まどろみのサーモボトル
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まどろみのサーモボトル

第一章 歪な朝の香り

朝の光が、見慣れない木目の天井を白く染めていた。俺、ミナトはベッドから身を起こし、一瞬の眩暈をやり過ごす。窓の外に見えるのは、隣家の瓦屋根ではなく、風にそよぐ銀杏並木。ここはどこだ? その疑問は、脳に染み込む霧のように、次の瞬間には溶けて消えた。そうだ、ここは俺の部屋だ。三ヶ月前に引っ越したばかりの、お気に入りのアパート。

日常はいつも、こんな風に始まる。パズルのピースがカチリと嵌まるように、世界が俺の記憶を上書きしていく。俺はミナト。この部屋に住む、ごく普通の会社員。それでいい。それ以外は、ただのノイズだ。

キッチンへ向かい、ステンレス製の魔法瓶を手に取る。昨日まで確かにあったはずの側面の小さな凹みが消え、代わりに知らないキャラクターのシールが貼られている。指先でそっと撫でると、シールの角がわずかに剥がれていた。違和感はある。だが、それもまた日常の一部として受け入れてしまう自分がいる。蓋を開け、中に残っていた液体をマグカップに注ぐと、ふわりと甘いミルクティーの香りが立ち上った。自分はブラックコーヒーしか飲まないはずなのに、その香りは不思議と心を落ち着かせた。

一口飲む。舌の上に広がる優しい甘み。その瞬間、脳裏を何かが掠めた。赤ん坊の柔らかな産声と、陽だまりのような温かいぬくもり。視界の端が、一瞬だけノイズで白く滲む。

「……またか」

呟きは誰にも届かず、静かな朝の空気に吸い込まれていった。俺はもう一度マグカップを傾け、他人の記憶が溶け込んだ、甘い偽りの日常を飲み干した。

第二章 魔法瓶の残響

会社へ向かう電車の中、吊り革を握る俺の視線は、手の中の魔法瓶に注がれていた。今日のそれは、マットな質感の黒色で、使い込まれた革製品のような風格さえ漂っている。昨日のキャラクターシールが貼られた銀色のものとは、まるで別物だ。

この魔法瓶だけが、世界の歪みを俺に告げている。日々ランダムに書き換えられる俺の「日常」において、唯一連続性を保ちながら、その矛盾を突きつけてくる存在。そして、その中に残された飲み物は、前日の持ち主の記憶の残響を運んでくる。

ある日は、キンキンに冷えたスポーツドリンクと共に、試合に負けた高校生の汗と悔しさが喉を焼いた。

またある日は、ハーブティーの湯気から、締め切りに追われる作家の焦燥感と、インクの匂いが立ち上った。

俺は、誰かの人生の断片を、毎朝少しずつ味わっている。それは、この滑らかに過ぎていく偽りの日常に空いた、小さな穴のようなものだった。その穴を覗き込むたび、俺は言いようのない孤独と、同時に奇妙な繋がりを感じていた。世界には、俺と同じように生きる「誰か」がいる。その事実だけが、足元がおぼつかないこの世界で、俺を支える唯一の重りだった。

その日、魔法瓶から香ったのは、微かな潮の匂いが混じった緑茶だった。それを口に含んだ瞬間、強烈なフラッシュバックが俺を襲った。

――青い空。白い砂浜。小さな手が、俺の手を強く握っている。隣で笑う、知らないはずの若い夫婦の顔。

「ミナト、ほら、見てごらん! 綺麗な貝殻だよ」

優しい母親の声。脳が痺れるほどの多幸感。ノイズが晴れた時、俺は電車のドアに額を押し付け、荒い息を繰り返していた。頬を、一筋の涙が伝っていた。

第三章 ノイズの正体

あの強烈なフラッシュバック以来、俺の世界は少しずつ侵食され始めた。街角のショーウィンドウに映る自分の顔が、一瞬、知らない少年の顔になる。オフィスで鳴り響く電話の音が、遠い波の音に聞こえる。それらは全て、あの砂浜の記憶に繋がっていた。

俺は確信し始めていた。あの断片こそが、俺の失われた「真の日常」なのではないか、と。魔法瓶が運んでくる他人の記憶の残響とは別に、この世界そのものが発する不協和音。それは、俺だけに向けられたメッセージのように思えた。

ある夜、俺は自分の「日常」であるはずの部屋で、本来そこにあるはずのないアルバムを見つけた。恐る恐るページをめくると、そこに写っているのは、やはり知らない家族の笑顔だった。しかし、どの写真にも、隅っこに小さな男の子が写り込んでいる。顔立ちは違うのに、その瞳は、紛れもなく俺のものだった。

ページをめくる指が震える。なぜ、誰もこの異常に気づかない? 同僚も、友人(と認識している人々)も、皆、この継ぎ接ぎだらけの世界を、完璧な日常として受け入れている。まるで、そういう脚本の舞台を演じさせられている役者のように。

