星屑のタイムカプセル

星屑のタイムカプセル

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***第一章 届かないはずの返信***

篠田湊がこの世を去って、一年が経った。季節が一周し、街の景色が去年の色をなぞるように再現されても、私の隣にはもう誰もいない。図書館司書という仕事は、静寂に満ちている。けれど、その静寂は時折、湊の笑い声がしないことを残酷なまでに際立たせた。

私は、誰にも届かない手紙を書き続けていた。宛名は、もちろん篠田湊。今日の出来事、読んだ本の話、道端で見かけた猫のこと。返事が来るはずもない独り言を便箋に落とし、インクが乾くとアンティークのブリキ缶にそっと仕舞う。それが、私が彼のいない世界で正気を保つための、ささやかな儀式だった。彼が好きだった星空色のインクが、いつしか私の涙の色に見えるようになった。

その日も、私はいつもと同じように、一日を終えてアパートへの道を歩いていた。夕暮れのオレンジ色が、古い集合ポストをぼんやりと照らしている。鍵を差し込み、鉄の扉を開ける。いくつかのチラシに混じって、一通の封筒がはらりと落ちた。

淡い水色の、何の変哲もない封筒。しかし、その宛名書きを見た瞬間、私の心臓は氷水に浸されたかのように冷たく跳ねた。

『水野 咲 様』

そこにあったのは、紛れもなく湊の筆跡だった。少し右に流れる癖のある、優しくて、どこか子供っぽい文字。震える指で封筒を裏返す。差出人の名前はない。ありえない。これは何かの悪趣味ないたずらだ。そう自分に言い聞かせようとしても、鼓動は耳元で警鐘のように鳴り響く。

部屋に駆け込むと、私は震える手で封を切った。中から現れた一枚の便箋。そこには、星空色のインクで、こう綴られていた。

『咲へ。君の手紙、いつも読んでいるよ。図書館の新しい棚、僕も見てみたかったな』

息が、止まった。図書館の棚を整理した話は、三日前に私が書いてブリキ缶にしまった手紙の内容だ。誰にも見せていない。誰にも話していない。湊しか、知り得ないはずのこと。

窓の外では、一番星が瞬き始めていた。まるで、天国からの瞬きのように。湊は本当に、私の手紙を読んでいるのだろうか。死の向こう側から、私を見守っているのだろうか。非現実的な幻想が、悲しみに干上がった私の心に、じわりと染み込んでいく。ポストに残っていた金属の冷たい感触だけが、これが夢ではないと告げていた。

***第二章 星空の共犯者***

その日から、私の世界は一変した。数日に一度、あるいは一週間に一度、湊からの手紙がポストに届くようになった。それは、私の日々の独白に対する、完璧な返信だった。

『ベランダのミニトマト、赤くなったんだね。僕の分も食べておいて』
『新しく入った後輩、大変そうだけど、咲ならきっとうまくやれるよ』

湊の言葉は、乾いた土に染み込む水のように、私の心を潤していった。私はいつしか、ブリキ缶に手紙を仕舞うのをやめ、返事を書くと、まるで生きている恋人に送るようにポストへ投函するようになった。もちろん、宛先は書けない。ただ、彼の魂に届けと祈るだけ。それでも、数日後には必ず返信が届くのだ。私たちは、郵便ポストを介した、星空の共犯者になった。

世界の彩度が、再び上がっていくのを感じた。灰色に見えていたアスファルトは光を反射して輝き、ただの雑音だった街の喧騒は活気のある音楽に聞こえた。同僚との会話も、以前よりずっと自然に笑えるようになった。「水野さん、最近明るくなったね」。そう言われるたびに、私の胸には秘密の幸福感が満ちた。

湊は生きている。物理的には死んでしまったけれど、彼の魂は私のすぐそばにいて、手紙を通して会話してくれている。そう信じることに、何の疑いもなかった。むしろ、そう信じることでしか、私は前を向けなかった。湊の死という巨大な穴は、彼自身からの言葉でしか埋められなかったのだ。

