第一章 硝子の街の幻影
僕の住む街は、緩やかに死んでいく人々で満ちている。生まれたばかりの赤子の肌は、磨かれた乳白色の石のように不透明だが、時を重ねるごとにその輪郭は淡く、薄くなり、やがては春先の陽炎のように風景に溶けていく。身体の透明度が、その人の生きた時間の証だった。
僕、レンの身体は、同年代の若者たちより少しだけ透き通っていた。指先を光にかざせば、向こう側の煉瓦の壁がぼんやりと滲んで見える。それは、僕が持つ特異な体質のせいかもしれなかった。僕には、人々が忘れた記憶が、物理的な幻影として見えるのだ。
街角に佇む、泣き濡れた顔の少女。その手には古びたオルゴール。誰も彼女に気づかない。彼女は、十年前にこの場所で母とはぐれ、その恐怖を心の奥底に封じ込めた誰かの「忘れられた記憶」そのものだ。幻影に触れれば、その記憶が持つ感情が、嵐のように僕の五感に流れ込んでくる。だから僕は、いつも幻影から目を逸らし、足早に通り過ぎる。他人の過去に溺れれば、自分の現在地を見失ってしまうからだ。
「レン!」
背後からの声に振り返ると、息を切らしたアリアが立っていた。幼馴染の彼女の身体は、健康的な若さを象徴するように、まだほとんど透けていない。だが、その瞳に宿る光は、まるで磨りガラスを通したように翳っていた。彼女の白い指が、僕の腕を掴む。その冷たさに、心臓が小さく跳ねた。
「お願い、助けて。お兄ちゃんが……ユキ兄が、消えちゃう」
第二章 欠けた旋律
アリアの兄、ユキさんの部屋は、沈黙の匂いがした。かつては彼が爪弾くギターの音色と、新しい旋律を生み出す喜びに満ちていた空間。しかし今、そこにいるユキさんの身体は、半分以上が向こう側の壁紙の模様を透かしていた。まるで、この世界に存在することを諦めてしまったかのように、その輪郭は曖昧だった。
「最近、誰も兄さんのことを思い出せなくなってきてるの。昨日も、隣のおばさんが『あら、アリアちゃんは一人っ子だったかしら』なんて……」
アリアの声が震える。人々から忘れられること。それは、透明化が最終段階に近づいている証拠だ。存在の痕跡そのものが、世界から削り取られていくのだ。
僕は、虚ろな目で窓の外を眺めるユキさんの傍らに、揺らめく幻影を見た。作曲途中の楽譜を前に、頭を抱えて苦悶する若き日のユキさん。僕は覚悟を決め、その幻影の肩にそっと指を伸ばした。
瞬間、奔流が僕を襲う。
焦燥感。鍵盤を叩く指の痛み。インクの乾いた匂い。コーヒーの苦味。そして、新しいメロディが生まれる瞬間の、脳髄が痺れるような歓喜。だが、その記憶の奔流は、ある一点でぷつりと途切れていた。まるで映画のフィルムが焼き切れたかのように、そこだけがぽっかりと抜け落ちている。何かがおかしい。近年、急速に透明化する若者たちの記憶には、必ずこの「欠落」が存在した。
ふと、机の隅に置かれた小さな砂時計が目に留まった。黒檀の枠に収まった、繊細なガラス細工。その中の砂は、星屑のように微かな光を放っていた。
第三章 砂時計の代償
「それは、ユキの一族に代々伝わる『時を紡ぐ砂時計』だって、お兄ちゃんが言ってた」
アリアは、震える指でその砂時計に触れた。砂時計の砂は、持ち主の『存在の記憶』そのものなのだという。
僕は、ユキさんを、そして同じように消えゆく若者たちを蝕むものの正体を知りたかった。そのためには、あの欠落した時間の謎を解き明かすしかない。僕はアリアの制止を振り切り、砂時計を手に取った。ひやりとしたガラスの感触。これを逆さまにすれば、失われた記憶の一部を呼び戻せる。だが、代償として僕自身の寿命、つまり存在の時間が削られる。
迷いは一瞬だった。
僕は砂時計を逆さまにした。
途端に、胸の奥に氷の杭を打ち込まれたような、鋭い痛みが走った。僕の指先が、さらに一段、透明度を増すのが見えた。きらきらと輝く砂が、重力に逆らって上へと昇っていく。すると、目の前の空間が歪み、ノイズ混じりの新たな幻影が立ち上った。
それは、欠落した時間の一部だった。ユキさんが、暗闇の中で「何か」と対峙している。その「何か」は、具体的な形を持たない、ただただ巨大な影のような存在だった。影は、ユキさんの中から光る糸のようなものを引きずり出し、それを貪り食らっているように見えた。あれは……記憶だ。ユキさんの記憶が、何者かに捕食されている。
第四章 時間の捕食者
