音源郷巡礼

音源郷巡礼

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第一章 沈黙の音叉

リヒトの世界は、音に殺されかけていた。

彼は街の片隅で工房を営む、腕利きの調律師だった。しかし、その耳は呪われていると言ってもよかった。彼は、常人が聞き流すあらゆる音の綻びを、不快な棘のように感じ取ってしまうのだ。ずれた弦の微かな唸り、壁の染みが発する低周波、人々の会話に混じる嘘の不協和音。世界は彼にとって、耐え難い騒音の集合体だった。だからリヒトは、完璧な「静寂」を渇望していた。全ての音が消え去った無ではなく、全ての響きが完璧に調和した果てにある、究極の静寂を。

彼の唯一の慰めは、防音処置を施した工房の奥深く、自ら調律したピアノの前に座ることだけだった。そこで彼は、数学的な正確さで音を整え、束の間の秩序と安らぎを得るのだ。

ある雨の日、一人の老婆が工房を訪れた。古びた桐の箱を、震える手でリヒトに差し出す。「主人が大切にしていたものです。価値は分かりませぬが、音を愛する方に渡してほしいと」。リヒトは無感動に箱を受け取り、蓋を開けた。中には、黒檀のように黒く、奇妙な曲線を描く一本の音叉が鎮座していた。装飾も何もない、ただそこにあるだけで周囲の音を吸い込むような、異様な存在感があった。

リヒトは興味本位で、その音叉を軽く膝で打った。

その瞬間、世界が変わった。

「───────」

音は、鳴らなかった。いや、鳴ったのだ。リヒトの耳だけが捉えられる、音。それは、生まれたての宇宙の産声のようであり、同時に、万物が死に絶えた後の完全な沈黙のようでもあった。全ての周波数が完璧な秩序のもとに存在し、互いを打ち消すことなく、ただ一つの「無」へと収斂していくような音。リヒトが生涯をかけて追い求めてきた、究極の調和。完璧な静寂。

彼の全身を、経験したことのない法悦が貫いた。涙がこぼれそうになった。しかし、その音はほんの一瞬で彼の鼓膜から消え去り、後にはいつもの、耳障りな雨音と世界の騒音が戻ってきただけだった。

リヒトは憑かれたように何度も音叉を打った。だが、二度とあの音は鳴らなかった。まるで一度きりの奇跡を使い果たしたかのように、それはただの金属の塊に戻っていた。

眠れぬ夜を幾度も過ごし、工房の古文書を漁った末、リヒトは一つの記述を見つけ出す。「万物の音が生まれ、そして還る場所、音源郷(おんげんきょう)。そこに、原初の響き、『始原の調律』は眠る」。古文書には、ぼろぼろになった地図が挟まっていた。それは山脈と川が不可解な五線譜のように描かれた、奇妙な地図だった。

リヒトの心は決まった。あの音を、もう一度。あの完璧な静寂を手に入れるためならば、どんなことでもする。彼は工房の扉に「長期休業」の札をかけ、最低限の荷物と、沈黙したままの音叉、そして五線譜の地図だけを手に、世界の騒音の中へ、たった一人で旅立った。彼の冒険は、何かを得るためではなく、全てを消し去るための旅だった。

第二章 不協和音の旅路

旅は、リヒトにとって苦行そのものだった。街を抜ければ、森の木々が風にざわめく不規則な摩擦音が彼を苛み、川に近づけば、水が岩を打つ濁った衝撃音が彼の神経をすり減らした。地図に描かれた五線譜は、特定の場所で聞こえる自然の「音階」を示しているらしかった。風の唸りが「ソ」の音階で聞こえる谷間を抜け、川のせせらぎが「ド」から「ミ」へと移ろう浅瀬を渡る。彼は耳を研ぎ澄まし、雑音の海の中からかろうじて道標となる音を探し出し、一歩ずつ進んでいった。

