幻影は虹の栞を挟んで

幻影は虹の栞を挟んで

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第一章 呪いと祝福のシルエット

神保町の古書街の外れにある『時雨堂』のカウンターに座り、僕はいつものように客の姿をぼんやりと眺めていた。インクと古い紙の匂いが混じり合った、落ち着く静寂。僕、相葉蓮(あいばれん)にとって、この場所は世界から身を隠すための最適なシェルターだった。なぜなら僕には、ささやかな呪いがかかっているからだ。

誰かを本気で好きになると、その相手の隣に、ぼんやりとした人型の幻影が見えるようになる。それは、その人が将来結ばれるであろう「運命の相手」のシルエットだった。これまで三度、僕は恋に落ち、そのたびに全く知らない男の幻影が相手の隣に寄り添うのを見て、戦う前に白旗を上げてきた。僕の恋は、始まる前に結末が分かってしまう、残酷な黙示録なのだ。

だから、僕はもう誰も好きにならないと決めていた。この古書店で、物語の登場人物にだけ心を寄せていれば、傷つくこともない。

そんな僕の決意を揺るがしたのが、彼女、月島紬(つきしまつむぎ)だった。週に二、三度、ふらりと店に現れる彼女は、いつも探偵小説の棚を熱心に眺めては、一冊を大事そうに抱えてレジにやってくる。陽だまりのような笑顔と、本の頁をめくる白い指先。僕は、知らず知らずのうちに彼女を目で追うようになっていた。

そして、恐れていた瞬間が訪れた。ある日の午後、西日が差し込む店内で、紬の肩越しにそれが見えたのだ。ゆらり、と陽炎のように現れた、人型のシルエット。ああ、またか。胸に鈍い痛みが走り、僕は自嘲気味に息を吐いた。今回も、僕の出番はないらしい。

だが、何かがおかしかった。僕は目を凝らした。これまでの幻影は、いつも僕とは似ても似つかない体格の、見知らぬ男だった。しかし、紬の隣に立つ幻影は違った。細身の体躯、少し猫背気味の立ち姿、読みかけの本を手に持つ癖。そのどれもが、鏡に映した自分自身の姿に酷似していた。

まさか。心臓が跳ねる。

幻影の顔の部分だけは、靄がかかったように判然としない。だが、シルエットは間違いなく僕だった。長年僕を苦しめてきたこの呪いが、生まれて初めて、祝福を告げているのかもしれない。紬の運命の相手は、僕なのだと。

乾いた喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込む。窓から差し込む光が、埃をきらきらと舞い上がらせていた。それはまるで、僕の灰色の日常に降り注いだ、希望の光のようだった。僕の物語は、まだ始まってもいなかったのだ。

第二章 重なり合う頁(ページ)

呪いが祝福に変わるかもしれない。その淡い期待は、僕を行動させた。次に紬が店に来た時、僕は震える声で話しかけた。「その作家、僕も好きなんです」。ありきたりな言葉だったが、それが僕たちの物語の最初の頁になった。

紬は驚いたように目を丸くした後、花が咲くように笑った。「本当ですか? 周りに好きな人がいなくて。嬉しい!」。

僕たちは、まるで失われた片割れを見つけたかのように、夢中で言葉を交わした。好きな作家、心に残る一節、犯人の分からなかったミステリーの謎。彼女と話していると、時間があっという間に過ぎていく。カウンター越しだった僕たちの距離は、少しずつ縮まっていった。

初めて一緒にカフェに行った日、緊張でコーヒーカップを持つ手が微かに震えた。紬はそんな僕の様子に気づくこともなく、楽しそうに新刊の感想を語っている。僕は彼女の話に相槌を打ちながら、こっそりと彼女の隣に視線を送った。そこに立つ幻影は、以前よりも少しだけ輪郭がはっきりして、僕が今日着ているシャツと同じものを着ているように見えた。確信が、胸の中で温かい灯火のように広がっていく。

僕たちは休みの日に公園を散歩し、映画を観に行き、互いのことを少しずつ知っていった。彼女は僕の知らない世界をたくさん見せてくれた。僕が今までモノクロだと思っていた世界に、彼女が鮮やかな色彩を与えてくれるようだった。

デートを重ねるたび、紬の隣の幻影は、ますます僕自身に近づいていく。髪型を変えれば幻影も同じ髪型になり、僕が新しい眼鏡をかければ、幻影もそれをかけている。それは滑稽なほどに僕の姿を忠実に写し取っていた。

「蓮さんって、なんだか不思議な人ですね」

ある日、夕暮れの公園のベンチで、紬がぽつりと言った。

「どうして?」

「うーん、私の考えていること、先回りして分かってくれる時があるから。私が欲しい言葉を、いつもくれるような気がして」

僕はドキリとした。それは僕が、彼女の隣に立つ「未来の僕」を見て、無意識にその幻影が取りそうな行動をなぞっていたからかもしれない。運命が僕に味方してくれている。そうとしか思えなかった。

僕はもう、この能力を呪いだとは思わなかった。これは、僕と紬を結びつけるための、神様がくれた赤い糸なのだ。僕は幸福の絶頂にいた。この幸せな物語の結末は、もう決まっている。次のデートで、この想いを伝えよう。僕の物語のヒロインは、君しかいないのだと。

