第一章 触れる記憶、捨てられた旋律
午前三時。世界が深い眠りに沈む頃、三崎湊(みさき みなと)の一日は始まる。街灯がぼんやりと照らすアスファルトの上を、オレンジ色の点滅灯を灯したゴミ収集車が、巨大な獣のようにゆっくりと進む。運転席に座る湊の日常は、人々が捨てた夢の残骸や、語られることのなかった後悔の塊を拾い集めることで成り立っていた。
湊には、秘密があった。生まれつきの、呪いとも祝福ともつかない能力。それは、素手でゴミに触れると、その持ち主がそれを手放した瞬間の、鮮明な記憶の断片が見えるというものだった。大抵は、食べ残しの弁当パックに滲む深夜の孤独感や、使い古された雑誌に込められた退屈な午後の倦怠感といった、ありふれた感情の澱(おり)だ。だから湊は、厚い手袋を決して外さなかった。他人の人生の終着点を、これ以上覗き見たくはなかった。
その日も、いつもと同じはずだった。決められたルートを巡り、黒いポリ袋の山を機械的に荷台へ放り込んでいく。しかし、とある住宅街のゴミ集積所で、彼の目は一つの異物に釘付けになった。いくつかの袋の隙間から、古びた木製の小箱が顔を覗かせている。繊細な螺鈿(らでん)細工が施された、オルゴールだった。誰かが、誤って捨てたのだろうか。あるいは、意図的に。
魔が差した、としか言いようがなかった。湊は無意識に手袋を外し、冷たい空気に指先を晒した。そして、ためらいがちにそのオルゴールに触れた。
瞬間、彼の脳裏に、洪水のように映像が流れ込んできた。陽光が差し込む春の公園。満開の桜の下で、若い男が少し照れくさそうに、若い女にそのオルゴールを差し出している。女は花が咲くように笑い、そっと受け取る。ネジが巻かれ、澄んだ音色が響き渡る。それは、言葉にできないほどの幸福に満ちた光景だった。
映像は飛ぶ。年月が経ち、同じ男女が、今は老夫婦となって縁側に座っている。皺の刻まれた手で、妻が懐かしそうにオルゴールを撫で、夫がその肩を優しく抱いている。穏やかで、満ち足りた時間。
だが、最後の記憶は、それら全てを裏切るものだった。薄暗い和室。たった一人、老婆が座っている。その手の中にはあのオルゴール。彼女はネジを巻くが、旋律が流れ出すと、その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。嗚咽を殺しながら、彼女はオルゴールを黒いゴミ袋に押し込み、固く口を縛った。絶望と、深い悲しみの残響だけが、湊の心に突き刺さった。
湊はハッと我に返り、オルゴールから手を離した。心臓が嫌な音を立てていた。いつも見る断片的な記憶とは、あまりに質が違った。一つの人生の、幸福な始まりと、悲痛な終わりを同時に見せつけられたような感覚。なぜ、あんなにも大切にされていたものが、こんなにもあっさりと捨てられてしまうのか。あの涙の理由は、一体何だったのか。
その夜、湊は初めて、ゴミの向こう側にいる誰かの人生が、喉に刺さった小骨のように気になって仕方がなかった。
第二章 残響を追って
オルゴールの記憶は、湊の心を蝕んだ。眠ろうと目を閉じれば、桜の下で微笑む若い恋人たちの姿が浮かび、耳を澄ませば、老婆の抑えた泣き声が聞こえる気がした。これまで彼は、見てしまった記憶を、仕事の一部として無感情に処理してきた。他人の人生は他人のもの。自分には関係ない。そうやって線を引くことで、自分の精神を守ってきたのだ。
しかし、今回は違った。あのオルゴールが奏でた旋律が、湊の築いた壁の隙間から染み込み、心をかき乱す。翌日、湊は仕事中も上の空だった。収集ルートを巡りながら、無意識にあのオルゴールの捨てられていた集積所の周辺を探っていた。古い木造家屋が立ち並ぶ、静かな住宅街。どの家も同じように見えたが、一軒だけ、彼の記憶の中の縁側とよく似た佇まいの家があった。庭には手入れの行き届いた松が植えられ、小さな花壇には季節の花が控えめに咲いている。