旅を始めて十日が過ぎた頃、霧深い峠で、彼は奇妙な少女に出会った。亜麻色の髪を三つ編みにした、目の見えない少女だった。彼女は道端の岩に腰掛け、澄んだ声で歌を歌っていた。

「風は緑の竪琴を、雲は白銀の笛を鳴らす…」

その歌声は、リヒトの耳には不快だった。音程は微妙に揺らぎ、息継ぎの場所も不規則。完璧とはほど遠い、未熟な響きだった。彼は顔をしかめ、少女を無視して通り過ぎようとした。

「旅の方、その先は道が二つに分かれていますよ」

少女は歌うのをやめ、リヒトの気配を正確に捉えて声をかけた。彼女の名はメロ。この辺りの道案内をして生計を立てているのだという。

「あなたの進むべき道は、私の歌が知っています。どちらの道から『レ』の音が優しく聞こえるか、それで分かるのです」

リヒトは訝しんだ。目が見えないのに、どうやって。だが、彼女の耳は驚くほど鋭敏だった。彼女は世界の音を、楽譜としてではなく、物語として聞いていた。鳥のさえずりを「喜びの知らせ」、小川の音を「急ぎ足の旅人」と呼び、それらの音と対話するようにして生きていた。

リヒトは彼女の未熟な歌声を不快に思いながらも、他に道を知る術がないため、しぶしぶ彼女を雇うことにした。二人の旅は奇妙なものだった。リヒトは世界の音を敵視し、メロは世界の音を友としていた。

「リヒトさんの歩く音、とても硬いですね。まるで石の心臓みたい」

「黙ってくれ。君の話し声も、僕の耳には雑音だ」

メロはリヒトの辛辣な言葉にも傷ついた様子を見せず、ただくすくすと笑った。「でも、その硬い音の中に、とても寂しい響きがします」。リヒトは何も答えず、ただ歩を速めた。

彼の目指す完璧な調和と、彼女の愛する不完全な世界。二人の旅は、まるで永遠に交わることのない不協和音のようだった。リヒトは、早く音源郷にたどり着き、この少女の歌声からも、世界のあらゆる雑音からも解放されたいと、ただそれだけを願っていた。

第三章 響きの源泉

数々の困難の末、メロの案内と五線譜の地図が、ついに二人を最終目的地へと導いた。それは、巨大な山脈の奥深くに口を開けた、巨大な洞窟だった。入り口に立つだけで、リヒトは全身の肌が粟立つのを感じた。洞窟の奥から、言葉では表現できない、無数の音が風と共に流れ出してきていた。それは騒音ではなかった。かといって音楽でもない。まるで、星々が生まれては消える様を音にしたような、荘厳で、混沌とした響きの奔流だった。

「ここが、音源郷…」メロはうっとりと呟いた。「なんて…なんてたくさんの声がするのでしょう」

リヒトはメロをそこに残し、一人で洞窟の奥へと進んだ。彼が求める「始原の調律」は、この響きの中心にあるはずだ。洞窟の壁は巨大な水晶でできており、風が吹き抜けるたびに、壁そのものが様々な高さの音を発していた。低く唸る水晶、高く歌う水晶。それらが複雑に共鳴し合い、この世の全ての音の源となっているようだった。

歩を進めるほどに、響きは密度を増していく。もはやリヒトの耳は限界だった。しかし、不思議なことに、あれほど苦しんできた不快感はなかった。あまりに巨大な調和の前では、個々の音のズレなど意味をなさなかったのだ。

そして彼は、洞窟の最深部、巨大なドーム状の空間にたどり着いた。

そこには、何もなかった。

祭壇も、神秘的な物体も、何もない。ただ、無数の水晶の柱が林立し、そこを通り抜ける風が、万物創生のような途方もないシンフォニーを奏でているだけだった。リヒトが求めていた、全てが調和した果ての「完璧な静寂」は、どこにも存在しなかった。

