***第一章 沈黙の一年と、届いた嘘***
古書店の隅で、埃の匂いに混じって微かにインクが香る。それが、相田航(あいだ わたる)の世界のすべてだった。積まれた本の壁に囲まれたこの場所は、他人との過剰な接触を厭う彼にとって、心地よい要塞であり、静かな揺り籠でもあった。
その静寂が破られたのは、湿度の高い午後のことだった。郵便配達員が置いていった一つの小包。差出人の欄には、航の心臓を鷲掴みにする名前が記されていた。
『月島陽介』
一年前に、煙のように消えた親友の名前。警察に届け出ても、共通の友人に尋ねても、何一つ手がかりはなかった。まるで初めから存在しなかったかのように、陽介はこの世界からログアウトしてしまった。その彼から、何の予告もなく、小包が届いたのだ。
震える指で包装を解くと、中から現れたのは一冊の古びた本だった。見覚えがある。子供の頃、二人でページの角が丸くなるまで読み耽った冒険小説、『星屑の羅針盤』だ。懐かしさが胸を締め付ける。だが、航がページをめくった瞬間、その感傷は鋭い棘となって突き刺さった。
見開きの遊び紙に、間違いなく陽介の、少し癖のある大胆な筆跡で、こう書かれていたのだ。
『俺の「嘘」を見つけてくれ。航。』
嘘? 陽介が、嘘を? 太陽のように明るく、誰に対しても裏表なく、真っ直ぐな男だった。彼と「嘘」という言葉は、水と油ほどに馴染まない。この一年、航の心を支配していたのは、陽介の身を案じる不安と、何も告げずに消えた彼への微かな怒りだった。だが、この一行は、その感情のすべてを根底から揺さぶる、巨大な謎となって航の前に立ちはだかった。一年間の沈黙を破って陽介が伝えたかったこと、それが「嘘を見つけてくれ」という不可解な依頼だというのか。航は、古書の乾いたページに指を置き、止まっていた物語の続きを、読まざるを得ない運命を予感していた。
***第二章 褪せたインクが導く記憶***
陽介の挑戦状とも言えるその本は、単なる謎かけではなかった。物語のあちこちに、彼の筆跡で短いメモが書き込まれ、特定の単語が丸で囲まれている。それは、二人だけに通じる暗号のようだった。航は古書店の店主に事情を話し、数日間の休みをもらった。陽介の「嘘」を見つけ出すこと、それが今の彼にとって最も優先すべきことだった。
最初の書き込みは、主人公が故郷の港から船出する場面にあった。「始まりの鐘の音が聞こえる」。航はすぐにピンと来た。二人が小学生の頃、毎日のように遊んだ丘の上の公園。そこには古びた鐘があり、どちらが高い音を鳴らせるか競い合ったものだ。
久しぶりに訪れた公園は、記憶の中よりも少しだけ色褪せて見えた。錆びついた鐘を前に、航は陽介との他愛ない会話を思い出す。
『なあ航、俺たち、大人になってもこうやって馬鹿なことできるかな』
『さあな。お前はどこか遠くへ行っちまうかもな』
『バーカ。俺が行くなら、お前も一緒だろ』
その言葉が、今になって虚しく響く。
鐘の支柱の根元、陽介が好きだった日当たりの良い場所に、小さなフィルムケースが隠されていた。中には、丸められた一枚の写真。海を背景に、満面の笑みでピースサインをする陽介と、その隣でぎこちなく微笑む自分。写真の裏には、次の目的地を示すであろう走り書きがあった。「カモメの食堂、いつもの席」。
そこは、港の近くにある安くて美味い定食屋だった。航は陽介に連れられて初めてその店を知った。一人では決して足を踏み入れることのない、活気に満ちた場所。店の女将は航の顔を見るなり、「あら、久しぶりじゃないか。陽介くんはどうしたんだい?」と屈託なく尋ねた。航は言葉に詰まる。陽介は、この店の誰からも愛されていた。
思い出の場所を巡る旅は、陽介という人間の輪郭を、航の中で再び鮮明にしていく作業でもあった。だが同時に、航は違和感を覚え始めていた。どの場所でも、誰もが陽介のことを「太陽みたいな子だった」と語る。悩みなど何もない、いつも笑っている青年。しかし、航が辿っているこの奇妙な旅は、その完璧なイメージの裏に、何か別の顔が隠されていることを示唆していた。まるで陽介は、航にだけ、自分の本当の姿を見せようとしているかのようだった。
航は、自分が陽介の親友でありながら、彼の何を理解していたのだろう、という問いに苛まれ始めた。彼の笑顔の裏にあったかもしれない孤独に、一度でも気づこうとしたことがあっただろうか。本に挟まれていた図書館の貸出カード、古い映画の半券。一つ一つのアイテムが、陽介の知られざる時間を物語り、航の心を静かに侵食していった。
***第三章 太陽が隠した影***
最後のヒントは、一枚の押し花だった。二人が初めて出会った小学校の裏庭にだけ咲いていた、小さな勿忘草。航は、震える心臓を抑えながら、懐かしい学び舎へと向かった。廃校になった校舎は静まり返り、運動場には背の高い草が風に揺れていた。
裏庭の隅、古びた桜の木の下に、一人の女性が立っていた。航の姿を認めると、彼女は静かに微笑んだ。陽介の姉、美咲だった。航は彼女の顔を数年ぶりに見た。その穏やかな表情の中に、拭い去れない深い悲しみの色を見つけて、息を呑んだ。
