音譜蒐集家と沈黙の奏鳴曲

音譜蒐集家と沈黙の奏鳴曲

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第一章 沈黙の砂漠と失われゆく音階

風が砂丘を撫でる音は、まるで巨大な弦楽器の弦が弾かれるかのようだった。リオンは膝をつき、古びた真鍮の音叉を砂に突き立てる。音叉に繋がれた水晶が、微かに震えながら琥珀色の光を放ち始めた。彼の名はリオン。「音譜蒐集家(ノート・コレクター)」と呼ばれる、失われゆく世界の音を集める旅人だ。

「……来た」

リオンが呟いた瞬間、地平線の彼方から砂の壁が押し寄せてきた。轟音。世界が引き裂かれるような、荒々しくも荘厳な砂嵐の咆哮。並の旅人なら恐怖に身を竦ませるその音を、リオンは恍惚とした表情で受け止めていた。水晶の輝きが増し、砂嵐の持つ複雑な和音を、その結晶構造の中へと貪欲に吸い込んでいく。これが彼の力。世界のあらゆる「音」を記録し、自らの力として使役する能力。

収集が完了に近づいた、その時だった。砂の中から巨大な蠍に似た甲殻獣が、鎌のような尾を振りかざして飛び出してきた。咄嗟に身を躱すが、その風圧だけで体勢が崩れる。リオンは舌打ちし、腰の革袋から別の水晶――黒曜石のように鈍く輝くもの――を取り出した。

「喰らえ、『落石の不協和音』!」

彼が叫ぶと、水晶が砕けんばかりに振動し、凝縮されていた衝撃音が解放された。不可視の音塊が甲殻獣を打ち据え、その硬い殻に亀裂を走らせる。獣は苦悶の叫びを上げ、砂の中へと逃げ去っていった。

静寂が戻る。しかし、リオンの表情は晴れなかった。彼はそっと左耳に手を当てる。キーン、という耳鳴りの後、世界の音から高音域が僅かに抜け落ちていた。風の歌声が、一枚の薄い膜を隔てたようにくぐもって聞こえる。音を消費するたびに、彼の聴覚は代償として削られていくのだ。

「……また、少し失くしたか」

自嘲気味に呟き、彼は立ち上がる。故郷の村で待つ、妹のリーナの顔が脳裏をよぎった。リーナは『無音病』に罹っていた。徐々に世界から音が消えていき、やがて完全な沈黙の中で心を閉ざしてしまうという不治の病。リオンがこの危険な旅を続ける理由はただ一つ。伝説の古代都市「エコーリア」に眠るという「原初の音」を手に入れ、妹を救うためだ。その音は、あらゆる失われたものを取り戻す力を持つと伝えられている。

自分の聴覚を失うことと、妹を救うこと。その二つを天秤にかけながら、リオンの冒険は始まったばかりだった。彼は砂嵐の和音を封じ込めた水晶を懐にしまい、まだ見ぬ音を求めて、再び乾いた大地を歩き始めた。彼の背後には、楽譜のように美しい風紋がどこまでも続いていた。

第二章 囁きの谷の試練

幾つもの乾いた大地を越え、リオンは「囁きの谷」にたどり着いた。そこは、無数の奇岩が天を突き、その間を風が通り抜けることで、絶えず音楽が奏でられている場所だった。フルートのように澄んだ音、ハープのように優しい音、時にパイプオルガンのように荘厳な音。谷全体が、自然という名の演奏家が奏でる巨大な楽器のようだった。

「素晴らしい……」

リオンは息を呑み、新たな音の収集に没頭した。岩肌を滑る風の旋律、洞窟に反響する水滴のアルペジオ、夜光虫の微かな羽音のクラスター。彼の持つ水晶は、次々と新たな音色で満たされていった。この谷は、彼にとって力の源泉そのものだった。

谷の最奥に、エコーリアへの道を知るという老賢者が住むという言い伝えを頼りに、彼はさらに深くへと進んでいった。そして、滝の裏にある小さな庵で、ついにその人物と出会う。賢者は、リオンを一目見るなり、その目的を言い当てた。