一つの記憶だけでは足りない。僕は、この現象の全体像を掴む必要があった。街に出て、消えかけている若者たちの「忘れられた記憶」の幻影を探し、次々とそれに触れていった。
ハンバーガーショップで友人と笑い合った記憶。
夕暮れの公園で、告白できずに俯いた記憶。
将来の夢を語り合った、屋上での記憶。
一つ一つの記憶に触れるたび、僕の精神は削られ、アイデンティティは希薄になっていく。僕がレンであるという感覚が、他人の感情の濁流に洗い流されていく。だが、僕はやめなかった。そして、複数の記憶の渦の中で、ついに気づいた。
彼らの記憶から欠落している「特定の時間」は、全て繋がっていた。個々の記憶の断片は、巨大なジグソーパズルのピースだったのだ。僕は最後の力を振り絞り、全ての記憶を脳内で同時に再生する。
世界が、悲鳴を上げた。
圧倒的な情報の洪水。無数の人々の記憶、感情、思考が、僕という器の中で混ざり合い、一つの巨大な意志を形作る。それは、悪意ある存在などではなかった。それは、この世界を構成する法則そのもの――『時間』だった。
情報と記憶で飽和した世界は、自らのバランスを保つために、悲しい選択をしていた。未来への影響が少ないと無作為に判断された若い命から、その記憶と存在を少しずつ「間引く」ことで、世界の総容量を調整しようとしていたのだ。時間の捕食者。その正体は、世界の自浄作用だった。
僕の意識は、時間の奔流に飲み込まれ、闇に沈もうとしていた。
第五章 共有される魂の重さ
もう、自分が誰なのかも分からなくなりかけていた。僕の身体はほとんど透き通り、足元がおぼつかない。だが、その意識の深淵で、僕は聞いた。
『生きたい』
『まだ、消えたくない』
『僕の音楽を、届けたい』
ユキさんの、そして名前も知らない大勢の若者たちの、魂の叫びだった。それは、僕自身の叫びでもあった。
消去ではない。間引くことでは、本当の解決にはならない。僕は、時間の巨大な意志に向かって、か細い声で問いかけた。いや、提案した。
――消すのではなく、分かち合うことはできないのか。
一個人が背負うには重すぎる記憶や存在の重荷を、世界全体で少しずつ分け合って支える。一人の天才の百年よりも、百人の凡人が生きる一年の方が、世界を豊かにすることだってあるはずだ。個の記憶を、世界の共有財産とするのだ。
それが、僕が見つけた唯一の答えだった。
僕は最後の力で、懐から『時を紡ぐ砂時計』を取り出した。アリアから託された、ユキさんの記憶が結晶化した砂。しかし、僕はそれを逆さまにはしなかった。僕自身の、まだわずかに残された存在の記憶を、この砂に込める。
僕は、僕自身の砂時計になる。
「アリア、ありがとう」
誰にともなく呟き、僕は自らの胸に砂時計を強く押し当てた。ガラスが砕け、光る砂が僕の心臓に流れ込む。僕の身体が、急速に、眩い光を放ちながら透明になっていく。
第六章 世界に溶ける唄
レンという青年は、その日、世界から完全に消えた。彼の身体は光の粒子となり、春の風に溶けていった。
しかし、何もかもが無に帰したわけではなかった。
彼が最後に放った光は、優しい雨のように世界中に降り注いだ。街を歩く人々は、ふと空を見上げ、なぜか胸が温かくなるのを感じた。ある者は、忘れかけていた古い友人の顔を思い出し、電話をかけた。ある者は、しまい込んでいた古いアルバムを、懐かしい気持ちで開き始めた。
アリアの部屋では、虚ろだったユキの瞳に、確かな光が戻っていた。彼の身体はまだ透けていたが、その輪郭は以前よりも少しだけ濃くなっている。そして、アリアは気づく。自分の口が、知らないはずのメロディを口ずさんでいることに。それは、ユキが完成させることのできなかった、あの楽譜の続きの旋律だった。レンが最後に共有してくれた、ユキの記憶の欠片。アリアの頬を、一筋の涙が伝った。
世界は、少しだけ変わった。人々は、他者の記憶の重さを、無意識のうちに分かち合うようになった。急速な透明化は止まり、誰もが等しく、緩やかに時を重ねていく。
街には今も、時折、誰かの「忘れられた記憶」が幻影として揺らめいている。だがそれはもう、レンだけが見ていた孤独な幻ではない。それは、風が運ぶ唄のように、誰もがふと耳を澄ませば感じることのできる、温かい追憶の光となっている。
世界全体の集合意識の一部となった『記憶の管理者』。それが、レンが最後にたどり着いた、新しい存在の形だった。