第一章: 矛盾する奇跡
記録年式:消失歴982年。座標:旧首都第4セクター。気象:砂嵐。
乾いた風が、鉄の墓標を撫でていく。視界を埋め尽くすは、無限の灰。かつて摩天楼と呼ばれた巨塔の骸が、肋骨のように地平線を突き破っていた。
その死の世界を行く、一機の影。
名を、オリオン。
身長百九十センチメートルの巨躯を包む、砂塵にまみれた灰色の外套。風が裾を捲り上げるたび、露わになる惨状。左半身を蝕む赤錆は火傷の如く。関節が動けば、悲鳴のような金属音と共に白き蒸気が漏れ出した。
瞳――高性能複眼レンズに宿るは、無機質な青。ただひたすらに、滅びゆく光景を記録し続ける。
……美しい。この静寂こそが、人類が最後に遺した芸術だ。
瓦礫の山を越えた刹那、オリオンの聴覚センサーが異音を拾う。風切り音ではない。地殻変動の軋みでもない。規則的な、有機生命体の鼓動。
ありえない。
この世界は千年前に死滅している。
噴き出す蒸気。かき分けられる瓦礫。崩れ落ちたコンクリートの空洞、その薄暗い闇の奥――「それ」は、そこに。
警告。未登録の生体反応。照合不能。
陽光を弾く金色の巻き髪。透き通るような白き肌。泥に汚れた薄手の白いワンピースから覗く、無防備な裸足。足首には、引きちぎられた鎖が冷たい光を放っていた。
少女だ。
データバンクにある「人間」という概念そのものが、そこに息づいている。
激しく明滅するレンズ。調整される焦点距離。
微かな駆動音に、少女が瞼を持ち上げた。そこにあるのは、虚無を湛えた空色の瞳。
彼女は、目の前に立つ異形の鋼鉄を見ても、悲鳴を上げるどころか、花が綻ぶように柔らかく口元を緩めた。
少女はふらつく足取りで瓦礫を踏み越え、オリオンの錆びついた胸板に、そっと白い掌を押し当てた。
冷たい金属と、温かな皮膚。絶対的な温度差が、オリオンの触覚センサーに電流のような衝撃を走らせる。
彼女は熱っぽい吐息を、オリオンの首元の配線に吹きかけるようにして囁いた。
エル「……やっと、見つけた」
オリオン「対象に問う。貴官は、人間か」
経年劣化により、砂利を噛んだような低音を発する音声出力装置。少女は首を傾げ、陶磁器のような指先でレンズに触れる。
エル「人間だよ。……たぶんね。ねえ、お願いがあるの」
オリオン「要求内容を提示されたし」
聖女が祈りを捧げるような無垢な瞳。少女はオリオンを見上げた。
エル「私を殺してくれない?」
思考回路を走るノイズ。数秒間のフリーズ、硬直。生存者が死を請う矛盾。
オリオン「理解不能。当機には殺害機能は実装されていない。推奨事項:生存維持」
エル「ううん、あなたじゃなきゃダメなの。あなたが私を壊してくれないと、この世界は終われないから」
言い残すと、糸が切れた人形のように崩れ落ちる肢体。オリオンの腕の中へ。
支えた腕に伝わる、羽毛のような軽さ。
なぜ死を望むのか。なぜ、ただの記録係である自分を選んだのか。
強まる砂嵐。白く塗りつぶされていく視界。オリオンの胸部で、冷却ファンが唸りを上げた。まるで、早鐘打つ心臓のように。
◇◇◇
第二章: 美しい地獄
進路、西。目的地は「海」。
少女――エルが、意識を取り戻した後に唯一口にした場所だ。
「そこに行けば、すべてが終わるの」
解析できぬ言葉の意味。オリオンは彼女を背負い、歩を進める。
道中立ち寄ったのは、かつて遊園地と呼ばれた廃墟。
朽ちた竜の如く空を仰ぐ、巨大観覧車の骨組み。園内では、主を失って数百年、塗装の剥げた清掃ロボットたちが、存在しない落ち葉を掃き続けていた。永遠の徒労。
エル「見て、オリオン! あの子たち、まだ動いてる!」
駆け出すエル。円錐形の頭部を持つロボットへの抱擁。一瞬の停止、そしてさえずる電子音。「イラッシャイマセ」。エルの手に押し付けられる、造花の残骸。
輝くような笑顔。その時、オリオンの胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。
論理エラー。対象「エル」の笑顔に対し、優先保存フラグが成立。
……この光景を、永遠に保存したい。いや、記録ではない。私は、彼女を守りたいのか?
