忘却のアルカ、始まりの星

忘却のアルカ、始まりの星

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第一章 記憶を喰らう船

カイが持つ世界の全ては、軋む甲板と、どこまでも続く乳白色の海、そして船の中央で心臓のように明滅する機関『忘却炉』だけだった。彼が乗る一人乗りの帆船『アルカ号』は、風ではなく記憶を喰らって進む。世界の果てにあるという『源泉』へたどり着くために。そこに行けば、失われたものは全て取り戻せるのだと、古い伝承は謳っていた。

「リナ……」

カイは妹の名を呟き、忘却炉の前に跪いた。炉の上部には水晶の投入口があり、そこへ手のひらをかざすと、脳裏の記憶が像を結ぶ。彼が今から捧げるのは、『七歳の誕生日に、リナが焼いてくれた少し焦げたクッキーの記憶』だ。

手のひらをかざすと、甘く香ばしい匂いと、はにかんだ妹の笑顔が脳裏に閃光のようにきらめいた。「お兄ちゃん、おめでとう!」という声が耳の奥で微かに響く。その瞬間、水晶がまばゆい光を放ち、記憶は琥珀色の光の粒子となって炉の中に吸い込まれていった。ゴウ、と低い唸りをあげて、アルカ号は滑らかに前進を始める。

代わりにカイの心に残ったのは、ぽっかりと空いた空虚な穴だった。リナがクッキーを焼いてくれた、という事実は知識として残っている。だが、その時の温もりも、味も、彼女の表情の細部も、もう二度と思い出すことはできない。まるで色褪せた写真のように、感情の彩りが完全に抜け落ちてしまっていた。

この旅を始めて、どれほどの時が経っただろう。捧げた記憶は数え切れない。父に肩車をしてもらった夏祭りの夜。母に読み聞かせてもらった物語。友達と泥だらけになって笑い合った放課後。そして、リナとの数え切れない思い出たち。その全てが、アルカ号の燃料となり、彼を前へ、前へと進めてきた。

全ては、三年前、忽然と姿を消した妹のリナを取り戻すためだ。彼女の存在そのものが、この世界から消しゴムで消されたかのように、誰の記憶からも失われてしまった。カイだけが、まるで奇跡のように彼女を覚えていた。だから、彼は旅に出た。自分の全てを犠牲にしてでも、もう一度リナに会うために。

乳白色の海は、時に穏やかで、時に荒れ狂った。空には月も星もなく、ただぼんやりとした光が垂れ込めているだけ。ここは『残響の海』。過去に誰かが捧げた記憶の断片が漂う場所だと言われている。時折、海面に知らない誰かの笑い声や、遠い音楽が泡のように浮かび上がっては消えていく。それは、この世の果てを目指す旅人たちの、墓標のようでもあった。

カイは船縁に立ち、冷たい飛沫を浴びながら、残り少ない自分の記憶を反芻する。リナを探すという目的だけが、彼を彼たらしめる唯一の錨だった。しかし、その錨を繋ぎとめる鎖であるはずの記憶が、日に日に摩耗していく。いつか、リナを探している理由さえ忘れてしまうのではないか。その恐怖が、夜ごと彼の心を苛むのだった。

第二章 残響の海路

旅を続けるうち、カイは世界の奇妙な姿を目の当たりにするようになった。音を立てずに羽ばたく銀色の鳥の群れ。重力に逆らい、天に向かって流れ落ちる滝。それらは全て、記憶の欠落が生み出した世界の歪みだった。誰かが鳥の鳴き声を忘れ、誰かが水の流れ方を忘れた名残なのだ。この世界そのものが、巨大な喪失感でできているかのようだった。

ある時、彼は水平線の向こうに、自分と同じような帆船の残骸を見つけた。朽ち果てた船には、記憶を全て捧げ尽くし、自分が誰なのかも忘れてしまった抜け殻のような老人が一人、虚空を見つめて座っていた。カイは声をかけたが、老人の瞳は何も映さず、ただ微かに唇が動くだけだった。

