空っぽの器に愛は満ちる
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空っぽの器に愛は満ちる

第一章 触れられない境界線

古書の修復師である俺、神代蓮(かみしろ れん)の世界は、常に薄い革手袋一枚を隔てて存在した。指先に伝わるのは、古びた羊皮紙の乾いた感触でも、金箔の冷たさでもなく、滑らかな鹿革のぬくもりだけ。他人との接触は、それ以上に厳しく律していた。握手も、肩が触れ合うことさえも、俺にとっては禁忌に等しい。

俺の右手が、他人の肌に触れるとき。その瞬間に、相手の魂に深く刻まれた『最も純粋な愛情の記憶』が、奔流となって俺の内に流れ込む。それは鮮烈な追体験だ。愛する人と初めて手を繋いだ日の高揚、我が子を抱きしめた瞬間の慈愛、今は亡き祖母と交わした最後の温かい会話。俺はそれを、まるで自分自身の体験のように味わう。しかし、その甘美な代償はあまりに大きい。俺が味わった記憶は、元の持ち主の中から、跡形もなく消え去ってしまうのだ。

だから俺は、誰とも深く交わらない。

週に三度、気分転換に立ち寄る駅前の小さなカフェ。そこだけが、俺の隔絶された世界に差し込む唯一の光だった。豆を焙煎する香ばしい匂い、軽やかなジャズの音色、そしてカウンターの向こうで微笑む彼女、水無月澪(みなづき みお)の存在。

「蓮さん、こんにちは。今日は少し冷えますね」

カップを差し出す彼女の指先が、俺の手袋の縁を掠める。そのたびに心臓が跳ね、慌てて身を引いてしまう。澪はそんな俺の奇行を気にも留めず、いつも春の陽だまりのような笑顔を向けてくれる。

この世界には、一つの法則がある。人が生涯でたった一度の『本物の愛』を見つけると、それまでの人生で経験した全ての『過去の愛』の記憶が、美しい宝石となって体外へ排出されるのだ。それは真実の愛に至った証であり、祝福の証。人々はそれを誇らしげにアクセサリーにして身に着けていた。

しかし、澪の胸元や指には、その宝石が一つもなかった。彼女ほどの人間が、誰かを愛したり、愛されたりした経験がないとは到底思えなかった。その事実が、俺の心を奇妙な形でざわめかせた。彼女の純粋さは、宝石がないからではなく、彼女自身が輝いているからだと信じたかった。

ある日の午後、窓の外の欅並木が夕陽に染まる頃、澪がふと寂しそうな表情で呟いた。

「私、何か、すごく大事なものを忘れちゃった気がするんです。胸にぽっかり穴が開いたみたいに」

その言葉は、俺の胸の奥に突き刺さる、冷たい棘となった。俺は、その穴の正体を知っていたからだ。

第二章 零れた記憶の欠片

それは、今から二年前の、ざわめく雑踏の中での出来事だった。祭りの喧騒と熱気の中、人波に押された一人の女性がよろめいた。咄嗟に伸ばした俺の右手が、彼女の細い腕を掴んでいた。手袋をする暇もない、一瞬の接触。

その瞬間、俺の脳裏に、ある夏の午後の光景が焼き付いた。

縁側に座る、幼い少女。隣には、深く皺の刻まれた優しい目の祖父がいる。風鈴の涼やかな音、蝉時雨、庭の向日葵の鮮やかな黄色。祖父が少女の頭を撫でる、ごつごつとして温かい手の感触。『お前は、人を幸せにする子だ』という、慈愛に満ちた声。それは、何よりも純粋で、温かい愛情の記憶だった。

我に返った時、腕の中にいたのは澪だった。彼女は驚いた顔で俺を見上げ、「ありがとうございます」と呟いて人混みの中へ消えていった。俺の心には、他人の幸福な記憶の残滓と、それを奪ってしまったという罪悪感だけが重くのしかかった。

そして今日、カフェのカウンターで、澪はあの時のように寂しげに微笑んでいた。

「小さい頃、おじいちゃんが大好きだったんです。でも、どうしても思い出せない記憶があって……。写真を見ても、家族に聞いても、その日だけ靄がかかったみたいに思い出せないの」

彼女が失ったのは、祖父に「人を幸せにする子だ」と言われた、自己肯定の礎となるべき大切な記憶。俺が奪い去った、純粋な愛情の結晶だった。

俺は唇を噛みしめた。世界の法則によれば、『本物の愛』を見つけた時に過去の愛は宝石になるはずだ。だが、澪は記憶を失っているにもかかわらず、宝石を一つも排出していない。俺の能力が、世界の理を歪めてしまったのか? 謎と罪悪感が、俺の心を蝕んでいく。

