君が愛した虚像の質量
第一章 透ける指先
僕の恋人、ユナの心臓は、今も僕の胸の中で温かい。それは、この世界でただ一度だけ許される、魂の誓いの証。彼女が「真に愛する相手」として僕を選び、その心臓を物理的に預けてくれた日から、僕たちの世界は一つになった。彼女の喜びは僕の脈動となり、彼女の悲しみは僕の呼吸を浅くする。
しかし、僕には一つの呪いがあった。僕は、ユナが僕以外の誰かに抱く「愛の感情の総量」を、物理的な質量として知覚できてしまうのだ。それはまるで、見えない鉛の外套のように、僕の肩にずしりとのしかかる。そして、その質量が一定の閾値を超えた時、僕の肉体は存在の輪郭を失い、少しずつ世界に溶けていく。
最近、その「質量」が日に日に増していた。
アトリエの窓から差し込む午後の光が、僕の左手の指先を透かしていることに気づいたのは、三日前のことだ。まるで磨りガラスのように、指の向こう側にある絵筆のシルエットがぼんやりと見えた。血の気が引く。同時に、胸の中にあるユナの心臓が、まるで重さを失ったかのように、ふわりと軽くなっているのを感じていた。これは、危険な兆候だ。預けられた心臓から愛が完全に失われた時、それは砕け散り、僕もユナも同時に消滅する。
「カイ? どうかしたの」
イーゼルに向かっていたユナが、不思議そうに僕を見た。絵の具の匂いが混じった優しい声。僕は慌てて左手を隠した。
「ううん、何でもない。今日の光は綺麗だなって」
彼女は小さく微笑み、再びキャンバスに向き直る。その横顔に向けられる僕の愛は、少しも変わらないのに。ユナ、君は一体、誰を想っているんだ? その想いは、僕たちの存在そのものを脅かすほどの重さで、僕の体を蝕んでいる。君の心臓は、なぜ軽くなっていくんだ? 僕は、君が愛するその「誰か」を探し出し、その愛を奪わなければならない。君を、そして僕自身を、この世界から消し去らないために。
第二章 愛の共鳴器
街の裏通りにある、埃と記憶の匂いがする古道具屋。その薄暗い棚の奥で、僕はそれを見つけた。「愛の共鳴器(レゾネーター)」と古びた真鍮のプレートに刻まれた、掌サイズの機械。店主の老人は、皺だらけの顔で言った。「そいつは、心の重さを計る天秤さ。想いの強い方へ、針じゃなく、お前さんの心が傾く」。
藁にもすがる思いだった。このレゾネーターがあれば、僕の能力は増幅され、ユナの愛が向かう先をより正確に特定できるかもしれない。微かに振動するそれを懐にしまい、僕はユナの周囲を探り始めた。
ユナの最近の行動には、奇妙な点があった。夜中に一人、古いアルバムを食い入るように見つめていること。学生時代のデッサンを引っ張り出しては、ため息をついていること。僕は彼女の過去に「誰か」がいるのだと確信した。昔の恋人か、あるいは、忘れられない恩師か。嫉妬という名の冷たい棘が、僕の心を掻きむしる。
レゾネーターを握りしめ、僕はユナの古い友人に会った。彼女の大学時代の恩師の個展にも足を運んだ。だが、レゾネーターは沈黙を保ったままだ。僕の肩にかかる質量は変わらず、僕の体はさらに透明度を増していく。ユナと手を繋いでも、その温もりがどこか遠くに感じられた。
第三章 嫉妬の影
「最近、疲れてる?」
夕食の席で、ユナが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。スープ皿を持つ僕の手は、もはや照明の下ではっきりと透けて見えた。ユナに気づかれないよう、必死に隠す。
「少し、寝不足なだけだよ」
嘘をつくたびに、胸の中のユナの心臓が、か細く震える気がした。その鼓動はあまりに弱々しく、まるで冬の陽だまりにいる蝶の羽ばたきのようだ。消えてしまいそうな命の音。焦りが僕を駆り立てた。
僕は狂ったように、ユナが関わる全ての人間を疑った。画廊のオーナー、新しくできたモデル仲間、果ては行きつけのカフェの店員まで。レゾネーターを握り、彼らに意識を集中させる。しかし、機械はただ冷たい金属の感触を返すだけ。僕が感じる途方もない「質量」の発生源は、どこにもいなかった。
僕の体は、もはや胸のあたりまで透け始めていた。ユナを抱きしめても、彼女は僕の体を通り抜けてしまうのではないかという恐怖に襲われる。彼女は僕の異変に気づいている。だが、何も聞いてこない。その優しさが、僕をさらに孤独にした。ユナ、教えてくれ。君の心を奪った男は、どこにいるんだ。
第四章 砕ける心音
その夜、アトリエから微かな嗚咽が聞こえた。僕は息を殺してドアの隙間から中を覗く。月明かりに照らされた部屋の中央で、ユナが自分の描いた一枚の自画像の前に立ち、肩を震わせていた。それは、数年前に彼女が賞を獲った作品で、自信と希望に満ちた表情の、若き日のユナが描かれている。
その瞬間、僕の肩に、これまで感じたことのないほどの圧力がのしかかった。息が詰まる。立っていることすらままならないほどの、圧倒的な質量。同時に、胸の中の心臓が、ガラスにひびが入るような、きしんだ音を立てた。
——危ない!
