忘却の織り手
第一章 蝕まれた輪郭
瀝青(れきせい)の路地裏に、男の嗚咽が染み込んで消える。俺は、その男から抜き取ったばかりの熱い記憶を胸に抱え、よろめいた。燃えるような嫉妬、裏切りの氷のような感触、そして引き裂かれる恋慕の痛み。それらは今や、俺自身のものだ。
「……ありがとう。本当に、楽になった」
顔を上げた依頼人の瞳は、凪いだ湖面のように空虚だった。代わりに俺が植え付けた『幸福な虚偽の記憶』――穏やかな別れと、未来への淡い希望――が、彼の表情を柔らかく彩っている。彼は軽い足取りで去っていく。忘却という救済を得て。
俺は、カイ。人々の『忘れてしまいたい記憶』を吸収する者。だが、その代償は重い。吸収した記憶は俺の精神に堆積し、俺自身の記憶と混じり合い、境界を曖昧にしていく。夜、水溜まりに映る自分の顔を見ても、そこに誰がいるのか分からなくなる時がある。無数の他人の後悔が、俺の輪郭を少しずつ蝕んでいるのだ。
今日もまた、俺の中に新しい悲劇が流れ込んだ。だが、その濁流の奥底で、奇妙なほど澄み切った一つの記憶が、変わらずにそこにあった。
陽だまりの中、銀色の長い髪を風になびかせ、少女が笑っている。
この記憶には、「忘れたい」という苦痛の棘がない。それどころか、触れるたびに胸の奥が温かくなるような、慈しみに満ちた光を放っている。誰の記憶だ? なぜ、誰も忘れたがっていないはずの記憶が、この記憶の墓場にある? それは俺が抱える無数の謎の中でも、ひときわ静かに、そして強く輝く謎だった。
ふと顔を上げると、向かいの煉瓦造りの建物が、陽炎のように揺らいで見えた。壁の一角の色が抜け落ち、背景の曇り空が透けている。忘却は、この世界そのものを蝕む病だ。人々は大切なものを失うことを恐れるあまり、多くを語らなくなった。語られず、思い出されなくなったものは、音を失い、形を失い、やがてこの世界から完全に消滅する。人々は、その静かな崩壊から目を逸らし、今日の食事と、明日の天気のことを話す。
俺は揺らぐ壁を見つめながら、陽だまりの少女の記憶を反芻する。この世界がすべてを忘れ去る前に、俺はあの笑顔の持ち主を見つけなければならない。そんな予感が、蝕まれた魂の奥で疼いていた。
第二章 忘却に抗う者
街の中央に佇む「古文書の塔」は、忘れ去られた言葉たちの墓標だった。褪せたインクと、乾いた紙の匂いが空気を満たしている。俺は、あの記憶の断片を頼りに、この場所を訪れた。
「何か、お探しですか」
声に振り向くと、そこに彼女がいた。陽だまりの中の少女が、そこに。銀色の髪は埃っぽい書架の間で月光のように輝き、大きな瞳が俺を真っ直ぐに見つめている。
彼女はルナと名乗った。この塔で、忘れられていく世界のあらゆる事象を記録しているのだという。
「忘れられたら、本当に無かったことになる。それが怖いの」
彼女の指先が、崩れかけた古書の頁を優しくなぞる。その仕草には、消えゆくものへの深い哀悼が込められていた。
「あなたは……とてもたくさんのことを覚えているのね」
ルナは、俺の瞳の奥を覗き込むように言った。
「その瞳、まるで古い図書館みたい。たくさんの物語が、静かに眠っている」
彼女の言葉に、心臓が冷たく締め付けられた。これは物語などではない。他人の苦痛の残骸だ。俺は彼女に近づく資格がない。この呪われた能力が、いつか彼女の美しい記憶さえも汚してしまうかもしれないのだから。
だが、ルナは俺から目を逸らさなかった。彼女と話している束の間だけ、俺は無数の他人の記憶の奔流から解放され、カイという一個の存在の輪郭を、確かに感じることができた。
「忘れないでいてくれるだけで、それは存在し続けられるの」
帰り際、彼女が呟いた言葉が耳に残った。それは祈りのように聞こえた。そして俺は、陽だまりの記憶が、なぜ俺の中で消えないのか、その理由の一端に触れた気がした。この記憶は、忘れられることに必死で抗っている。ルナ自身の、強い意志によって。
第三章 忘却を紡ぐ織物