「どこへ……?」

そのか細い声に、カイは自分の未来を垣間見た気がして、身震いした。彼はすぐに船を出し、残骸から逃げるようにアルカ号を疾走させた。そのためには、また一つ、大切な記憶を差し出さねばならなかった。『リナと二人で、丘の上から一番星を探した夜の記憶』。星の瞬きと共に、リナの驚いた顔が闇に溶けて消えた。

喪失感に胸を締め付けられながら航海を続けていたカイの前に、ある日、不意に小さな光が現れた。それは人の頭ほどの大きさの、青白い光球だった。光球は彼の船の周りをくるくると回り、やがて彼の目の前でぴたりと止まった。

『旅人よ。道に迷ったか』

直接脳内に響くような、無機質な声だった。

「お前は……誰だ?」

『我は羅針盤。源泉への道を示す者。ただし、対価が必要だ』

「対価?」

『お前が持つ記憶の中で、最も価値あるものを一つ、我に示せ。さすれば、最短の航路を啓示しよう』

最も、価値ある記憶。カイの脳裏に浮かんだのは、まだ捧げていない、たった一つの鮮明な記憶だった。それは、リナが失踪する前日に見せた、最高の笑顔の記憶。庭に咲いた向日葵を一本手に取り、「お兄ちゃん、これ、あげる」と言って微笑んだ、あの夏の日の午後。その記憶だけは、この旅の最後まで守り抜こうと誓っていた、彼にとっての聖域だった。

これを捧げれば、早くリナに会えるかもしれない。だが、これを失ってしまえば、自分が取り戻したいと願うリナの顔さえ、思い出せなくなってしまう。カイは激しく葛藤した。羅針盤の光は、彼の揺れる心を映すかのように、明滅を繰り返していた。何日も、何日も、彼は答えを出せずにいた。羅針盤は黙って、ただ彼の決断を待ち続けていた。

第三章 真実の羅針盤

焦燥と葛藤の末、カイはついに決断した。このままでは、他の記憶をじわじわと失い、結局はあの老人のように全てを忘れてしまうかもしれない。ならば、賭けるしかない。リナの最後の笑顔を、未来への切符に変えるのだ。

彼は覚悟を決め、忘却炉ではなく、目の前の羅針盤に向かって手をかざした。

「俺の、最も価値ある記憶だ。受け取れ」

脳裏に、夏の陽光と、向日葵の黄色、そしてリナの笑顔が鮮やかに浮かび上がる。声も、風の匂いも、肌を撫でる空気の温度も、全てがそこにあった。彼の存在の核とも言えるその記憶が、金色の光の奔流となって羅針盤に吸い込まれていく。

「ああ……」

カイの口から、乾いた呻きが漏れた。視界が白く染まり、体の芯が凍てつくような、これまでとは比較にならないほどの喪失感が彼を襲った。リナの顔が、完全に思い出せない。輪郭も、瞳の色も、何もかもが靄の向こうに霞んでしまった。

その瞬間、アルカ号の進みがぴたりと止まった。忘却炉の明滅も消え、船内は完全な静寂に包まれた。

『……見事な記憶だった』

羅針盤の声が、以前よりもどこか温かみを帯びて響いた。

『約束通り、真実を啓示しよう』

羅針盤の光が、船全体を柔らかく包み込む。カイは息を飲んだ。いよいよ、源泉への道が開かれるのだ。しかし、羅針盤が告げた言葉は、彼の全ての希望を打ち砕くものだった。

『旅人よ。お前が目指す『源泉』など、この世界のどこにも存在しない』

「……なんだと?」

カイの声は震えていた。信じられない、というよりも、理解が追いつかなかった。

『この忘却のアルカは、失われたものを取り戻すための船ではない。辛い記憶、悲しい過去、その全てを忘れ、新しい存在として生まれ変わるための、慈悲の揺り籠なのだ』

羅針盤は淡々と続けた。

『お前が探していた妹、リナもまた、かつてこの船に乗った。彼女は自らの全てを捧げ、記憶のない赤子となって、どこか新しい世界で新たな生を始めている。もう、お前の知るリナはどこにもいない』

