が欠けていくという現象は、死刑宣告に等しい恐怖だった。

異変に気づいたのは、三ヶ月前のことだ。恋人である陽菜が、夕陽に染まるアトリエで新しいキャンバスに向かう横顔を見ていた時。そのあまりの美しさに胸が熱くなり、「綺麗だ」と呟こうとした。だが、喉から出てきたのは意味をなさない呼気だけだった。頭の中を探っても、「綺麗」という言葉が、その概念ごとすっぽりと抜け落ちている。まるで、書棚から一冊の本が抜き取られ、その空間だけが虚しく存在を主張しているかのように。

最初は疲労のせいだと思った。しかし、現象は執拗に続いた。陽菜が僕のために淹れてくれた珈琲を飲んで「美味しい」と感じた瞬間、その言葉が消えた。彼女の冗談に笑い転げ、「面白い」と思った瞬間、その感情を表す語彙が霧散した。陽菜への愛おしさが募れば募るほど、僕の語彙は加速度的に失われていく。まるで、愛情という名のインクが、僕の脳内辞書を端から汚し、文字を判読不能にしていくようだった。

インターネットで震える指で検索を重ね、僕はその症状に行き着いた。「情動性失語症候群」、通称「愛語病」。あまりに稀有な症例で、学術的な報告も数えるほどしかない。愛する対象に対して強い情動を抱くことで、それに関連する語彙や表現能力を司る脳の領域が機能不全に陥るのだという。治療法は、ない。唯一の対処法は、情動の源泉――つまり、愛する人から離れること。

絶望が、冷たい粘液のように僕の全身を這い回った。陽菜を愛することが、僕から言葉を奪う。僕が僕であるための根幹を、根こそぎ破壊していく。彼女のいない世界など考えられない。だが、このままでは、僕はやがてすべての言葉を失い、沈黙の牢獄に閉じ込められるだろう。

窓の外では、雨がアスファルトを叩いていた。部屋に置かれた陽菜の小さなスケッチ――公園で眠る猫を描いたものだ――に目をやる。その柔らかな線を見るだけで、胸の奥が温かくなる。そして、また一つ。おそらく「愛おしい」という言葉だったのだろう。その輪郭が、僕の中から静かに消えていった。

第二章 すれ違う色彩

言葉を失う恐怖は、僕の行動を縛り付けた。陽菜への想いが溢れそうになるたびに、僕は意識的に心を閉ざした。彼女の笑顔を直視しないように、彼女の描く絵をただの「物」として捉えようと努めた。それは、自らの心に麻酔を打ち続けるような、苦痛に満ちた作業だった。

当然、僕の変化に陽菜が気づかないはずはなかった。

「湊、最近なんだか静かだね。疲れてる?」

アトリエの床に座り込み、絵具の匂いに満たされた空間で、彼女は僕の顔を覗き込んだ。僕は「うん、少し」とだけ答えるのが精一杯だった。本当は、君が描いたその力強い空の色について語り合いたい。君の指についたターコイズブルーの絵具が、まるで宝石のようだと伝えたい。だが、言葉にしようとすれば、その感情に紐づいた語彙がまた一つ、僕の世界から永遠に失われる。

僕の口数が減り、表情が硬くなるにつれて、陽菜の瞳には不安の色が浮かぶようになった。かつて僕らは、夜が更けるのも忘れて語り合った。僕が紡ぐ言葉の世界に、彼女は鮮やかな色彩を与えてくれた。僕の詩に、彼女は挿絵を描いてくれた。言葉と色彩が完璧に溶け合った、あの幸福な時間はもう戻らないのだろうか。

ある日、陽菜が個展に出すという一枚の大きな絵を完成させた。テーマは「夜明け」だと聞いていた。しかし、アトリエに立てかけられたその絵を見て、僕は息を呑んだ。そこに描かれていたのは、圧倒的な迫力を持つ、モノクロームの世界だった。無数のグレーの諧調で表現された雲、黒インクをぶちまけたような森、そして、白く輝く一点の光。美しい。だが、あまりにも寂寥感が漂っていた。

「どう…かな?」

期待と不安が入り混じった声で、陽菜が尋ねる。僕は言葉を探した。「すごい」「力強い」「感動した」――かつてなら淀みなく口にできた言葉たちが、今はもう僕の辞書にはない。必死に喉を動かし、絞り出したのは陳腐で、無感情な響きを伴った一言だけだった。

「…大きい、ね」

その瞬間、陽菜の顔からふっと表情が消えたのを、僕は見逃さなかった。彼女は何も言わず、キャンバスに背を向け、窓の外に視線を移した。僕たちの間に、修復不可能な亀裂が走ったような、決定的な沈黙が流れた。僕が彼女を傷つけている。言葉を失うことで、僕は僕自身だけでなく、僕が最も大切にしたいはずの人間をも蝕んでいた。もう、限界だった。

第三章 ふたつの沈黙

週末、僕らはいつものカフェの、窓際の席に向かい合って座っていた。陽菜に「大事な話がある」と告げた時、彼女は静かに頷いただけだった。テーブルの上のシュガーポットが、西陽を受けて鈍い光を放っている。僕は、これから発する言葉が、僕からさらに多くのものを奪い去ることを覚悟していた。それでも、伝えなければならなかった。この偽りの沈黙を終わらせるために。

「陽菜」

声が震えた。

「君に、言わなきゃいけないことがあるんだ」

僕は目を伏せ、コーヒーカップの縁をなぞりながら、途切れ途切れに話し始めた。三ヶ月前から始まった奇妙な症状のこと。陽菜を愛おしいと感じるたびに、言葉が一つ、また一つと消えていくこと。それが「愛語病」という、ほとんど知られていない病気であること。だから、最近口数が減ったのも、冷たくなったように見えたのも、すべてはこの病のせいなのだと。君への気持ちが薄れたわけじゃない、むしろ逆なのだと。