「『原初の音』を求める者か。その目に宿る渇望と、耳に巣食う寂寥が、お前の旅の過酷さを物語っておる」

リオンは驚きながらも、妹のことを話し、賢者に助けを求めた。賢者は静かに頷くと、一つの試練を彼に課した。

「この谷で最も静かなる音、『沈黙の息吹』を儂の元へ運んでこい。それができた時、エコーリアへの道を示そう」

最も静かな音。それは矛盾した問いに聞こえた。リオンは最初、風の途切れた瞬間の無音を記録しようとした。しかし、それでは水晶は何も捉えない。彼は思考を巡らせた。音とは空気の振動。ならば、完全に振動のない状態を作り出すことは不可能に近い。

彼は数日間、谷を彷徨った。あらゆる音に耳を澄まし、その本質を探ろうとした。雨が土に染み込む音、木の芽が吹く音、陽光が岩を温める音。彼は聴覚を研ぎ澄まし、これまで意識してこなかった微細な音の世界へと分け入っていった。その過程で、彼は気づき始めていた。力として消費するためだけではない、音そのものが持つ生命の輝きに。

試練の七日目の夜。谷に季節外れの雪が舞い始めた。リオンは、はっと顔を上げた。雪片が、音もなく地面に降り積もっていく。しかし、それは完全な無音ではない。雪の結晶が空気を押し分け、地面の雪と触れ合う、その瞬間に生まれる極めて微かな振動。それは耳では聞こえない、肌で感じるほどの、静寂に満ちた音だった。

彼は凍える手で音叉を構え、全神経を集中させる。降り積もる雪の上に音叉を立て、水晶に意識を注いだ。水晶は、これまで見せたことのない、真珠色の淡い光を放ち始めた。それは激しい音を記録した時とは全く違う、穏やかで優しい輝きだった。

賢者の庵に戻ったリオンが水晶を差し出すと、賢者は目を細め、満足げに頷いた。

「見事じゃ。『雪が積もる音』…それは、静寂が奏でる最も美しい音楽。お前は音の力を求めるだけでなく、音そのものを愛することができる者と見えた」

賢者は立ち上がり、滝の向こうの岩壁を指し示した。

「道は示そう。だが、覚悟はよいか?お前が求める真実は、時にお前自身を打ち砕く刃となるやもしれんぞ」

その言葉の真意を、リオンはまだ理解していなかった。

第三章 原初の音の真実

賢者に示された道は、岩壁に隠された古の隧道だった。リオンが足を踏み入れると、壁に埋め込まれた音叉岩が共鳴し、道筋を柔らかな光で照らし出す。隧道の奥深く、彼はついに伝説の古代都市エコーリアの入り口にたどり着いた。

しかし、門の前で賢者の言葉が不吉に響く。リオンは意を決して、賢者になぜあのようなことを言ったのか尋ねた。賢者は、彼の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし残酷な真実を告げた。

「『原初の音』は、確かに万物を癒す力を持つ。じゃが、それは世界の音の調律を司る『心臓』そのもの。それを持ち去ることは、世界の音の均衡を崩壊させることを意味する」

リオンは息を呑んだ。だが、賢者の言葉はそこで終わらなかった。

「そして、お前の妹が罹っている『無音病』…。あれは病ではない。呪いじゃ。お前たち音譜蒐集家の一族が、代々、世界の音を私的に蒐集し、消費し続けたことで生まれた、世界の沈黙からの復讐なのじゃ」

リオンの頭の中で、何かが砕ける音がした。信じられない、という思いが全身を駆け巡る。妹を救うために続けてきた旅。自分の聴覚を犠牲にしてまで行ってきた音の蒐集。その全てが、結果として妹を、そして一族を苦しめる原因だったというのか。