ルナの記録と、俺の中の記憶の断片が、一つの答えを導き出した。世界の忘却を司る存在――『忘却を紡ぐ織物』。それは街の創生と共に建てられた大聖堂の、地下深くに眠っているという。
湿った石の階段を下りた先、空気は凍てつき、あらゆる音が吸い込まれていた。広大な空間の中央に、それはあった。天井から床まで届く巨大なタペストリー。鈍い光を放つ無数の糸で織られたそれは、静かに、しかし禍々しく脈動していた。世界中の人々が捨てた「忘れたい記憶」の糸。それがこの織物の正体だった。
手を伸ばそうとした瞬間、脳内に直接、絶望の叫びが流れ込んできた。愛する者を失った悲嘆、犯した罪への悔恨、拭えない屈辱。織物は、記憶の重みそのものだった。
「これが……」
ルナが息を呑む。
その時、俺は確信した。陽だまりの記憶。あれはルナの記憶だ。そして、それは俺と初めて出会った日の記憶なのだ、と。彼女が決して「忘れたくない」と強く願ったからこそ、俺の能力をもってしても消し去ることができず、俺の中に残り続けていたのだ。俺の魂を繋ぎ止めていた最後の錨は、彼女の想いだった。
世界の忘却を止める方法は一つ。この織物を解き、忘れられた全ての記憶を世界に還すこと。だが、その記憶に付随する「忘れたい」という強烈な感情の奔流は、解放した者を狂わせるだろう。俺の能力だけが、その濁流を受け止める防波堤になりうる。
「俺がやる」
決意を口にすると、ルナが俺の腕を掴んだ。その指は氷のように冷たく、震えていた。
「ダメ! そんなことをしたら、あなた自身が記憶の重みに砕け散ってしまう! あなたのいない世界で全てを思い出しても、何の意味もないのよ!」
彼女の瞳から涙が溢れる。その涙が、俺の心を激しく揺さぶった。俺は彼女をこの悲しみから救いたい。彼女に『幸福な虚偽』を植え付け、俺のことなど忘れて穏やかに生きてほしい。だが、彼女の強い意志が、俺の能力を拒絶する。彼女は、俺を忘れることを、断固として拒んでいた。
第四章 ただ一つの残響
俺は、泣きじゃくるルナを静かに見つめた。
「俺はもう、とうの昔に俺じゃないんだ。誰かの後悔と悲しみの寄せ集めだ。でも……君と出会った、あの陽だまりの記憶だけが、俺が『カイ』である最後の証だった。ありがとう、ルナ」
俺は彼女の腕をそっと解くと、織物に向き直った。全身全霊をかけて、能力を解放する。
「やめて、カイ!」
彼女の悲痛な叫びを背に、俺は織物に手を触れた。
瞬間、世界が爆ぜた。
忘れ去られた幾億もの記憶が、光の洪水となって世界に解き放たれる。街角で、人々が空を見上げた。頭の中に、忘れていた家族の顔が、愛した人の声が、幼い頃に見た空の色が、奔流となって蘇る。色が褪せていた建物は鮮やかな色彩を取り戻し、消えかけていた街路樹は再び青々と葉を茂らせた。世界が、失われた記憶を取り戻していく。
その奔流の中心で、俺は器となった。世界中から集まる悲しみ、絶望、苦痛、後悔。その全てを、この身に受け止める。俺の身体が、足元から光の粒子となって崩れ始めた。意識が薄れ、俺という存在の輪郭が完全に消え去っていく。
最後に、俺は残った力の全てを使い、ルナの心にだけ、一つの記憶をそっと置いた。それは『幸福な虚偽』ではない。俺が彼女を愛したという、たった一つの、穢れなき真実の記憶。
声にならない声で、彼女の名を呼ぶ。
――忘れないで。
それが、俺の最後の言葉だった。カイという存在は、世界から完全に消滅した。誰の記憶にも残らず、あたかも最初から存在しなかったかのように。
世界は平穏を取り戻した。人々は失われた大切なものを取り戻し、互いに語り合い、笑い合っている。その再生の代償に、一人の男が自らを捧げたことなど、誰も知らない。
ただ一人、ルナだけが、すべてを覚えていた。
陽だまりの中、自分に優しく微笑みかける銀髪の青年の姿を。彼の温もりを。彼の最後の言葉を。その記憶は、彼女の胸に突き刺さる甘美な呪いとなって、永遠に彼女を苛み続けるだろう。
ルナは、古文書の塔に戻り、震える手でペンを取った。
誰に読まれることもない手記に、忘れ去られた彼の物語を記し始める。
それが、彼がこの世界に存在した、唯一の証明なのだから。