第一章 疼く心臓と空白の地図
リアムの心臓は、時折、彼自身のものでなくなる。それは、錆びついた都市の廃墟に足を踏み入れた瞬間に始まった。ずきり、と氷の針で内側から突き刺されるような鋭い痛みが胸を貫く。息が詰まり、膝をつくと、アスファルトの裂け目から伸びる名も知らぬ草の匂いが、妙に生々しく鼻をついた。
視界が歪む。色褪せた煉瓦の建物、割れたショーウィンドウ、風に揺れる朽ちた看板。それらがセピア色の幻影と重なった。楽しげな笑い声、石畳を駆ける子供たちの足音、市場の喧騒。それらは音のない記憶の奔流として、リアムの心臓に直接流れ込んでくる。ここはかつて「陽気な職人街」と呼ばれていた。だが今、その名を覚えている者は誰もいない。この場所に残された最後の記憶が、リアムの心臓を叩き、忘れられるなと叫んでいるのだ。
この世界は、巨大な図書館だという。人々も、街も、文化も、すべては誰かの記憶に綴られた物語。そして、忘れ去られた物語は、図書館の奥深くにある「失われた書架」へと送られ、その存在は次第に希薄になっていく。リアムの心臓は、その書架からこぼれ落ちた、最後の悲鳴を拾うための呪われた器だった。
痛みが引いた後、リアムは懐から古びた羊皮紙を取り出した。それは彼が物心ついた時から持っていた、奇妙な地図だ。普段はただの空白だが、失われた記憶に触れた後、こうして手をかざすと、忘却のインクが黒々と滲み出し、次なる場所への道筋を儚く描き出すのだった。インクは震える光のように道を示し、まるで「まだ間に合う」と囁いているかのようだった。
第二章 忘却のインクが示す道
地図に浮かび上がったのは、険しい山脈の先に存在する「歌う風の谷」への道だった。その名を口にしても、誰の記憶にも響かない。それもまた、失われかけている物語の一つなのだろう。
リアムは旅を始めた。人々は皆、どこか虚ろな目をしていた。彼らの瞳からは、遠くへ旅立とうとする意志の光、つまり「冒険」という概念そのものが消えかけていた。街から街へ、人々は決められた道を往復するだけ。未知への好奇心は、遠い昔のおとぎ話になっていた。
谷への道は険しく、風が岩肌を削る音が絶えず聞こえた。それはまるで、何かを訴えるための挽歌のようだった。谷底にたどり着いた時、リアムの心臓が再び激しく脈打った。
「うっ……!」
幻影が押し寄せる。ここはかつて、風の音色で歴史を紡ぐ民が暮らした場所だった。彼らは文字を持たず、風に乗せた歌で物語を伝承していた。だが、人々が冒険を忘れ、新しい物語を求めなくなった時、彼らの歌は意味を失い、風と共に消えていったのだ。リアムの耳には、誰にも届かなくなった最後の歌が、悲しい旋律となって響いていた。
「……あなたも、それを聴いているのね」
ふと、背後から澄んだ声がした。振り返ると、銀色の髪を持つ一人の女性が、静かな瞳でこちらを見つめていた。彼女はエリアと名乗った。その佇まいは、まるでこの世のすべての物語を知っているかのように、不思議な落ち着きを払っていた。
第三章 失われた書架の影
エリアは多くを語らなかったが、リアムの旅に自然と同行するようになった。彼女の存在は、孤独な痛みを和らげてくれる不思議な力を持っていた。次に地図が示したのは、断崖に立つ「沈黙した大灯台」だった。
「昔、あの灯台の光は、未知の海へ漕ぎ出す冒険者たちの道標だったそうよ」
エリアが静かに呟く。今はもう、その光は灯っていない。海はただの境界線となり、人々はその先を見ようともしなかった。
灯台の内部は、湿った潮の香りと埃の匂いで満ちていた。螺旋階段を上る途中、リアムは足元に揺らめく黒い影を見た。それは単なる物陰ではなかった。明確な悪意と、虚無へと引きずり込もうとする冷たい引力を持っていた。影が腕を伸ばし、リアムの足首を掴もうとする。
「これが、『失われた書架』に送られた物語の断片……。完全に消える前の、最後の抵抗よ」
エリアの声に迷いはなかった。彼女がリアムの前に立つと、影は怯むように後ずさり、壁のシミへと溶けて消えた。
最上階で、リアムは再び幻影を見た。屈強な灯台守が、嵐の中で必死に光を守る姿。その光に導かれ、新しい大陸を発見した船乗りたちの歓声。しかし、人々が冒険を止めた時、灯台守は役目を失い、光は誰にも求められなくなり、やがて消えた。心臓を抉るような喪失感が、リアムを打ちのめした。地図に浮かんでいた灯台への道筋もまた、霧のように掻き消えようとしていた。
第四章 司書の告白
旅の終わりは近いように思えた。だが、リアムの心臓の痛みは限界に達していた。鼓動一つひとつが、鉛の塊となって全身にのしかかる。彼は崩れるように膝をつき、荒い息を繰り返した。地図のインクは、今や最後の目的地をかろうじて示すのみで、その輪郭すら曖昧になっていた。
「もう……無理だ……」