「そん、な……。俺は、妹のために……!」

「お前が力を振るうたび、世界のどこかで音が一つ消える。お前が聴覚を失うのは、その代償の一部を肩代わりしているに過ぎん。そして、その歪みの最も大きな皺寄せが、力の血を引く、か弱き者…お前の妹へと向かったのじゃ」

絶望が、リオンの心を真っ黒に塗りつぶした。彼の冒険は、正義でも愛でもなく、ただの自己満足で、身勝手な破壊行為だったのだ。足元から世界が崩れ落ちていくような感覚。今まで集めてきた水晶が、腰の袋の中で憎悪の塊のように重く感じられた。彼は何のために耳を失ってきたのか。何のためにここまで来たのか。

価値観が根底から覆され、彼はその場に崩れ落ちた。進むべき道も、戻るべき場所も見失ってしまった。目の前には、妹を救う可能性を秘めた伝説の都市。しかし、その扉を開けることは、さらなる世界の破壊と、自らの罪を肯定することを意味していた。リオンは、初めて本当の沈黙を心の中に聴いた。それは、希望が消え去った音だった。

第四章 沈黙の奏鳴曲(ソナタ)

どれほどの時間、その場に蹲っていたのだろうか。リオンの脳裏に、音が消えゆく世界で寂しそうに微笑む妹の顔が浮かんだ。彼はゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや以前のような渇望はなかった。ただ、深く、静かな決意の色が宿っていた。

彼は賢者に深く頭を下げ、エコーリアの門を押し開けた。彼の目的は、もはや「原初の音」を強奪することではなかった。自らの一族が犯した罪を償い、呪いを解く方法を、その音に直接「聴く」ために。

エコーリアの内部は、想像を絶する光景だった。建築物は結晶でできており、内部を光と音が絶えず駆け巡っている。壁に触れれば音楽が流れ、歩くだけで足元から和音が生まれる。まさに、世界中の音が生まれ、還る場所。

リオンは都市の中心へと向かった。そこには、巨大な聖堂があり、その中央に、脈打つ心臓のように明滅する光の球体が浮かんでいた。あれが「原初の音」。全ての音の始まりにして、終わり。

彼は光球の前に立つと、腰の袋から、これまで集めてきた全ての水晶を取り出した。砂嵐の和音、落石の不協和音、囁きの谷の旋律、そして、雪が積もる音。彼は、それらを力として消費するのではなく、解放することを選んだ。

一つ、また一つと水晶を掲げる。すると水晶は砕け散り、封じ込められていた音が、本来あるべき場所へと還るように「原初の音」へと吸い込まれていった。砂嵐の轟音が、落石の衝撃音が、風の歌声が、聖堂を満たしていく。それは、リオンの冒険の記録そのものであり、彼の失われた聴覚の断片だった。

全ての音を解放し終えた時、彼の両耳から、完全に世界が消えた。完全な沈黙。しかし、彼の心は不思議なほど穏やかだった。彼は、音を聴くための器官を失った代わりに、音そのものと繋がる方法を見つけたのかもしれない。

完全な静寂の中、彼は「原初の音」の本当の声を聴いた。それは言葉ではなく、温かい波動として心に直接響いてきた。

『奪うのではなく、還しなさい。奏でなさい。世界と調和する、あなただけの音楽を』

リオンは故郷に帰った。彼の耳は、もう二度と音を捉えることはない。しかし、彼の世界は、以前よりも遥かに豊かで色鮮やかに感じられた。リーナの『無音病』は、完治こそしていないものの、その進行は完全に止まっていた。

リオンは、音のない世界で、妹に旅の物語を語った。身振り手振りと、豊かな表情で。リーナは、兄の物語に、かつてなく明るい笑顔を見せた。リオンは、その笑顔を見て、心の中で聴いた。それは、どんな壮大な交響曲よりも美しい、「世界で最も愛おしい音」だった。

彼は音を聴く力を失った。しかし、音の本当の意味を知り、与えることの喜びを見つけた。彼の冒険は終わった。だが、沈黙の世界で、愛する妹と共に新たな音楽を奏でていく、彼の本当の人生が、今、静かに始まったのだ。

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