手紙のやり取りは、私たちだけのタイムカプセルだった。過去の思い出を掘り起こし、現在の出来事を共有する。湊が好きだった星座の話、二人でよく行った海辺のカフェ、くだらないことで笑い合った夜。インクの文字が、彼の声を、温もりを、ありありと蘇らせる。

けれど、幸福の光が強くなればなるほど、影もまた濃くなる。私は次第に、現実の人間関係が億劫になっていった。友人からの誘いも、どこか上の空で断ってしまう。私のすべては、ポストに届くあの水色の封筒に占められていた。生きている人間との繋がりよりも、死者との対話に安らぎを見出していた。湊との思い出という名の聖域に閉じこもり、私は甘美な幻想に溺れていった。

***第三章 インクの真相***

その奇妙な幸福が三ヶ月ほど続いたある日。一通の手紙が、私の築き上げた幻想の世界に、小さな、しかし致命的な亀裂を入れた。

『この前の金曜の夜、すごかったね。ペルセウス座流星群。ベランダから二人で眺めたの、覚えてる? あの時君がくれたオルゴール、今も枕元で鳴らしているよ』

読んだ瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。ペルセウス座流星群。確かに先週見えた。しかし、私は一人で、湊の写真を抱きしめながら見上げたのだ。そして、何よりも決定的だったのは「オルゴール」の一文。私は湊に、オルゴールなど贈ったことはない。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。これまでの手紙は、すべて私の記憶と寸分違わぬものだった。だからこそ信じられた。だが、これは何だ? 記憶違い? いや、そんなはずはない。

私は部屋に保管していた湊からの手紙をすべて引っ張り出し、封筒を調べ始めた。これまで気にも留めていなかった消印。そこには、私が住む街ではない、隣町の名前がくっきりと印字されていた。

全身から力が抜けていく。湊の魂が、隣町から手紙を送ってくるというのか? そんな馬鹿な話があるものか。パズルのピースが、恐ろしい形で組み合わさっていく。誰かが、湊のふりをしている。私の手紙を何らかの方法で読み、湊になりきって返事を書いている人間がいる。

怒りよりも先に、裏切られたという絶望が私を襲った。あの幸福感も、取り戻した笑顔も、すべては誰かの掌の上で演じられた茶番だったというのか。

翌日、私は仕事を休み、電車に乗って隣町へ向かった。手がかりは消印だけ。無謀なのは分かっていたが、じっとしてはいられなかった。郵便局で何か分からないかと尋ねても、個人情報だと断られるだけ。途方に暮れ、駅前のベンチに座り込んだ時、ふと、ある記憶が蘇った。湊が言っていた。「心臓移植を待っている親戚の子が、隣町にいるんだ」。

湊の兄に電話をかけた。震える声で事情を話すと、彼は長い沈黙の後、重い口を開いた。「……すまない。僕が頼んだんだ」。

兄が教えてくれた病院の名前を頼りに、私はある病室の前に立っていた。ドアにかけられた『相葉 樹』というプレートを見つめる。ドアをノックする指が、鉛のように重かった。

「どうぞ」。中から聞こえたのは、穏やかで、少し掠れた若い男性の声だった。

そこにいたのは、窓の外を静かに眺める、線の細い青年だった。私の姿を認めると、彼はすべてを察したように、悲しげに微笑んだ。彼のベッドサイドには、見覚えのある星空色のインク瓶が置かれていた。

相葉樹。彼こそが、湊の心臓のドナーになった青年だった。湊の兄は、弟の死から立ち直れない私の姿を見かね、樹に頼んだのだという。湊の日記や遺品を渡し、「弟の恋人を救ってやってほしい」と。私のポストに投函していた手紙は、湊の兄が私のポストからこっそり抜き取り、樹に渡していたのだった。オルゴールの件は、樹が湊の日記にあった元恋人とのエピソードを、私との思い出だと勘違いして書いてしまった、痛恨のミスだった。

