第一章 ノイズの海、真空の少年
教室のドアを開ける。
その動作が、トリガーだった。
ドォォォォン。
空気が破裂するような衝撃。
暴力的な「音」が、僕の脳髄を直接殴りつける。
甲高い、ガラスを爪で引っ掻くような嘲笑。
粘着質なシロップみたいに絡みつく、好意という名の欲情。
誰かの苛立ちが、低周波の振動になって床を揺らしている。
吐き気がした。
「よお、響(ひびき)!」
背後から肩を叩かれる。
クラスメイトの佐藤。
彼の笑顔と共に、調律の狂ったラッパみたいな「陽気さ」が鼓膜を突き破る。
「……おはよう」
喉の奥で言葉が詰まる。
僕は逃げるように鞄を探る。
指先が震える。
黄ばんだコード。プラグの折れたイヤホン。
僕の命綱。
耳にねじ込む。
世界に膜が張る。
ノイズが少しだけ、遠のく。
(……静かだ)
イヤホンの向こう側。
僕の中だけは、廃墟のコンクリートみたいに冷え切っている。
感情の音がしない。
自分が怒っているのか、悲しいのか。
音がないから、輪郭が分からない。
僕は、中身のないただの容れ物だ。
キーンコーン。
チャイムだけが、物理的な波長として空気を叩く。
担任が入ってきた。
その後ろに、見慣れない影。
「転校生だ」
ざわめき。
好奇心が、無数の虫の羽音みたいにブンブンと唸る。
『佐倉 透(さくら とおる)』
チョークの音が止まる。
彼が振り返る。
人懐っこい、完璧な笑顔。
「佐倉透です。よろしく!」
爽やかだ。
クラス中から、歓迎のファンファーレが湧き上がる。
けれど。
僕は息を止めた。
(……なんだ、あれ)
彼からは、音がしない。
静けさ、ではない。
真空だ。
彼の周囲だけ、空間が鋭利な刃物で切り取られている。
喜びも、緊張も、不安も。
一切の音が吸い込まれ、消滅している。
あまりにも不自然な『無音』。
「雨宮、隣、空いてるな」
先生に言われ、透が近づいてくる。
一歩。また一歩。
足音だけが、乾いた音を立てる。
「よろしく、雨宮くん」
彼は僕の目を見て、ニカっと笑った。
その表情筋の動きと、僕が感じる感覚が乖離する。
音がない。
まるで、ミュートにされた映像を見ているような気味の悪さ。
背筋が粟立つ。
本能が警鐘を鳴らす。
コイツは、人間じゃないのか?
「……あぁ」
引きつった笑みを返す。
僕の『空っぽ』と、彼の『真空』。
二つの異常な静寂が、教室の喧騒の中でカチリと噛み合った。
第二章 バグる世界
「ねえ、響くん」
放課後。
夕焼けが教室を赤く焼いている。
透が僕の机に手をついた。
「いつもそれしてるけど、何聴いてるの?」
指差されたイヤホン。
彼の瞳は、ビー玉みたいに透き通っている。
純粋な好奇心?
それとも、探りを入れている?
音が聞こえないから、判別できない。
「……壊れてるんだ」
「えっ?」
「何も聴いてない。ただの耳栓」
「ふーん。変わってるね」
透はケラケラと笑う。
物理的な声帯の振動。
けれど、そこに乗るべき「楽しさ」の波長がゼロだ。
不気味だ。
腹の底が冷える。
人間は、感情を隠しても「隠そうとする緊張音」が鳴る。
こいつには、それすらない。
「……佐倉」
僕は衝動的に聞いた。
「お前、本当は何も感じてないのか?」
「は?」
「楽しいフリ。いい人のフリ。全部、演技だろ」
透の動きが止まる。
一瞬、彼の輪郭が歪んだように見えた。
「まさか。俺、これでも人生満喫してるよ?」
貼り付けたような笑顔。
彼は鞄を肩にかける。
「じゃあね、また明日」
背を向けて歩き出す透。
その直後。
フッ。
音がしなかった。
視界の端。
彼がさっきまで触れていた僕の机の端。
置いてあったシャープペンシルが、消えた。
落ちた?
いや、違う。
掻き消えた。
「……え?」
床を見る。ない。
鞄の中? ない。
それよりも、もっと恐ろしい感覚が襲ってくる。
(あれ……どんな、柄だった?)