俺だけが、舞台袖から世界の綻びを覗いている。

魔法瓶を固く握りしめる。今日のそれは、ずっしりと重い。中身は、冷え切った苦いコーヒー。その苦味は、真実を知りたいと願う渇望と、知ってしまった後の絶望を予感させていた。俺は、この世界の「異物」なのだ。

第四章 白い部屋の管理者

その朝、俺は今まで経験したことのない場所で目覚めた。

壁も、床も、天井も、すべてが継ぎ目のない乳白色の素材でできた、広大な空間。空気には匂いがなく、音もない。静寂が鼓膜を圧迫する。ここが「自分の仕事場」だと、俺の意識は告げていた。

正面の壁は、巨大なスクリーンになっており、無数の人々の日常が、まるで監視カメラの映像のように映し出されていた。笑う家族、口論する恋人、公園で遊ぶ子供たち。俺が昨日まで体験してきた、ありふれた「日常」の数々が、そこにあった。

「システム、オールグリーン。記憶領域の再分配を継続」

俺は、自分の口から滑り出た言葉に驚愕した。それは、俺の声ではなかった。冷たく、感情のない、機械的な音声。

その時、手元にあった魔法瓶に気づく。

それは、これまでに見たどの魔法瓶とも違っていた。傷一つない、完璧な鏡面仕上げのステンレス。俺の歪んだ顔が、そこに映り込んでいる。

それに触れた瞬間――世界が砕け散った。

灰色の空。崩れ落ちるビル。絶望の叫び。人々の記憶が濁流となって脳に流れ込んでくる。これは、世界の終わり。本当の、最後の日常の光景。

同時に、目の前のスクリーンに赤い警告が表示された。

【警告: シミュレーション領域N-345にて記憶断片の整合性低下】

【原因: オリジン・メモリーの希釈率が閾値に到達。プライマリー保持者との同期エラー発生】

俺は「管理者」として、すべてを理解した。この世界は、崩壊した現実から人々の幸福な記憶だけをサルベージして作られた、巨大なシミュレーション「サンクチュアリ」。人々は、ランダムに割り当てられた他人の幸福な記憶を「自分の日常」として生きている。俺が見ていたノイズは、システムの綻び。そして、俺こそが、失われゆく「真の日常」の記憶を保持する、最後のアンカーだったのだ。

第五章 サンクチュアリの選択

「ようやく、お目覚めですか」

声は、どこからともなく響いてきた。目の前に、光の粒子が集まり、徐々に人の形を成していく。それは男でも女でもなく、ただ純粋な意志の集合体のように見えた。サンクチュアリのシステムそのものだった。

「あなたは、この世界にとって特別な存在です。薄れゆく『真の日常』の記憶を、その魂に刻み込んだ最後の人間。だからこそ、あなたは世界の矛盾に気づくことができた」

光の人型は、静かに語りかける。システムの維持が困難になっていること。俺の持つ「真の記憶」が、それを安定させる最後の鍵であること。そして、俺に二つの選択肢があることを。

一つは、このサンクチュアリの中に、俺が望む最も幸福な日常を創造し、そこで永遠に生きること。砂浜で笑い合った、あの家族との日々。それは偽りかもしれないが、確かな幸福が約束される。その代わり、俺の「真の記憶」は、世界を維持するための礎として、完全にシステムへ吸収される。

もう一つは、このサンクチュアリをリセットし、外部への接続を試みること。まだどこかに残されているかもしれない、「真の現実」を探す、終わりのない旅。だが、成功の保証はなく、失敗すればこの偽りの楽園もろとも、全てが無に帰る。

「選びなさい」と、システムは言った。「あなたの幸福か、世界の可能性か」

第六章 まどろみのサーモボトル

俺は、手の中の魔法瓶を見つめた。

それはいつの間にか、見慣れた姿に戻っていた。幼い頃、両親と海へ行った日に買ってもらった、使い古されたステンレス製の魔法瓶。側面には、転んでつけた小さな凹みがある。あの夏の日の、幸福の傷跡だ。

蓋をひねると、懐かしい匂いがした。ぬるくなった麦茶の、少し甘くて香ばしい香り。それは、あの砂浜の記憶そのものだった。俺はそれを、ゆっくりと一口飲んだ。偽りの日常がもたらす一瞬の幸福ではない、確かに俺のものだった温かい記憶が、全身に染み渡っていく。

幸福な偽りか、不確かな真実か。

俺はどちらを選んだのだろう。偽りの楽園に安住し、過去の幸福に浸る道もあった。あるいは、すべてを破壊し、荒野へと旅立つ道も。どちらが正解で、どちらが間違いなのか、誰にも分かりはしない。

ただ、俺は静かに立ち上がった。

そして、手の中の魔法瓶の蓋をそっと開けると、中身をすべて、光の足元に注いだ。空になった魔法瓶は、まるで何かを待つように、静かな光を宿している。

俺は、空っぽのそれをシステムに向かって差し出した。

過去の記憶を手放し、未知の未来を受け入れるためか。

それとも、この空の器に、自分だけの「新しい日常」という名の物語を、これから注ぎ込んでいくためか。

答えは、まだない。

ただ、俺の目の前には、無限の可能性を秘めた、新しい朝が始まろうとしていた。

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