「ごめんなさい」。樹は深く頭を下げた。「あなたの悲しみを少しでも和らげることができればと……軽率でした」。

彼の言葉は、私の耳には届かなかった。目の前が真っ暗になり、築き上げてきた世界のすべてが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。私は、何も言わずにその場から逃げ出した。降りしきる冷たい雨が、頬を伝う涙と混じり合っていった。

***第四章 夜明けのタイムカプセル***

部屋に閉じこもり、私は泣き続けた。湊への想いも、手紙がくれた救いも、すべてが汚されたように感じた。樹への怒りと、そんな偽りの手紙に依存していた自分への嫌悪で、心が張り裂けそうだった。もう二度と、誰かの言葉を信じることなどできない。

数日後、ドアのチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、樹が立っていた。居留守を使おうとしたが、彼はただ黙ってドアの前に封筒を置くと、静かに去っていった。

迷った末に、私はその封筒を拾い上げた。それは、いつもの水色の封筒ではなかった。湊が好きだった、少しざらついた手触りの茶封筒。中には、一枚だけ、折りたたまれた便箋が入っていた。それは、湊の筆跡だった。これまで樹が真似ていた文字とは違う、本物の、湊の文字。

『咲へ。これを君が読む時、僕はもうそばにいないだろう。ごめん。最後まで、君と星を見たかったな』

それは、湊が事故に遭う直前、私の誕生日のために書いていた手紙だった。彼の兄が、ずっと渡せずにいたものを、樹に託したのだ。

『たくさん泣くだろうけど、いつまでも下を向いていちゃだめだ。僕との思い出は、君を縛るための鎖じゃない。未来へ進むための、杖みたいなものだと思ってほしい。咲は、僕がいなくても幸せにならなきゃだめだ。僕の分まで、たくさん笑って、たくさん恋をして、君の時間を生きて。そして、夜空を見上げて、僕という星がいたことを時々思い出してくれれば、それでいい。新しい、君だけの星を見つけて』

インクが涙で滲んで、星屑のように散った。湊の本当の言葉が、ようやく私の心に届いた。私は、湊の死に囚われるあまり、彼の本当の願いから目を逸らしていたのだ。彼が望んでいたのは、過去への執着ではなく、未来への希望だった。

樹が書いてくれた偽りの手紙。それは、確かに偽物だった。けれど、その偽物があったからこそ、私は息をすることができた。凍りついた心を溶かすための、応急処置だったのかもしれない。樹は、湊の命を受け継いだ体で、湊が私にしてやれなかった「心のケア」を、不器用な形で実践してくれていたのだ。

翌週、私は自分から樹に会いに行った。病院の屋上で、私たちは言葉少なめに空を眺めていた。

「ありがとう」
私の口からこぼれた言葉に、樹は驚いたように目を見開いた。
「あなたの手紙に、救われていたのは事実だから。……そして、最後の手紙を届けてくれて、ありがとう」

私たちは、恋人にはならないだろう。少なくとも、今は。彼の胸の中には、今も湊の心臓が鼓動している。その事実と向き合うには、まだ時間が必要だ。

けれど、私の心は不思議なほど晴れやかだった。湊との思い出という星屑を、大切に胸の内のタイムカプセルに仕舞い込む。それはもう、私を過去に縛り付ける重りではない。未来を照らす、ささやかな光だ。

空には、夜明けの光が差し込み始めていた。私は、新しい一日を、そして新しい人生を、自分の足で歩き始める。隣にいる樹もまた、受け継いだ命で、自分の時間を生きていくのだろう。

いつか、二人で笑い合える日が来るかもしれない。あるいは、別々の道で、それぞれの幸せを見つけるのかもしれない。結末はまだ、白紙の便箋のようだ。それでもいい。私はもう、届かない手紙を書くことはないだろう。顔を上げて、夜明けの先にある、まだ見ぬ星を探しに行こう。湊が、そう望んでくれたように。

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