音景師と始まりのセロ
第一章 褪せた世界のレクイエム
世界はゆっくりと、死にかけていた。
あらゆる存在の輪郭を曖昧にする、無音の霧。それは街を覆い、人々の声から色彩を奪い、記憶から温もりを削ぎ落としていく。かつて空を染めた『希望の青』はくすんだ灰色に沈み、『笑い声の音色』が欠落した広場では、子供たちの表情から光が消えて久しい。
律(リツ)は、そんな静寂に沈む世界の片隅で、古びた石畳に膝をついていた。彼の右手には、白銀に輝く『共鳴の羽根ペン』が握られている。そのペン先を、道端に咲く、かろうじて形を保つ一輪の忘れな草に触れさせた。
「――聴かせてくれ、君が憶えている音を」
律が囁くと同時に、彼の世界から音が消える。聴覚が麻痺し、完全な沈黙が訪れる。だが、その代償として、彼の眼前に新たな風景が立ち上がった。音の残響が実体を得て、過去を幻影として再生する――『音景』の顕現だ。
忘れな草を中心に、淡い光の粒子が舞い上がり、かつての広場の姿を紡ぎ出す。そこには、花冠を編む少女と、それを見て破顔する母親の姿があった。音のない世界で、律は少女の口の動きを読む。『ありがとう』。その言葉に呼応するように、母親の顔がくしゃりと綻ぶ。その表情だけで、そこにかつて満ちていたであろう、温かく柔らかな笑い声が律の心に直接響いてくるようだった。
律は羽根ペンを手に取り、震える指で虚空にその音の波形を書き写す。ペンに宿る力が、失われた『笑い声の音色』を束の間、現実世界に共鳴させ、繋ぎ止める。広場の空気がわずかに震え、人々の頬にかすかな血の気が戻った。だが、その代償は小さくない。律の手の中のペンから、光を失った羽根が一本、はらりと抜け落ちた。
残された羽根は、あとわずか。世界を蝕む根源――『始まりの音色』の消失を止める旅は、あまりにも長く、険しい。
第二章 調律の塔を目指して
『始まりの音色』。それは世界を構成する『七原音』の根幹。全ての音の源にして、存在の礎。それがなぜ、どのようにして失われつつあるのか。その答えを求め、律は古文書に残された唯一の手がかり、世界のへそに聳えるという「調律の塔」を目指していた。
旅の途中、彼は霧に半ば飲まれた谷間の村に立ち寄った。そこでは『安らぎの音色』が失われ、人々は夜も眠れず、その瞳は絶えず不安に揺れていた。家々の窓から漏れる灯りは弱々しく、まるで消えかけの蝋燭のようだ。
律は村の老婆に請われ、彼女が赤子だった頃に聴いたという子守唄の『音景』を紡いだ。古い揺り籠のきしむ音、優しく背を叩く手のひらの温もり、そして、今はもう誰も口ずさめなくなった、柔らかな旋律。音のない幻影の中で、老婆は涙を流した。その涙のひとしずくが、律の心に重くのしかかる。
彼は再び羽根ペンを振るい、消えゆく子守唄の残響を、村の中心にある古井戸に書き写した。井戸の水面が微かに波紋を描き、村全体に穏やかな振動が広がる。その夜、村人たちは久しぶりに安らかな眠りを得たという。
律が村を去る朝、彼の背中に老婆の祈るような視線が注がれる。ありがとう、という声なき声が、冷たい風に乗って届いた気がした。また一本、彼のペンから羽根が失われていた。
第三章 残響の螺旋
霧を抜け、山を越え、律はついに天を衝く巨塔の麓にたどり着いた。調律の塔。その大理石の壁は、無数の音の記憶を宿し、静かに呼吸しているかのように見えた。
一歩足を踏み入れると、そこは残響の螺旋だった。過去から未来まで、あらゆる時代の音が渦を巻き、壁や柱に染みついている。戴冠式のファンファーレ、恋人たちの囁き、革命の鬨の声、赤子の産声。それらはもはや音としての形を失い、混沌としたエネルギーの奔流となって律の全身を打ちつけた。
律は、この塔の歴史を遡ることで『始まりの音色』が失われた瞬間を見つけ出そうと考えた。彼は塔の中心で深く息を吸い込み、これまでで最も深く、広範囲な『音景』を展開させる。
聴覚が閉ざされる。
世界が、光の奔流に変わる。
彼の意識は時間を遡行し、塔が建てられた瞬間の槌音、七人の賢者が『七原音』を調律する荘厳な儀式、世界が音で満たされていた黄金時代の壮麗な交響曲を幻視した。しかし、どれだけ過去を遡っても、『始まりの音色』の残響だけが、そこには存在しなかった。まるで、最初からぽっかりと穴が空いていたかのように。
なぜだ。全ての音の源であるはずの音が、その始まりの瞬間にすら存在しないなど、あり得るのか。焦燥が律の心を焼き始める。残された羽根は、もう数えるほどしかない。
第四章 未来からの使者
塔の最上階。そこは時間の流れが淀む場所だった。律はそこで、これまで見たどの『音景』とも異なる、奇妙な残響を発見した。それは過去のものではない。未来の残響。あり得ないはずの現象に、彼は慄きながらもその音景に意識を集中させた。
光の中に現れたのは、一つの人影。深い皺が刻まれ、白銀の髪を長く伸ばした、老いた男。その顔を見て、律は息を呑んだ。それは紛れもなく、未来の自分自身の姿だった。