「航くん、来てくれたのね。陽介が、きっと君ならここまで辿り着いてくれるって、信じてたわ」
美咲の言葉は、淡々としていた。だが、その一言一言が、航の世界を崩壊させるには十分すぎるほどの重みを持っていた。
「陽介は、半年前にもう……。ごめんなさい、すぐに伝えられなくて。あの子の、遺言だったの。『俺が航に残した最後の冒険が終わるまで、誰にも知らせないでほしい』って」
時間が、止まった。風の音も、自分の呼吸さえも聞こえない。陽介が、死んだ? あの太陽のような男が? 理解が追いつかない。頭の中で、陽介の笑い声が何度も反響する。
美咲は、一通の封筒を航に手渡した。陽介から航への、最後の手紙だった。
彼女が語る真実は、航の想像を遥かに超えていた。陽介は、二年以上前から進行性の難病を患っていた。日に日に身体の自由が奪われていく病。彼はその事実を、家族以外の誰にも、もちろん航にも、決して明かさなかった。いつも通りの笑顔で、いつも通りの軽口を叩き、自分の運命を隠し通した。
「あの子の『嘘』はね、航くん。自分が『元気で、強くて、完璧な月島陽介』であり続けること、それ自体だったのよ。君の前で、弱い姿を見せるのが、何より怖かったんだと思う。君にとっての太陽で、あり続けたかったのね」
崩れ落ちそうになる体を、航は必死で支えた。陽介の「嘘」。それは、航を傷つけないための、彼なりの最大の優しさであり、友情の証だった。姿を消したのも、病が進行し、これ以上「嘘」を吐き続けることができなくなったからだ。航が巡ってきた場所は、陽介が元気だった頃の思い出を、航の心に永遠に刻みつけるための、最後の巡礼だったのだ。
太陽が隠していた深い影。その影のあまりの濃さに、航は立ち尽くすことしかできなかった。親友の、たった一つの、あまりにも大きくて、悲しい嘘。それを見つけた今、航の心には、感謝でも怒りでもない、ただ果てしない喪失感だけが広がっていた。
***第四章 きみがくれた物語***
古書店に戻った航は、カウンターの椅子に座り込み、陽介からの手紙を開いた。インクが滲みそうなほど、力強く書かれた文字が目に飛び込んでくる。
『航へ。
この手紙を読んでるってことは、俺のくだらない謎解きに最後まで付き合ってくれたんだな。サンキュ。
ごめんな、黙ってて。お前に心配かけたくなかったんだ。お前は昔から、他人の痛みに敏感すぎるくらい優しいから。俺のせいで、お前が暗い顔して本の世界に閉じこもっちまうのを見るのが、一番嫌だった。
だから、俺は最後まで、お前の知ってる「月島陽介」でいたかった。それが俺の、最後の我儘だ。
なあ、航。俺はお前のことが、ずっと羨ましかったんだぜ。お前は静かだけど、自分の世界をしっかり持ってた。一本、筋が通ってた。俺は、周りに合わせて笑ってるだけの中身が空っぽな奴だったから。お前と一緒にいる時だけ、本当の自分でいられる気がした。
俺がいなくなっても、お前はちゃんと前を向け。俺との思い出は、お前を縛る鎖じゃなくて、お前がこれから進む道を照らす灯りにしてくれ。俺の物語はここで終わりだけど、お前の物語はまだ始まったばかりなんだから。たくさんの人と出会って、笑って、泣いて、分厚い、最高の物語を生きろよ。
じゃあな、最高の親友。
陽介』
手紙を読み終えた航の頬を、熱い雫が次々と伝い落ちた。嗚咽が漏れる。陽介は、いなくなってさえ、航の背中を押そうとしている。自分の死を悲しませるのではなく、生きる力に変えろと言っている。なんて、自分勝手で、なんて優しい嘘つきだろう。
数日が過ぎた。航は陽介の墓前に立ち、静かに手を合わせた。心の中に渦巻いていた嵐は、今は凪いでいた。悲しみは消えない。だが、それと同じくらい、陽介からもらった温かい記憶が胸を満たしていた。
古書店に戻った航は、いつものように本の整理を始めた。その手つきは、以前と変わらない。だが、彼の内面は、確実に変わっていた。陽介がこじ開けてくれた扉の向こうに、新しい世界が広がっている。それを知ってしまった今、もう壁の中に閉じこもっていることはできなかった。
「あの、すみません」
カウンターの前に、一人の少女が立っていた。探している本があるらしい。以前の航なら、無愛想に本の場所を指さして終わっていただろう。
だが、航は穏やかに顔を上げ、静かに微笑んだ。
「はい、どんな本をお探しですか? よかったら、一緒に探しましょう」
その声は、自分でも驚くほど自然に出た。少女の顔が、ぱっと明るくなる。
窓の外には、陽介が好きだった、どこまでも突き抜けるような青空が広がっていた。彼の物語は終わった。けれど、彼がくれた光に導かれて、今、航自身の新しい物語が、確かな一歩を踏み出した。その結末がどんなものになるか、まだ誰も知らない。だがきっと、悪くない物語になるだろう。航はそう、確信していた。
エピローグの青空
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