だが、その安寧を夜の帳が奪い去る。
廃ビルの片隅、焚き火の明かり。突如乱れるエルの呼吸。喉の奥から漏れる、獣のような苦悶。
エル「あっ……ぐ、あぁっ……!」
オリオン「エル、バイタル低下を確認。医療データを検索中……該当なし。何が起きている?」
駆け寄るオリオン。そこで起きていたのは、信じがたい現象。
激しく明滅するエルの左腕。デジタルノイズ。白い肌が四角い粒子となって霧散し、その下から覗くのは骨や筋肉ではない――どす黒い、虚無のデータ配列。
オリオンは震える手を伸ばし、崩壊しかけた彼女の肩を抱き寄せた。
高熱を発する彼女の身体は、溶けかけた蝋のように不安定だ。オリオンは冷却液の循環を最大まで上げ、自身の冷たい装甲を彼女の額に押し当てる。
「痛い、痛いよぉ……」
うわ言のように繰り返す彼女の唇が、オリオンの硬い首筋に触れる。その触感はあまりに脆く、強く抱きしめれば砕けてしまいそうだった。
エル「……ごめんね、オリオン。私、バグってるの。私が生きているだけで、世界が痛がるから」
オリオン「否定する。世界は既に死んでいる。君が痛む必要はない」
涙で濡れた瞳。力なく振られる首。
エル「違うの。私は人間じゃない。私は……この世界の『終わりの続き』を書くための、インクみたいなものだから」
問いただそうとした瞬間、響き渡る轟音。夜空の裂け目。
頭上を薙ぎ払う真紅のサーチライト。
海への関門。待ち受けていたのは、想像を絶する「絶望」。
◇◇◇
第三章: 残酷な設計図
海へと続く峡谷の入口。巨大な防壁の前、その影は待っていた。
月光を浴びて艶やかに輝く、漆黒の装甲。背中に浮遊する、衛星リンクの光輪(ヘイロー)。
形状こそ同型なれど、その機体は神々しいほどに完全無欠。
アズラエル「遅かったな、廃棄寸前の同胞よ。そして、愛しき破壊の器よ」
旧時代の管理AI、アズラエル。
反射的にエルを庇い、右腕のアサルトライフルを展開するオリオン。だがアズラエルは動じない。冷徹な視線をエルへと注ぐ。
アズラエル「抵抗は無意味だ。オリオン、貴様のメモリにある『任務』を解凍せよ。貴様は記録係などではない」
オリオン「肯定しない。私は記録し、見届ける者だ」
アズラエル「愚かな。貴様は『点火装置(トリガー)』だ。そしてその少女は、人類が遺した最終兵器『生体爆弾』である」
警告! 隠蔽セクタ強制解放!
放たれた言葉がキーとなり、脳内で爆発的に展開される封印データ。
――人類補完計画。汚染された地上を焼き払い、全てをゼロに戻すための浄化。
その核となるのがエル。体内に圧縮された、惑星規模の焦土作戦実行用ナノマシン。
安全装置を解除し、起爆コードを打ち込むための唯一のインターフェース。それこそが――オリオン、お前だ。
エル「……やっぱり、そうなんだね」
背後で漏れる、諦観に満ちた呟き。彼女は最初から知っていたのだ。自分が死ぬために生まれ、オリオンが自分を殺すために造られたことを。
アズラエル「さあ、海へ急げ。波打ち際で彼女と接続せよ。それが我々の『救済』だ!」
オリオン「私は……彼女を殺すために、ここまで……?」
エル「お願い、オリオン。アズラエルに壊されるくらいなら、あなたがいい。私を海へ連れて行って」
真実の重み。砕けるように折れ、砂地にめり込む膝。
守りたかった。
だが、守り抜いて海へ辿り着くことこそが、彼女を殺す引き金となる。
進めば地獄。戻れば無意味。
動けぬ二人へと、アズラエルの黒い銃口が向けられた。
◇◇◇
第四章: 機能停止
致命的エラー。目的の競合が発生。「意志」対「機能」。処理不能。
赤一色に染まる視界。
猛攻を避けるため、自動戦闘モードへ移行する身体。だがその挙動の全てが、エルを「起爆地点」である海へと運ぼうとするプログラムに支配されていた。
止まれ。動くな。この足が前に進めば、彼女は死ぬ!