「いいえ。あなたは、最後まで辿り着かなければならない」
エリアの言葉は、いつもと違って有無を言わせぬ響きを持っていた。彼女はリアムの前に跪くと、その銀色の瞳で、彼の心臓の奥底まで見透かすように見つめた。
「リアム。あなたはなぜ、その心臓を持っていると思う?」
彼女の問いに、リアムは答えられなかった。
「世界という図書館から『冒険』が失われ、物語が次々と消えていく。このままでは、図書館そのものが自らの存在意義を忘れ、世界はただの空白のページになってしまう」
エリアは静かに立ち上がった。その姿が、まるで光の粒子のように淡く揺らめいて見える。
「私は、この図書館の意志そのもの。そしてあなたの心臓は、図書館が忘れ去られようとする物語を繋ぎ止めるために創り出した、最後の『索引(インデックス)』なのよ」
リアムは息を呑んだ。呪いだと思っていたこの痛みは、世界が自らを保つための最後の祈りだったというのか。
「忘却の波を止め、失われた『始まりの物語』を見つけ出すのがあなたの使命……。いいえ、見つけ出すのではないわ。『始まりの物語』とは、この図書館そのものを巡る物語。あなたは、それを再構築するの」
「再構築……? どうやって」
「あなたのすべてを捧げて」
エリアの言葉は残酷なほどに穏やかだった。「索引であるあなたの心臓に刻まれた、すべての失われた記憶。そのすべてを解放し、新たな『始まりの物語』のインクとするの。それが、世界に『冒険』を取り戻す唯一の方法」
第五章 最後の鼓動
覚悟を決めるのに、時間はかからなかった。この痛みが誰かの物語の悲鳴であるならば、それを終わらせるのが自分の役目なのだろう。地図が最後に示した場所は、世界の中心に聳える巨大な塔、「原初の書架」だった。
そこは、すべての物語が生まれると言われる場所。だが今は、墓場のような静寂に包まれていた。無限に続くかのような書架には、空白の本が並んでいるだけ。リアムはエリアに導かれ、書架の中央にある円形の広場に立った。
「さあ、リアム。あなたの物語を、始める時よ」
エリアの声が優しく響く。
リアムは目を閉じ、意識を心臓に集中させた。今まで経験したすべての痛みを、すべての幻影を、一つひとつ思い出す。陽気な職人街の喧騒。歌う風の谷の最後の旋律。沈黙した大灯台の消えた光。それらはもはや痛みではなく、愛おしい記憶の欠片となっていた。
「ありがとう……僕を、選んでくれて」
心臓が、最後の力を振り絞って大きく脈打った。ドクン、という音と共に、リアムの身体から眩い光が放たれる。それは、彼の胸から溢れ出した無数の物語の粒子だった。彼の記憶、彼の存在そのものが、光のインクとなって「原初の書架」を満たしていく。身体が透き通り、足元から消えていく感覚。痛みはなかった。ただ、世界が美しい物語で満たされていく充足感だけがあった。
第六章 再び、冒険が始まる
リアムの心臓の鼓動が完全に止まった瞬間、「原初の書架」から放たれた光は、無数の流星群となって世界中に降り注いだ。
街角で虚ろな目をしていた人々が、ふと空を見上げる。光の粒が頬に触れた瞬間、彼らの胸の奥底で、忘れかけていた何かが疼いた。それは、未知なるものへの好奇心。まだ見ぬ世界への憧れ。――冒険心だった。
「地図にない場所へ行ってみたい」
子供が父親の服の袖を引いた。港では、若者たちが埃をかぶった船の手入れを始めた。錆びついていた都市の廃墟に、人々が新たな物語を築こうと集まり始める。そして、遠い断崖の上で、「沈黙した大灯台」が、何百年ぶりかに力強い光を夜の海へと放った。
エリアは「原初の書架」の中央に一人佇み、その光景を静かに見守っていた。彼女の頬を、一筋の涙が伝った。世界は救われた。だが、その代償として失われた一つの物語を、彼女だけが覚えていた。
第七章 忘れられた物語
世界は活気を取り戻した。人々は新たな物語を紡ぎ始め、図書館の書架は再び色とりどりの背表紙で埋め尽くされていった。しかし、リアムという名の青年がいたことを覚えている者は、どこにもいなかった。彼の存在は、世界を救うためのインクとして、完全に溶け込んでしまったのだ。
エリアは、図書館の最も深い場所、「失われた書架」の片隅を訪れた。そこには、一冊だけ、新しく収められた本があった。装飾のない、無地の表紙。題名も著者名もない。
彼女はそっとその本を手に取った。ページを開いても、そこには文字一つ書かれていなかった。ただ、真っ白な紙の上から、まるで心臓の鼓動のような、微かで確かな温もりが伝わってくるだけだった。
それは、世界に「冒険」を取り戻すために、自らが忘れられた物語となることを選んだ一人の青年の、誰にも読まれることのない「始まりの物語」。エリアはその本を胸に抱きしめた。図書館の静寂の中に、確かに聞こえる気がした。ありがとう、と。遠い昔に失われた、優しい誰かの声が。