アウレリエルの片道切符

アウレリエルの片道切符

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第一章 振り返れない男

俺の首は、まるで錆びついた鉄の枷にはめられたかのように、決して後ろを向かない。医者はそれを『指向性固定症候群』と呼んだ。もっと分かりやすく言えば、俺は物理的に後退することができないのだ。振り返ることも、後ろ歩きも、体の向きを百八十度変えることすら、脳が拒絶する。俺の世界は常に一方通行で、視界は常に未来だけを捉えている。

人々は同情し、あるいは奇異の目で俺を見た。だが、俺自身はこの呪いにも似た症状を、ある種の罰として受け入れていた。五年前、俺のたった一つの過ちが、妹のリーナから光を奪ったあの日から。俺がほんの少し、注意深く振り返っていれば防げたはずの事故だった。以来、俺は過去を振り返る資格を失ったのだと、そう信じ込んでいる。

だからこそ、この旅に出た。

風化した羊皮紙に描かれた、一本の線で終わる地図。終着点にはただ一言、『アウレリエルの泉』と記されている。古文書によれば、その泉の水は時の流れを逆しまにし、あらゆる後悔を洗い流す力を持つという。病を治すためではない。俺は、あの日に戻りたかった。リーナの笑顔が消える、あの瞬間に。

乾いた風が砂塵を巻き上げ、俺の外套を激しく叩く。目の前には、地平線まで続く荒野が広がっていた。分かれ道はない。ただひたすらに、前へ。地図は風にあおられ、まるで早く行けと急かすように音を立てた。ポケットの中の、リーナがくれたお守りの冷たい感触だけが、この孤独な旅路の唯一の慰めだった。振り返れない俺にとって、前進は唯一の選択肢であり、そして唯一の希望だった。だがその希望は、ガラス細工のように脆く、罪悪感という重たい鎖に繋がれていた。俺は唇を噛みしめ、陽炎の揺らめく荒野へと、また一歩、足を踏み出した。

第二章 分かれ道の囁き

旅を始めて幾度目の月が昇っただろうか。一方通行の道は、時として残酷な選択を強いた。目の前に現れたのは、巨大な岩が二つに割れたような、双子の峡谷だった。地図には、この分岐に関する記述はない。右か、左か。一度選んだら、もう一方の道を知ることは永遠にできない。

俺は立ち尽くした。額に滲む冷や汗が、砂埃にまみれた頬を伝う。もし間違えたら?泉から永遠に遠ざかってしまったら?後悔が、見えない蔓のように足に絡みつき、俺をその場に縫い付けた。進むしかないのに、進むことができない。この矛盾こそが、俺の病の本質だった。

「若いの、道に迷ったのかね」

しわがれた声に、俺はびくりと顔を上げた。いつの間に現れたのか、深いフードを目深にかぶった老婆が、すぐそばの岩に腰掛けていた。その姿はあまりに自然で、まるでずっと前からそこに存在していた岩の一部かのようだった。

「どちらの道も、同じ場所へ続いているように見える。だが、片方は陽の光を浴び、もう片方は永久の影に閉ざされている。お前さんは、どちらを選ぶ?」

老婆は、エラと名乗った。彼女もまた、アウレリエルの泉を目指す旅人だという。その目はフードの奥で鋭く光り、まるで俺の心の奥底まで見透かしているかのようだった。

俺は答えられなかった。陽の光は希望を思わせるが、影の道には何か、知られざる近道があるのかもしれない。思考が堂々巡りを始める。リーナを失ったあの日も、俺は安易な選択をしたのだ。もっと慎重になるべきだ。いや、考えすぎることが間違いを呼ぶのかもしれない。

「お前さんの足元を見てみな」エラが静かに言った。「お前さんの影は、どちらを向いている?」

言われて足元を見ると、西に傾きかけた太陽が作った俺の長い影は、くっきりと左の、影の峡谷へと伸びていた。それはまるで、道標のように見えた。

「影は、光があるからこそ生まれる。そして、光から逃れることはできん。進むべき道は、いつだってお前さん自身が示しているのさ」

その言葉に、俺は何かを突き動かされた。決断を他人に委ねるのではなく、自分自身の中にある答えを見つける。それは、この旅で初めての感覚だった。俺は礼を言うと、影が示す左の道へと足を踏み入れた。エラは何も言わず、静かに俺の後をついてきた。影の峡谷は冷たく、湿った空気が肌を刺したが、不思議と心は凪いでいた。この老婆との出会いは、偶然なのだろうか。それとも、この一方通行の旅が用意した、必然の導きなのだろうか。俺はまだ、その答えを知らなかった。

第三章 枯れた泉と映る顔

影の峡谷を抜けると、景色は一変した。荒涼とした大地が嘘のように、そこには静謐な空気に満ちた、円形の盆地が広がっていた。そして、その中央に、旅の目的地であるはずの『アウレリエルの泉』があった。

だが、俺は息を呑んだ。そこに満ちていたのは、時を遡るという奇跡の水ではなかった。ひび割れた大地が剥き出しになった、ただの枯れた窪地。希望の終着点は、絶望の始まりを告げるかのように、静まり返っていた。