第三章 雨の日の鏡像

告白を決めた日は、朝から冷たい雨が降っていた。雨音は、僕の高鳴る鼓動を隠してくれるBGMのようだった。待ち合わせ場所は、僕たちのお気に入りのカフェ。少し早めに着いて、窓際の席で彼女を待った。ガラス窓を伝う雨粒の向こうに、傘を差した人々が行き交う。

やがて、見慣れた赤い傘が近づいてくるのが見えた。紬だ。しかし、彼女は一人ではなかった。隣には、彼女と同じ傘に身を寄せた、背の高い男性がいた。僕と同じくらいの背丈、細身のシルエット。まさか、と嫌な予感が胸をよぎる。

二人はカフェの前で立ち止まり、楽しそうに何かを話している。紬が笑うと、男も優しく微笑み返した。その瞬間、僕は息を呑んだ。男が着ていたトレンチコートは、僕が今日、告白のためにとっておいた一着と全く同じデザインだった。

店に入ってきた紬が、僕を見つけて駆け寄ってくる。「蓮さん、ごめんなさい、待った? 紹介するね、幼馴染の航(わたる)くん。昨日、海外から帰ってきたの」。

紬の後ろから現れた航と名乗る男を見て、僕は言葉を失った。僕と、瓜二つだった。双子だと言われても信じてしまうほどに、顔立ちが、雰囲気が、驚くほど似ていた。そして、紬の隣には、もう靄のかかった幻影はいなかった。ただ、航自身が、くっきりと、そこに立っていたのだ。

頭の中で、何かが砕け散る音がした。今まで僕が見ていた幻影。僕の姿に酷似していた、あのシルエット。それは、僕自身ではなかった。紬の心の中にずっといた、この「航」という男の姿だったのだ。僕が紬を好きになることで、彼女の心の中にいる「一番大切な人」の姿が、僕の好意というフィルターを通して、僕に似た姿として見えていただけだった。

「蓮さんとも、すごく気が合うと思うな。だって、二人、なんだか雰囲気が似てるもの」

紬は無邪気に笑う。その言葉が、鋭い刃物のように僕の心を抉った。似ている? そうか、だから彼女は僕に優しくしてくれたのか。僕を通して、遠い地にいる彼の面影を見ていただけだったのかもしれない。

僕の能力は、未来を予知する呪いでも、祝福でもなかった。それは、他人の心の最も深い場所、最も強く想う相手の姿を、残酷なまでに見せつけてしまうだけの「鏡」だったのだ。僕が抱いていた希望も、幸福も、すべては僕一人の、滑稽な勘違いだった。

雨は一層強く窓を叩いていた。僕の世界から、すべての色が洗い流されていくようだった。

第四章 虹の栞(しおり)

僕は、結局何も言えなかった。喉まで出かかった告白の言葉を、冷えたコーヒーと一緒に飲み込んだ。航は僕が想像していた通りの、穏やかで知的な男性だった。そして、彼が紬に向ける眼差しは、僕が抱いていたものと同じ、あるいはそれ以上に深い愛情に満ちていた。僕が入り込む隙間など、どこにもなかった。

その日を境に、僕は紬と少し距離を置いた。彼女から連絡があっても、仕事が忙しいと理由をつけて断った。これ以上、二人の幸せな姿の隣に立つ自分の惨めさを見たくなかった。失恋の痛みは、思ったよりも深く、僕の心を蝕んだ。あの呪わしい能力がなければ、こんな惨めな勘違いをすることもなかったのに。

数週間が過ぎたある日、紬が一人で『時雨堂』にやってきた。その顔は少し決まりが悪そうで、でも、隠しきれない幸福に輝いていた。

「蓮さん、あのね……私、航くんと付き合うことになったの」

分かっていたことだった。それでも、彼女の口から直接聞くと、胸の奥がきしりと痛んだ。僕は、無理やり頬の筋肉を引き上げて、笑顔を作った。

「そっか。おめでとう、紬さん」

声は、自分でも驚くほど穏やかに出ていた。以前の僕なら、きっと絶望して、心を固く閉ざしていただろう。だが、紬と出会い、勘違いではあったけれど、誰かと未来を夢見る幸福を知った。その温かい記憶が、僕を支えてくれていた。

「よかった。蓮さんには、一番に報告したかったから。……なんだか、ごめんね」

「どうして謝るの。君が幸せなら、それが一番だよ」

それは、紛れもない本心だった。僕が紬の隣の幻影になることはできなかった。でも、彼女が心から愛する人と結ばれるのなら、その幸せを願うことはできる。運命の相手でなくても、特別な能力がなくても、人を想うということは、そういうことなのかもしれない。僕はこの時、初めて自分の意志で、誰かの幸せを祈ることができた気がした。

紬は安心したように微笑むと、「ありがとう」と言って店を出ていった。彼女の隣には、もう僕には何も見えなかった。能力が消えたわけではないだろう。ただ、僕の恋が終わっただけの話だ。

一人になった店内で、僕は窓の外に目をやった。降り続いていた雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から光が差して、街に大きな虹をかけていた。まるで、僕の長い雨の季節の終わりを告げるように。

僕は書棚から一冊の新しい本を手に取り、カウンターでそっと頁をめくった。物語はまだ、いくらでも始められる。僕自身の物語を。今度は、幻影に頼るのではなく、この手で栞を挟みながら。

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