老いた律は、何かを封じるための厳粛な儀式を執り行っていた。彼の目の前には、空中に浮かぶ小さな光の結晶があった。彼はその結晶に向かい、何かを捧げている。
最初に、彼は自らの『声』を捧げた。すると、彼の唇は動かなくなり、表情が消えた。
次に、彼は自らの『歩む音』を捧げた。すると、彼の足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。
最後に、彼は自らの『心臓の鼓動』を捧げた。その瞬間、彼の身体は透き通り始め、光の粒子となって霧散していく。
そして、彼が存在した最後の証である全ての『音』を吸収した光の結晶は、完璧な純度で輝きを放ち、静かに時空の狭間へと消えていった。
律は理解した。あの結晶こそが、『始まりの音色』の最後の欠片。
世界の崩壊が避けられないと悟った未来の自分が、時を超えて過去に干渉したのだ。まだ何の色にも染まっていない、純粋な魂の音。未来の自分が持つ全ての『音』を犠牲にして作り上げた究極の音色を、『始まりの音』の核として過去の世界、つまり現在の律が生きるこの時代に送り込んだ。
だが、その行為は世界の理を歪めた。未来から送られた『始まりの音色』は、本来この時代に存在するはずのない異物。そのパラドックスが原因で、『始まりの音色』は世界に完全に定着できず、ゆっくりと消失を始めていたのだ。
第五章 無音の存在
謎は、解けた。それは希望であると同時に、絶望の宣告だった。
世界を救う方法はただ一つ。あの結晶――未来の自分が遺した『音』の化身を解放し、この世界に完全に調律し直すこと。
しかし、それは何を意味するのか。
あの結晶は、律という存在の『音』そのものだ。過去も、現在も、未来も、全てを含んだ魂の記録。それを解放すれば、律から全ての音は失われる。
能力を使う時の一時的な聴覚麻痺ではない。彼が歩く音、呼吸する音、心臓の音、そして彼が紡いできた全ての『音景』と、それにまつわる記憶。旅の思い出も、救った村人たちの顔も、失われた音を探し求めた苦悩も、その全てが『音』と共に消え去る。
彼は、世界から完全に切り離された、『無音の存在』となるのだ。
世界は音を取り戻し、救われる。
だが、その救世主は、救った世界の音を聴くことも、自分が何者であったかを憶えていることすら、できなくなる。
律は震える手で、残り少なくなった羽根ペンを握りしめた。これが、未来の自分が自分に託した、あまりにも過酷な結末だった。
第六章 最後のレガート
決断に、時間はかからなかった。
律は塔の最上階の床に座り込み、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そして、最後の力を振り絞り、『共鳴の羽根ペン』を走らせる。
彼は、音の残響を書き写すのではない。彼自身の記憶の残響を、そこに刻みつけていた。
最初に訪れた広場の、少女の笑顔。
谷間の村で見た、老婆の安らかな寝顔。
道端に咲いていた、名も知らぬ花の青。
旅の途中で感じた風の匂い、土の感触。
一つ、また一つと記憶を書きつけるたびに、ペンの羽根が光を失い、抜け落ちていく。それは世界のためではない。誰かに記憶されるためでもない。ただ、自分が確かにここに存在し、何かを感じ、何かを成し遂げようとした、そのささやかな証を残すために。
全ての羽根が抜け落ち、ただのペン軸となったそれを羊皮紙の傍らに置くと、律は静かに立ち上がった。そして、虚空に手を伸ばし、未来の自分が遺した光の結晶を呼び覚ます。
「――還ってこい、始まりの音」
彼の最後の声。それは音にはならず、ただ確かな意志となって結晶に届いた。
眩い光が、律の身体を貫く。
第七章 沈黙の中の喝采
世界に、音が戻った。
最初に響いたのは、生まれたての赤子のような、純粋で清らかな『始まりの音色』。その音は波紋のように広がり、無音の霧を晴らしていく。
くすんだ灰色だった空に『希望の青』が蘇り、枯れた大地からは『生命の緑』が芽吹いた。広場には子供たちの『笑い声の音色』が弾け、家々からは食卓を囲む『団欒の音色』が漏れ聞こえる。世界は色と音を取り戻し、歓喜の交響曲を奏で始めた。
その喝采のただ中で、律は独り、静かに佇んでいた。
彼の世界は、完全な沈黙に支配されていた。
もはや、彼には過去の記憶はない。自分がなぜここにいるのかも、目の前で歓喜する人々が誰なのかも分からない。ただ、彼の足元に、一枚の羊皮紙が落ちていた。
彼は無意識にそれを拾い上げる。そこに書かれた文字の意味を理解することはできない。だが、その紙に指が触れた瞬間、胸の奥に、言葉にならない微かな温もりが灯った気がした。
世界は、救われた。
その中心で、救世主はただ一人、誰にも知られることなく、永遠の沈黙の中へと溶けていった。