湊は収集車を道の脇に止め、エンジンを切った。静寂の中、蝉の声だけが降り注ぐ。彼は車から降り、その家の前を、不審に思われないようゆっくりと通り過ぎた。玄関の古びた表札には「斎藤」と書かれている。その時、玄関の戸が静かに開き、杖をついた老人が一人、現れた。記憶の中の夫と、同じ顔だった。しかし、彼の表情には、縁側で妻に微笑みかけていた頃の穏やかさはなく、深い疲労と憂いが影を落としていた。
老人は、慣れた手つきで庭の花に水をやり始めた。その一つ一つの動作が、ひどくゆっくりとしていて、まるで重い何かを引きずっているように見えた。湊は、声をかける勇気が出なかった。何を言えばいい?「あなたの奥さんが捨てたオルゴールを拾ったのですが」とでも言うのか?それは、他人の心の傷に土足で踏み込む行為に他ならなかった。自分はただの清掃員だ。他人の物語に介入する資格などない。
彼は踵を返し、収集車に戻った。アクセルを踏み込みながら、バックミラーに映る老人の背中を見つめる。小さく、寂しげな背中だった。
「きっと、奥さんに先立たれたんだろう。だから、思い出の品を…」
湊は自分に言い聞かせるように呟いた。そう結論づければ、この胸のざわめきも収まるはずだった。ありふれた、悲しい別れの物語。それだけだ。だが、彼の心の奥底では、何かが違うと、小さな声が叫び続けていた。あの老婆の涙は、単なる死別による悲しみだけでは説明がつかない、もっと複雑な色をしていたように思えてならなかったのだ。
第三章 オルゴールの真実
数日が過ぎた。湊はあの界隈の収集日を、カレンダーに印をつけて待っていた。自分の行動がストーカーのようだと思いつつも、確かめずにはいられなかった。そして再びその日、斎藤家の前にゴミ袋が出されているのを見て、彼は車を止めた。
いつも通り、手袋をはめた手で袋を掴み、荷台へ投げ込もうとした、その時。袋の一つが破れ、中から白い菊の花束が数本、アスファルトに転がり落ちた。湊の心臓が、どくんと大きく跳ねた。彼はためらいながらも、手袋を脱ぎ、落ちた花の一本にそっと触れた。
流れ込んできたのは、厳かな葬儀の光景だった。黒い礼服の人々、線香の香り、そして遺影。そこに飾られていたのは、庭で水をやっていた、あの老人の穏やかな笑顔だった。
「……亡くなったのか」
湊は呆然と呟いた。やはり、夫が亡くなった悲しみに耐えきれず、妻はオルゴールを捨てたのだ。彼の最初の推測は、当たっていたのかもしれない。これで、全て終わった。この胸のつかえも、消えるはずだ。
そう思ったはずなのに、湊は収集車を走らせながらも、釈然としない気持ちを抱えていた。何かが腑に落ちない。まるで、パズルの最後のピースが、どうしても嵌まらないような居心地の悪さ。
処理場に戻り、ゴミを降ろした後も、彼は一人、運転席で考え込んでいた。そして、ある衝動に駆られた。彼は、数日前にこっそり持ち帰って、ロッカーの奥に隠しておいたあのオルゴールを取り出した。
もう一度だけ。湊は目を閉じ、全ての神経を指先に集中させて、オルゴールの冷たい木肌に触れた。もっと深く、もっと奥へ。記憶の断片の、さらにその先へ。
すると、今まで見えなかった映像が、ノイズの向こうから浮かび上がってきた。
それは、病院の一室だった。ベッドに横たわる老婆。彼女は虚ろな目で天井を見つめている。傍らで、老人がその手を握りしめている。
「…あなた、どなた?」
老婆のか細い声が、老人の心をナイフのように切り裂く。老人は顔を歪め、それでも優しく微笑みかけた。