青かった気がする。
いや、黒?
メーカーは?
思い出せない。
記憶が、砂のようにサラサラと崩れ落ちていく。
「なんだ……これ」
心臓が早鐘を打つ。
透の背中を見る。
彼の右手が、逆光の中で揺らめいていた。
向こう側の黒板が、手を通して透けて見えた気がした。
指先がない。
いや、あるけれど、希薄だ。
存在の密度が足りていない。
彼は、消えかけている?
第三章 欠落の絶叫
異常は加速した。
翌日。
透が座っていた椅子のパイプが、ガラス細工のように透明になり、砕け散った。
彼が触れた教科書の文字が、白紙に戻った。
クラスメイトたちは首を傾げるだけ。
「あれ、ここ、誰の席だっけ?」
認識の齟齬。
世界が、佐倉透というバグを修正しようとしている。
彼の存在そのものを、Deleteキーで削除しようとしているみたいに。
放課後の屋上。
フェンス越しに街を見下ろす透を見つけた。
風が強い。
彼のシャツがバタバタと暴れている。
「佐倉」
呼びかける。
彼は振り返らない。
その背中は、昨日よりもさらに薄く、頼りなく見えた。
「……気づいてるんだろ」
僕は彼の隣に立つ。
「お前の周りのものが消えてる。お前自身の指も」
透は、自分の右手を見つめた。
小指の先端が、陽炎のように揺らいでいる。
「響くんには、聞こえるんだね」
唐突な言葉。
声色は、乾いた砂のようだった。
「『音』が」
「……あぁ」
「俺からは、何も聞こえない?」
「聞こえない。真空だ」
透は小さく笑った。
自嘲。諦め。
「俺が消したんだ」
彼はフェンスをギュッと掴んだ。
鉄の錆が、彼の手のひらをすり抜けていく。
「音がうるさすぎたから」
その時。
遠くの工事現場で、鉄骨が崩れるような音が響いた。
ガシャアァァァン!
ビクッ。
透の体が、異常なほど跳ねた。
彼の喉から、ヒュッという音が漏れる。
顔面が蒼白になり、脂汗が噴き出す。
瞳孔が開いている。
「やめ……」
彼は耳を塞いでうずくまった。
「やめろ、やめろ、その音は……!」
彼の周囲の空気が凍りつく。
音はしない。
感情の音は、一切しない。
なのに、僕の鼓膜の奥で、幻聴が鳴り響いた。
金属のひしゃげる音。
誰かの悲鳴。
サイレン。
そして、断絶。
(……事故?)
言葉での説明なんていらなかった。
彼の身体反応が、真空の向こう側にある「轟音」を物語っていた。
「聞こえなくしたのに……なんで、響くんだよ……!」
透が震える。
感情を殺し、音を消し、世界との接続を断った。
そうしないと、過去の轟音に押し潰されるから。
でも、その代償として、彼は世界から「不要なデータ」として消去されかけている。
「佐倉、お前……!」
「もういいんだ」
透の足が、膝から下が、透け始めた。
「このまま消えれば、音も消える。楽になれる」
「ふざけるな!」
僕は彼の方へ踏み出した。
怖い。
近づけば、僕まであの「消失」に巻き込まれるかもしれない。
指先が冷たくなる。
でも。
「楽になんかなるかよ! お前、今、泣いてるじゃないか!」
「泣いてない……音なんて、してない……」
「してる! 聞こえないけど、分かるんだよ!」
僕は透の胸ぐらを掴んだ。
感触が希薄だ。
綿菓子を掴んでいるみたいに、手応えがない。
「放してくれ……響くんまで、消えるぞ……」
「嫌だ!」
叫んだ瞬間、僕のポケットの中でイヤホンが暴れた気がした。
第四章 鼓動のレゾナンス
僕はずっと、自分の内側が『無音』なのが怖かった。
空っぽだから。
中身がないから。
でも、違うとしたら?
音がしないのは、空っぽだからじゃない。
僕が、聞くことを拒絶していたからだ。
「自分なんて何もない」と決めつけて、耳を塞いでいただけだ。
(聞け)
本能が叫ぶ。
自分の音を聞くのが怖い?
そんなこと言ってる場合か。
こいつが消えちまうんだぞ!