「……嘘だ」

喉から絞り出した声は、乾いた風にかき消された。膝から崩れ落ちそうになる俺の視界の隅で、窪地の底に何かがキラリと光った。震える足で近づくと、そこには一枚の、大きな円形の鏡が置かれていただけだった。埃をかぶった鏡面が、憔悴しきった俺の顔をぼんやりと映し出す。これが、結末だというのか。

「泉など、初めからなかったのさ」

背後から、エラの静かな声が響いた。振り返れない俺は、彼女の表情を窺うことができない。

「では、あの地図は……伝説は、全部……」

「私が作った、お前さんのための嘘だよ」

その言葉は、雷鳴のように俺の頭を打ち抜いた。混乱する俺に構わず、エラはゆっくりとフードを脱いだ。そして、俺の前に回り込み、その顔を現した。

深い皺。だが、その瞳の奥には、見間違えるはずもない、懐かしい光が宿っていた。口元には、あの事故で負った、消えることのない傷跡。そして彼女は、言葉を発する代わりに、震える手で、慣れた手つきで宙に言葉を紡ぎ始めた。手話。リーナが声を失ってから、俺たちが二人で覚えた、秘密の会話。

『お兄ちゃん。私だよ、リーナ』

時間が止まった。世界から音が消えた。目の前にいるのは、老婆などではない。苦労を重ね、歳月をその身に刻んだ、俺の妹、リーナだった。

『ごめんなさい。ずっと、後をつけていたの』彼女の手が続ける。『『指向性固定症候群』なんて病気はない。それは、お兄ちゃんが自分で作った呪い。あの日から、過去を振り返るのが怖くて、前しか見られなくなっただけ』

罪悪感。俺が罰だと思っていたものは、俺自身が作り出した、過去から逃げるための言い訳だったのだ。泉も、地図も、すべては俺をこの場所に連れてくるための、リーナの仕掛けだった。俺を、この鏡の前に立たせるために。

『見て。鏡に映る顔を』リーナの手が、鏡を指さす。『過去ばかり見ているあなたの顔を。でも、私はここにいる。あなたの目の前にいるのに、あなたはずっと、五年前の私しか見ていなかった』

鏡に映る自分の顔が、涙で歪んでいく。俺は一体、何のために旅をしてきたのだ。過去を変える?違う。俺はただ、今のリーナと向き合うことから、逃げていただけだったのだ。

第四章 はじまりの一歩

どれくらいの時間、俺はそこにうずくまっていたのだろう。枯れた泉の底で、鏡に映る情けない自分と、静かに寄り添う妹の姿を、ただ見つめていた。リーナは何も言わず、ただそばにいてくれた。その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の赦しと愛情を伝えていた。

俺は、ずっと間違っていた。過去は変えられない。俺がすべきだったのは、時間を巻き戻すことではなく、傷ついたリーナの手を取り、共に未来へ歩き出すことだったのだ。この、前にしか進めない体で。

「……リーナ」

掠れた声で妹の名を呼ぶ。彼女は驚いたように顔を上げた。

「ごめん。本当に、ごめん」

涙が後から後から溢れて、ひび割れた大地に染み込んでいく。それは、後悔の涙であると同時に、長い間凍りついていた心が溶け出す、温かい雫でもあった。

俺は、ゆっくりと立ち上がった。そして、深く、深く息を吸う。今まで鉄の枷のように感じていた首筋の強張りが、少しだけ和らいだ気がした。

俺は、試してみることにした。

ゆっくりと、意識を背後へと向ける。ぎしり、と体の内側で何かが軋む音がした。脳が、全身が、激しい抵抗を示す。恐怖が再び鎌首をもたげた。だが、俺はもう逃げないと決めたのだ。目の前にいるリーナの、現在の彼女の姿を目に焼き付けながら、俺は全ての意志を込めて、首を、体を、捻ろうとした。

ほんの数ミリ。それが限界だった。しかし、それは俺にとって、地球を半周するよりも遥かに遠く、困難な一歩だった。物理的にはほとんど変わらない。だが、俺の心は確かに、過去を振り返り、それを受け入れたのだ。

「ありがとう、リーナ。俺をここまで連れてきてくれて」

俺はリーナに向き直り、彼女の小さな手を、そっと握った。彼女は微笑み、力強く握り返してくれた。その手の温もりが、これからの俺たちの道しるべになるだろう。

アウレリエルの泉は、枯れてなどいなかった。それは、自分自身と向き合う者の心の中にだけ湧き出る、始まりの泉だったのだ。

俺たちは二人、盆地を後にした。どちらへ向かうというあてもない。だが、もう道に迷うことはないだろう。振り返ることはまだできないかもしれない。だが、隣にはリーナがいる。これからは、二人で進むのだ。過去を背負い、現在を慈しみ、まだ見ぬ未来へと続く、この片道切符の旅を。

空はどこまでも青く、風は優しく俺たちの背中を押していた。

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