恐怖に突き動かされ、僕はアトリエに飛び込んだ。そして、震える手で懐のレゾネーターを取り出し、祈るように、目の前の自画像へと向けた。
——ゴッ。
鈍い衝撃と共に、レゾネーターが僕の手の中で重く沈んだ。まるで強力な磁場に引かれた砂鉄のように、激しく振動し、灼けるような熱を帯びている。間違いない。この途方もない愛の質量は、この絵——いや、この絵に描かれた「ユナ」へと向けられている。僕が血眼になって探していたユナの愛の相手は、外部の誰でもなかった。
第五章 虚像の在り処
「ユナ……」
僕の声に、彼女はびくりと体を震わせた。涙で濡れた瞳が僕を捉える。
「どうして……ここに」
「教えてくれ。君が愛しているのは、誰なんだ?」
僕の問いに、ユナの顔が絶望に歪んだ。彼女は自画像に描かれた自分を指さし、かき消えそうな声で呟いた。
「この子よ……。才能に溢れて、何でも描けると信じていた、過去の私……」
ユナは泣きながら全てを告白した。最近、深刻なスランプに陥り、一枚も絵が描けなくなってしまったこと。描こうとすればするほど、かつての自分の才能が輝いて見え、今の自分がひどく惨めに思えたこと。彼女は、今の自分を愛せなくなっていたのだ。彼女が焦がれ、愛していたのは、もはや手の届かない「過去の自分」という虚像だった。
その、自己という虚像への強すぎる愛が、僕の体を消し去ろうとする「質量」の正体だった。そして、現在の自分を否定し、愛せなくなったことで、僕に預けられた彼女自身の心臓から「愛の質量」が失われ、砕け散る寸前まで追い込まれていたのだ。
全てが繋がった。僕を消し、二人を破滅させようとしていたのは、嫉妬でも裏切りでもなく、ユナの、あまりにも純粋で、痛ましいほどの自己愛の喪失だった。
第六章 愛の質量
「そうか……。そうだったのか、ユナ」
僕は、ほとんど透けてしまった体で、震える彼女をそっと抱きしめた。もう、僕の腕には温もりも、確かな感触もない。けれど、ユナは僕の存在を確かに感じてくれた。
「ごめん……なさい……。私のせいで、カイが……」
「謝らないで」
僕は彼女の耳元で囁いた。もう、迷いはなかった。ユナを救う方法は、僕を救う方法は、たった一つしかない。
「君が君自身を愛せないのなら、僕が愛す。僕の愛で、君の心をもう一度満たしてあげる」
僕は目を閉じ、全意識を自らの存在そのものに集中させた。僕がユナを愛する気持ち、共に過ごした日々の記憶、彼女の笑顔を見たときの喜び。その全てを、純粋な「愛の質量」へと変換していく。
「カイ、だめ! やめて!」
ユナの悲鳴が聞こえる。しかし、もう止められない。僕の体は足元から光の粒子となって、きらきらと舞い上がり始めた。それは、まるで逆さまに降る雪のように美しかった。光の粒子は、僕の胸を通り抜け、彼女の心臓へと吸い込まれていく。
温かい。ずっしりと、命の重みが戻ってくる感覚。
ユナの心臓が、僕の愛で満たされていく。僕の存在と引き換えに。
「忘れないで、ユナ。君は、僕が命を懸けて愛した、世界で一番素敵な人なんだ」
それが、僕の最後の言葉になった。
第七章 君の心に残るもの
カイが完全に消滅した時、アトリエには静寂だけが残った。しかし、ユナの胸の中では、力強く、そして温かい鼓動が響いていた。砕け散る寸前だった心臓は、まるで生まれたての赤ん坊のように満たされ、ずっしりとした確かな重みを取り戻していた。それは、カイが存在の全てを懸けて注いでくれた、見返りを求めない愛の質量だった。
涙が頬を伝い、キャンバスの前に置かれたパレットに落ちる。悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。けれど、不思議と、もう自分を惨めだとは思わなかった。胸に宿るこの温かい重みが、カイの最後の言葉が、「君は素晴らしい」と絶えず語りかけてくるからだ。
ユナは、ゆっくりと立ち上がった。そして、新しい、真っ白なキャンバスをイーゼルに立てかける。震える手で絵筆を握り、パレットの上で色を混ぜた。
彼女が最初に描いたのは、光だった。
アトリエの窓から差し込む、午後の光。カイが「綺麗だね」と言ってくれた、あの日の光。
もう、カイの姿はない。けれど、彼の愛は、ユナの心臓の中で永遠に脈打ち続ける。彼女が自分自身を愛し、生きていく限り、その重みと温もりが消えることはない。ユナは涙を拭い、キャンバスに向き直った。その瞳には、深い悲しみと共に、確かな再生の光が宿っていた。