彼は愕然として膝をついた。騙されたのか?古文書は偽りだったのか?絶望に打ちひしがれる彼の手から、黒檀の音叉が滑り落ちた。カラン、と水晶の床に当たって、乾いた音を立てる。

その瞬間、奇跡が起きた。

音叉が立てたその小さな音が引き金となり、洞窟全体の響きが一瞬だけ、ほんの僅かな間だけ、変化した。全ての音が、まるで巨大な一つの生き物のように呼吸を合わせ、完璧な和音を奏でたのだ。それは、リヒトが旅の最初に聞いた、あの「始原の調律」そのものだった。

しかし、それは静寂ではなかった。むしろ、彼が今まで聞いた中で最も豊かで、最も壮大な「音」だった。

リヒトは悟った。彼が追い求めていたものは、無音の静寂ではなかった。彼が「始原の調律」だと思い込んでいたものは、全ての音が奇跡的な一点で交わる「究極の和音」だったのだ。そして、その奇跡は、静寂の中ではなく、無数の音が響き合う混沌のただ中でしか生まれない。静寂とは、音がないことではない。全ての音が互いを認め合い、受け入れ合った瞬間に生まれる、至高の調和のことだったのだ。

彼が今まで「雑音」として切り捨て、憎んできた世界の全ての音。人々の笑い声、風の音、そしてメロの不完全な歌声さえも、この究極の和音を構成する、かけがえのない一片だった。

第四章 世界という名の楽譜

リヒトはどれくらいの間、そこに座り込んでいただろうか。彼がゆっくりと立ち上がり、洞窟の入り口へと引き返すと、メロが心配そうに待っていた。

「リヒトさん、見つかりましたか?あなたの探していた音」

リヒトは彼女の顔をまっすぐに見つめた。彼の表情から、長年彼を縛り付けていた硬さが消えていることに、彼女は気づいただろうか。

「ああ、見つかったよ」彼は穏やかに答えた。「そして、ずっと前から僕の側にあったことにも気づいた」

帰り道、メロはいつものように歌を歌った。風の音に合わせ、小川のせせらぎに寄り添うように。以前のリヒトなら耳を塞いでいたであろう、その拙い歌声。しかし、今の彼には、その微妙な音程の揺らぎが、彼女という存在が持つ、世界でたった一つの愛おしい「響き」として聞こえていた。彼女の息継ぎの音すら、この世界の壮大な楽譜の一部だった。

彼はふと立ち止まり、メロの歌に静かに耳を傾けた。

「君の歌は、美しいな」

メロは驚いて歌うのをやめ、頬を赤らめた。それはリヒトが彼女にかけた、初めての優しい言葉だった。

街に戻ったリヒトは、工房の扉を開けた。しかし、もう地下の防音室に閉じこもることはなかった。彼は窓を大きく開け放ち、街の喧騒を工房の中へと招き入れた。車のクラクション、子供たちのはしゃぎ声、遠くで聞こえる教会の鐘の音。それらはもはや、彼を苦しめる棘ではなかった。不協和音に満ちているが、しかし、その一つ一つが生きている証の、豊かで美しいシンフォニーだった。

彼は一台の古びたピアノの前に座り、調律を始めた。だが、もう数学的な完璧さは求めなかった。その楽器が持つ木の癖、長年弾かれてきた歴史、これから奏でるであろう音楽。その全てに耳を澄まし、完璧な平均律からほんの少しだけずらした、温かい「ゆらぎ」のある調律を施していく。

彼の冒険は終わった。完璧な静寂を見つける旅は、世界のあらゆる音を愛するための旅へと変わった。彼の呪いであった耳は、今や祝福となっていた。

リヒトは調律を終えたピアノの鍵盤を一つ、ぽろん、と鳴らした。その優しい音は、開け放たれた窓から流れ込む街の騒音の中へと溶けていき、新しい和音の一部となった。彼はその響きに、満足そうに微笑んだ。世界は、かくも美しい不協和音に満ちている。

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