絶望が、カイの心を叩き潰した。では、この旅は、この犠牲は、全て無意味だったというのか。

「嘘だ……そんなはずはない……!」

『嘘ではない。お前が捧げた記憶もまた、消えて無くなったわけではない。それらは残響の海に溶け、世界のどこかで誰かの夢となり、詩となり、物語の欠片となっている。お前の悲しみは、どこかの誰かの慰めになっているのかもしれない』

羅針盤の言葉は、残酷な真実の刃となってカイの胸を貫いた。彼は膝から崩れ落ち、甲板に手をついた。涙さえ、もう出なかった。全てを失った。目的も、希望も、そして自分自身を支えていた過去さえも。

『旅は、ここで終わりだ。お前は最後の記憶を捧げた。やがてお前の意識も消え、リナと同じように、新たな始まりを迎えるだろう。それが、このアルカ号の、唯一の目的地なのだから』

第四章 名もなき星への願い

光が、カイの体を包み込み始めた。意識がゆっくりと溶けていく感覚。自分の名前さえ、おぼろげになっていく。カイ・アストレア。それが自分の名だったはずだ。妹は、リナ。その名前だけが、かろうじて心の隅にこびりついていた。

絶望の淵で、彼は悟った。この旅は、忘れるための旅だったのだ。リナを失った悲しみから逃れるために、無意識のうちに、彼はこの船に乗り込んだのかもしれない。妹を取り戻すという目的は、全てを忘れるための、自分自身への言い訳だったのかもしれない。

もう、リナの笑顔を思い出すことはできない。彼女と過ごした日々の温もりも感じられない。だが、不思議なことに、彼の心は凪いでいた。全てを失ったことで、彼は逆に、何かから解放されたような感覚さえ覚えていた。

意識が薄れていく中、カイは最後の力を振り絞って、船室に残っていた羊皮紙と、干からびかけたインク壺に手を伸ばした。彼はもう、文字の書き方さえ忘れかけていた。それでも、震える手で、彼はペンを握った。記憶ではない。これは、彼が最後に紡ぎ出す、未来への『願い』だ。

インクが掠れた文字で、彼はこう書き記した。

『リナ。もし君が、どこかで幸せに生きているのなら。どうか、夜空を見上げてほしい。君が忘れた兄が、君の幸せを願う星になったのだと。君の未来が、温かい光で満たされますように』

それを書き終えると、彼は羊皮紙を丸めて空の小瓶に詰め、固く栓をした。そして、残った最後の力で、その小瓶を乳白色の海へと投げ入れた。小瓶は波間にぷかぷかと浮かび、やがて遠くへと流されていった。

カイの体は完全に光の粒子に変わり、アルカ号と共に静かに消滅していった。彼が捧げた最後の願いの光は、ひときわ強く輝き、誰もいない夜空に昇り、一つの新しい星となった。

――どれほどの時が流れただろうか。

どこかの世界の、名も知らぬ港町。打ち寄せる波が、きらきらと夕陽を反射している。

砂浜で、一人の亜麻色の髪の少女が、きらりと光る何かを見つけた。それは、流れ着いた一つの小瓶だった。彼女は興味深そうにそれを拾い上げ、コルクの栓を抜いた。中から出てきたのは、古びた羊皮紙。

少女はまだ幼く、そこに書かれた文字を読むことはできなかった。しかし、その羊皮紙を胸に抱くと、まるで遠い昔の温かい記憶に触れたかのような、不思議な安らぎを感じた。

彼女は空を見上げた。一番星が、ひときわ優しい光で瞬いている。

少女は、その星に向かって、ふわりと微笑んだ。

その笑顔は、かつてカイが命を懸けて取り戻そうとした、向日葵のような笑顔によく似ていた。彼女が誰なのか、どこから来たのか、誰も知らない。彼女の新しい物語は、今、始まったばかりだった。

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