自分の声が、まるで他人事のように遠くに聞こえた。僕は、陽菜がどんな反応をするか怖くて、顔を上げられなかった。軽蔑されるだろうか。気味悪がられるだろうか。あるいは、同情されて、それが僕をさらに惨めにするのだろうか。

長い沈黙が落ちた。やがて、陽菜が静かに口を開いた。

「…知ってたよ」

その声は、僕が予想していたどんな感情とも違っていた。驚きも、悲しみも、怒りもない。ただ、深く、澄んだ水面のような静けさを湛えていた。

僕は弾かれたように顔を上げた。陽菜は、僕をまっすぐに見つめていた。その瞳は、すべてを包み込むような優しさに満ちていた。

「湊が言葉を失っていくこと、なんとなく気づいてた。でも、怖くて聞けなかった」

「どうして…」

僕が問いかけるより先に、彼女は自分のハンドバッグから一枚のスケッチブックを取り出した。そして、僕の目の前で、ゆっくりとページをめくっていく。最初のページには、色鮮やかな花々が描かれていた。次のページは、青空と白い雲。ページが進むにつれて、絵から徐々に色彩が失われていくのが分かった。赤が消え、黄色が消え、緑が消え…。そして最後のページに描かれていたのは、あの個展に出すモノクロームの「夜明け」の、小さなスケッチだった。

「私ね」

陽菜は、まるで告解するように囁いた。

「湊を好きだと思うたびに、世界から色が一つずつ消えていくの」

僕の頭を、巨大な鐘で殴られたような衝撃が襲った。

「湊が私の手を握ってくれた時、たぶん『赤』を失った。湊が私の絵を褒めてくれた時、『青』が見えなくなった。あなたを愛おしいと思うたびに、私のパレットから絵具が一つずつ、なくなっていくの。だから、最近の私の絵は、白と黒と、その間の色しか使えない」

彼女もまた、同じ病だったのだ。僕が言葉を失うように、彼女は色彩を失っていた。僕らが互いを想うその強い感情が、僕の世界からは音を、彼女の世界からは色を、静かに奪い去っていた。僕が苦しんでいた沈黙の牢獄で、彼女もまた、無彩色の世界に独りで耐えていたのだ。

僕らは互いに、愛するがゆえの犠牲を払っていた。そして、その痛みを、相手に悟られまいと独りで抱え込んでいた。すれ違っていたのではない。僕らは、同じ痛みを背負い、背中合わせで立っていただけだったのだ。

第四章 愛という名の光

涙が、僕の頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。自分だけではなかったという安堵と、僕が言葉を失う痛みの中で陽菜を想っていたように、彼女もまた色彩を失う痛みの中で僕を想ってくれていたという、どうしようもないほどの愛おしさが込み上げてきたからだ。

陽菜も泣いていた。彼女の涙が、モノクロームのスケッチブックの上に落ち、小さな染みを作った。

「ごめん…」

僕がようやく絞り出した言葉に、彼女は首を横に振った。

「ううん。湊も、苦しかったね」

僕らは、互いが失ったものの大きさを、そして、それでもなお互いのそばにいることを選び続けた心の重さを、ようやく理解した。言葉も、色彩も、僕らにとっては何物にも代えがたい、世界そのものだった。それを、僕らは愛のために手放し続けてきたのだ。

その日を境に、僕らは隠すことをやめた。言葉を失った僕のために、陽菜は身振り手振りを交え、表情豊かに話してくれた。色彩を失った彼女のために、僕はまだ僕の中に残っている言葉を尽くして、窓の外の夕焼けの美しさや、彼女の髪の艶やかな黒について語った。それはまるで、壊れかけた楽器を二人で必死に奏でるような、不器用で、けれど切実に美しいコミュニケーションだった。

やがて、僕が「愛してる」という、最後の砦のような言葉を失う日が来ることを、僕は恐れていた。その言葉さえなくなったら、僕の想いは本当に陽菜に届かなくなるのではないか。

その不安を、僕の目から読み取ったのだろう。ある夜、月明かりが差し込むアトリエで、陽菜は僕の手を握り、静かに言った。

「湊。もし、全部の言葉がなくなっても、全部の色が見えなくなっても、大丈夫だよ」

彼女は僕の胸に、そっと耳を当てた。

「ここに、ちゃんとあるから。あなたの心臓の音が、私にとっての一番の言葉で、一番の色彩だから」

その瞬間、僕の中で何かが弾けた。恐怖ではなかった。解放だった。そうだ、僕らは最初から、言葉や色彩がなくても繋がっていたのかもしれない。愛とは、何かを表現するための手段そのものではない。手段を失ってなお、そばにいたいと願うその意志そのものなのだ。

僕の世界は、今やほとんど沈黙に支配されている。陽菜の世界は、光と影だけの濃淡で構成されている。僕らは多くのものを失った。けれど、僕らの間には、かつてないほど豊かで、鮮やかな何かが満ちている。

僕は陽菜を抱きしめる。もう、僕の口から彼女を讃える言葉は出てこない。けれど、僕の腕の強さが、僕の呼吸のリズムが、僕の瞳の奥で揺れる光が、僕が伝えたいすべてを伝えていると信じられる。そして、僕の腕の中で微笑む彼女の表情が、僕にはどんな名画よりも雄弁に、彼女の愛を語りかけてくるのだ。

失われた世界で、僕らは愛という名の光だけを頼りに生きている。そしてそれは、言葉や色彩に満ちていた頃の世界よりも、ずっと、ずっと明るい。

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