首から下げた小さな『記憶の砂時計』に目を落とす。俺が能力を使うたびに、奪った記憶の欠片が砂となって落ちていく、呪われたアイテム。その中の砂は、もう残り僅かだった。

第三章 砂時計の最後の粒

澪に記憶を返したい。その一心で、俺は自分の能力の根源を調べ始めた。古書の修復師という仕事柄、古い文献には多少の心得がある。街の図書館の薄暗い書庫の奥深くで、俺は一冊の古びた魔導書に行き着いた。

そこには、俺と同じ能力を持つ人間が、かつて『記憶の器』と呼ばれていたことが記されていた。『器』は他人の記憶を貯蔵するが、その容量には限界がある。『器』が満たされた時、最後に自分自身の『最も純粋な愛情の記憶』を追体験することで、貯蔵された全ての記憶が解放され、持ち主の元へ還る、と。

しかし、その代償は、『器』自身の愛情の記憶の完全な消滅。愛したという事実、その感情、全ての思い出が失われ、器は文字通り『空っぽ』になるのだ。

心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。俺自身の『最も純粋な愛情の記憶』。それは、疑いようもなく、澪を想うこの気持ちそのものだった。カフェで彼女の笑顔を見るたびに胸が温かくなる感覚。彼女の悩む姿を見て感じる痛み。彼女の幸せを誰よりも願う、この静かで、しかし確かな愛情。

これを、手放す? 澪を愛していたことさえ、忘れてしまうのか?

俺は首の砂時計を握りしめた。ガラスの中で、最後の砂粒がサラサラと落ちていく。言い伝えでは、砂が全て落ち切ると、『器』は最も大切な記憶を一つ失うという。タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

恐怖と躊躇が全身を駆け巡る。だが、澪の「胸にぽっかり穴が開いたみたい」という言葉が蘇る。俺が彼女から奪ったものを取り返すには、俺が空っぽになるしかない。

俺は顔を上げ、書庫の窓から見える月を見つめた。心は、決まっていた。

第四章 はじまりのための喪失

夜の静寂に包まれた公園で、俺は澪と向き合っていた。街灯の頼りない光が、彼女の不安げな顔を照らしている。

「話って、何?」

「君に、返さなければいけないものがあるんだ」

俺は震える声で、自分の能力のこと、彼女の祖父の記憶を奪ってしまったこと、そして、これからしようとしていることの全てを話した。澪は戸惑い、信じられないというように首を振った。

「そんな……。じゃあ、蓮さんが……?」

「すまない」

俺は深く頭を下げた。そして、言葉を続ける。

「澪、俺は君を愛している。君と出会って、俺のモノクロの世界は色づいた。この気持ちだけは、嘘じゃない」

「……蓮さん」

「だから、君に記憶を返す。君が本来持っているべき、温かい光を」

俺は首から『記憶の砂時計』を外すと、それを両手で包み込むように握りしめた。これが、自分自身の記憶を追体験するためのトリガーだった。

目を閉じ、強く念じる。俺の、最も純粋な愛情の記憶を。

――刹那、光が溢れた。カフェのカウンター越しに交わした初めての会話。雨の日に差し出してくれたハンカチの温かさ。彼女の笑顔を見るために、何度もカフェに通った日々。彼女を想う切ない夜。不器用で、臆病で、触れることさえできなかったけれど、確かに育んできた俺だけの愛情の全てが、走馬灯のように駆け巡る。ああ、俺は、こんなにも彼女を――

パリン、とガラスの砕けるような、澄んだ音が響いた。

手の中の砂時計が光の粒子となって霧散する。それと同時に、俺の心から、澪を愛していたという感情と記憶が、まるで朝霧が晴れるように、すっかり消え失せてしまった。

目を開けると、目の前に一人の女性が泣いていた。

なぜ彼女は泣いているのだろう。俺は彼女を知らない。ただ、その涙がひどく悲しいものだということだけは、なぜか分かった。

その瞬間、世界中で小さな奇跡が起きていた。俺という『器』から解放された無数の愛情の記憶が、まばゆい光の雨となって、それぞれの持ち主の元へと還っていく。

澪の心にも、あの夏の午後の光景が鮮やかに蘇った。祖父の温かい手、『お前は人を幸せにする子だ』という声。失われた記憶が、温かい涙となって彼女の頬を伝った。

彼女は、記憶を取り戻した歓びと、目の前の愛する人が自分を完全に忘れてしまったという絶望の狭間で、それでも微笑もうと努力した。

空っぽになった俺は、もう誰の記憶も奪わない。世界の法則からも、その呪われた宿命からも解放された。ただ、何も知らない赤子のように、そこに立っている。

澪は涙を拭うと、震える声で、しかしはっきりと、俺に言った。

「……はじめまして。私の名前は、澪です」

その声は、なぜか俺の心の空っぽの場所に、小さく、温かい波紋を広げた。

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