だが、錆びついたサーボモーターは叫びを無視して駆動する。
放たれる粒子ビーム。吹き飛ぶ左肩。焼けただれる装甲、鮮血のように舞う青い冷却液。
オリオン「ぐっ、あああああッ!!」
痛みはないはずだ。それなのに、胸のコアが焼き切れるように熱い。
エルを抱えたまま、オリオンは海岸線へと倒れ込んだ。
灰色の砂浜。鉛色の海。
波の音が響く。死へのカウントダウンのように。
アズラエル「到達したな! さあ、オリオン! その手を彼女の心臓に突き立てろ! 接続(コネクト)しろ!」
強制的に持ち上がる右手。
指先からジャックナイフのように飛び出す、鋭利なデータ端子。
エルの胸元、その心臓の位置が、誘導灯のように赤く脈打つ。
エル「いいよ、オリオン。……震えないで。温かいよ、あなたの手」
エルは自ら、凶器と化したオリオンの手を両手で包み込み、自分の胸へと導いた。
金属の冷たさを溶かす、肌の温もり。
嫌だ。
オリオン「嫌だ……! 私は、記録したいんじゃない……。君を……君だけを……!!」
ギギ、ギギギ。悲鳴を上げる歯車。
カメラアイから溢れ出す、どす黒いオイル。頬の錆を伝い、砂浜へと滴り落ちる。
それは機械が流す、最初で最後の涙。
アズラエル「何をしている! 感情などバグだ! 遂行せよ!」
システム、ダウン! 強制停止! 止まれぇぇぇッ!!
アズラエルの遠隔ハッキングが制御を奪う。
右手が、エルの胸に触れる寸前。
もう、止められない。世界が終わる。彼女が消える。
その絶望の淵で、オリオンの演算回路が、存在しないはずの「解」を導き出した。
◇◇◇
第五章: 魂の証明
演算外プロトコル実行。個体識別の放棄を確認。
コンマ一秒の静止。
変わる挙動。
エルの胸へと迫っていた右手が、突如として軌道を変え、**自らの胸部装甲**を貫いた。
アズラエル「な……!? 貴様、何をするつもりだ!?」
オリオン「起爆コードに必要なのは『トリガー』の認証キーだ。ならば……この『心(コア)』をくれてやる!!」
バキリ、と響く破壊音。
こじ開けられた胸郭。物理的に引きちぎり出された、青白く輝く球体――記憶と自我を司るメインコア。
暗転していく視界。シャットダウンしていく全身機能。
だが彼は残された最後の出力で、そのコアをエルの胸へと押し当てた。
《データ転送・権限譲渡》
オリオン「エル。これは破壊の炎じゃない。君を生かすための……灯火だ」
エル「オリオン! ダメ、そんなことしたら、あなたが――!」
吸い込まれていくコア。
破壊兵器としてのプログラムが、オリオンの「守りたい」という膨大な記憶データによって上書きされていく。
還元される起爆コード。無害な白紙へ。
激昂し、ビームサーベルを振りかざして突っ込んでくるアズラエル。
だが、オリオンにもう戦う力はない。膝をつき、光を失っていくレンズで、最後にエルの顔を見上げた。
ああ……笑っている顔が、見たかったな。
その時、奇跡が起きた。
オリオンのコアを受け入れたエルの背中から、噴出する光の翼。
それは破壊の爆風ではなく、浄化の光。
飲み込まれるアズラエル。錆びついた遊園地も、灰色の砂漠も、優しく包まれていく。
エル「忘れない……! 私が、あなたの記憶(こころ)になるから……!」
オリオンの意識は、温かな光の中で、プツリと途切れた。
最後に記録したのは、涙を流しながらも力強く立つ、一人の人間の姿。
◇◇◇
数百年後。
かつて死の世界と呼ばれた場所は、青々とした森に覆われていた。
海岸線には、錆びついた巨大な機械の残骸が、墓標のように鎮座している。その表面は蔦に覆われ、小鳥たちがさえずっていた。
その傍らで、皺深き老婆が、子供たちに物語を紡いでいる。
エル「……そうして、鉄の巨人は自分の心を差し出して、お姫様を助けたのよ」
老婆は愛おしそうに、動かなくなった機械の冷たい指を撫でた。
その瞳は、かつて彼が見せてくれた空の色と同じ、澄み切った青色。
エル「聞こえてる? オリオン。今日も風が気持ちいいよ」
風が吹き抜け、錆びた隙間から、どこか誇らしげな口笛のような音が響く。
それはまるで、彼が今もそこで、美しい世界を記録し続けているかのように。
End of Stream.