「僕だよ。君の夫の、斎藤だ」
しかし、妻の瞳には何の光も宿らなかった。彼女は、長年連れ添った夫のことさえ、もう分からなくなっていたのだ。
そして、最後の記憶。オルゴールをゴミ袋に入れた、あの夜の和室。そこにいたのは、老婆ではなかった。涙を流していたのは、斎藤老人、本人だったのだ。彼は、数年前に認知症で亡くなった妻の遺したオルゴールを、ずっと大切に持っていた。しかし、彼自身の記憶もまた、病によって少しずつ蝕まれ始めていた。
「すまない…すまないな…」
老人は、オルゴールに語りかけていた。
「君の顔が、声が、思い出せなくなっていく。この音色を聞くたびに、大切な思い出が、指の間から砂のように零れていくのが怖いんだ。全部忘れてしまう前に、この美しい思い出ごと、手放させてくれ…」
嗚咽と共に、彼はオルゴールを袋に詰めた。湊が見た「涙を流す老婆」の姿は、老人の悲しみと絶望が、彼の記憶の中で、在りし日の妻の姿と重なって見えた幻影に過ぎなかった。
湊は、雷に打たれたように硬直した。自分が 얼마나 浅はかで、傲慢だったかを思い知らされた。ゴミから見える断片的な記憶だけで、他人の人生を勝手に解釈し、物語を完結させていた。愛する人を忘れてしまう恐怖。その絶望の深さを、自分は全く理解していなかった。捨てられたのは、思い出の品ではなかった。それは、失われゆく記憶そのものへの、悲痛な訣別だったのだ。
第四章 夜明けのレクイエム
湊は、ロッカーから持ち出したオルゴールを、自分のアパートの小さなテーブルの上に置いた。薄汚れた作業着を脱ぎ、シャワーを浴びてから、改めてその前に座る。まるで神聖な儀式でも執り行うかのように、彼はゆっくりとオルゴールの蓋を開け、小さなネジを巻いた。
カチ、カチ、という音の後、澄んだ、そしてどこまでも優しいメロディが部屋に流れ出した。それは、会ったこともない斎藤夫妻が生きた証。桜の下の出会い、縁側で過ごした穏やかな午後、そして、記憶が薄れていく中でも失われなかった深い愛情。その全てが、音色の中に凝縮されているようだった。
湊は目を閉じて、静かに耳を傾けた。この旋律は、斎藤老人が忘れたくなかった記憶そのものであり、同時に、忘れるために手放さなければならなかった痛みそのものだった。
これまで湊にとって、自身の能力は忌まわしい呪いでしかなかった。他人の人生のゴミ溜めを覗き見る、不快な行為。しかし、今、このオルゴールの音色を聞きながら、彼は初めて違う感情を抱いていた。
もし、この能力が、誰にも知られることなく捨てられていく無数の物語を、ほんの少しでも弔うためにあるのだとしたら。自分が拾い集めているのは単なるゴミではなく、名もなき人々の生きた証の、最後の欠片なのかもしれない。
翌朝。湊はいつもと同じ時間に起き、いつもの制服に袖を通した。しかし、彼の心は、昨日までとはまるで違っていた。アパートを出て、収集車に乗り込む。東の空が、徐々に白み始めていた。
街はまだ眠っている。路上に並ぶゴミ袋の列が、まるで墓標のように見えた。その一つ一つに、誰かの人生の断片が、喜びや悲しみと共に眠っている。
湊はアクセルを踏んだ。オレンジ色の点滅灯が、夜明け前の静かな街並みを照らし出す。
彼の仕事は何も変わらない。この街の、捨てられたもの全てを拾い集めること。だが、もう、その行為を呪うことはなかった。彼は残響のコレクターだ。語られることのなかった物語の、最後の聞き手なのだ。
朝日が昇り始め、世界が新しい一日を迎えようとしている。その光の中を、湊の収集車は進んでいく。名もなき人々のための、静かなレクイエムを奏でるように。彼の日常は、今日、確かに新しい意味を持って始まった。