「響くん……?」
透の姿が、急速に透明度を増していく。
僕の手まで、色が抜け始めた。
指の感覚がなくなる。
怖い。
死ぬほど怖い。
僕は震える手で、壊れたイヤホンのプラグを握りしめた。
どこにも繋がらないプラグ。
それを、透の胸――心臓のあたりに、強く押し当てた。
そして、イヤーピースを自分の耳にねじ込む。
「何して……」
「繋ぐんだよ!」
僕は目を閉じた。
全神経を耳に集中させる。
(聞こえろ……聞こえろ……!)
最初は、ただの静寂。
死のような沈黙。
それが、透が作り出した防壁。
奥へ。もっと奥へ。
冷たい壁の向こう側。
ドクン。
微かな振動。
(怖い……助けて……生きたい……!)
声じゃない。
それは、熱だった。
マグマみたいな、ドロドロとした生の執着。
そして、それに呼応するように。
僕の胸の奥底からも、音が湧き上がった。
ドクン。
「あ……」
聞こえる。
これが、僕の音?
みっともなくて、弱くて、震えている。
でも、確かに鳴っている。
『死なせたくない』
その感情が波紋になり、プラグを通して透へ流れ込む。
僕の音が、透の防壁を叩く。
ガンガンと。
壊れろ。
壊れろ!
「う、あぁぁぁ……!」
透が背中を反らせた。
僕の手を通して、爆発的なエネルギーが逆流してくる。
パリーン。
何かが割れる音がした。
幻聴じゃない。
世界にヒビが入る音だ。
直後、決壊したダムのように、音が溢れ出した。
『痛い』
『怖い』
『ごめんなさい』
『生きたい』
フルートなんて上品なものじゃない。
チェロでもない。
それは、嵐だった。
泥だらけの、嵐のような轟音。
「は、はは……うるせぇ……!」
僕は涙を流しながら笑った。
鼓膜が破れそうだ。
でも、最高に心地いい。
透の輪郭が、急速に色彩を取り戻していく。
透けていた指先に、血の色が戻る。
僕が掴んでいた胸ぐらに、確かな質量と熱が宿る。
「響……くん……」
透が泣いている。
今度は、声を出して。
子供みたいに、しゃくりあげて。
その泣き声は、どんな音楽よりもリアルで、僕の胸を震わせた。
第五章 ノイズ混じりの世界で
目が覚めると、保健室の天井だった。
カーテンが風に揺れている。
静かだ。
身体を起こす。
頭をガンガンと殴り続けていた、あの「他人の感情の音」がしない。
廊下を歩く誰かの足音。
遠くのグラウンドの歓声。
物理的な音だけが、クリアに届く。
「……起きた?」
隣のパイプ椅子。
透が座っていた。
手には缶コーヒー。
その指先は、しっかりとした肌色で、もう向こう側は透けていない。
「佐倉」
「ん」
「音、消えたわ」
僕は自分の耳を触った。
特殊能力が消え失せていた。
あの嵐の中で、回路が焼き切れたのかもしれない。
あるいは、もう必要なくなったのか。
「そっか」
透は短く言った。
言葉数は少ない。
でも、彼の表情を見れば分かる。
眉の角度、口元の緩み、纏う空気の柔らかさ。
音なんてなくても、伝わってくる。
『ありがとう』と『ごめん』が混ざったような、照れくさそうな感情。
「俺の音、うるさかったろ」
透が苦笑する。
「ああ。鼓膜破れるかと思った」
「悪かったな」
「別に」
僕はポケットからイヤホンを取り出した。
黄ばんだコード。
もう、耳栓はいらない。
自分の音が聞こえない恐怖も、もうない。
ここに手を当てれば、いつだってドクドクと煩いくらいに鳴っているのだから。
「帰るか」
「おう」
僕たちは保健室を出た。
廊下には、夕暮れの光が満ちている。
コツ、コツ、コツ。
二人の足音だけが響く。
言葉はいらない。
ただ、隣に誰かがいて、その質量を感じられること。
その足音が、リズムを刻んでいること。
それだけで、世界は十分に賑やかだった。
僕は歩きながら、握りしめていたイヤホンをゴミ箱へ放り投げた。
カラン、と軽快な音がして、それは底へ落ちていった。