***第一章 神様のタイピングミス***
佐藤健太、三十歳、独身、営業職。彼の人生は、まるで気の抜けた炭酸水のように、刺激もなければ深みもない、ただ平坦な毎日が続くだけだった。趣味は特にない。特技もない。ただ、一つだけ奇妙な癖があった。ストレスが最高潮に達すると、口から突拍子もない冗談が飛び出すのだ。それは自己防衛本能なのか、それとも単なる思考のバグなのか、彼自身にも分からなかった。
その朝も、健太は地獄のような満員電車に揺られていた。湿ったコートの匂い、誰かのイヤホンから漏れるシャカシャカという音、背中に食い込む他人のカバン。あらゆる不快指数の集合体に押し潰されそうになりながら、彼は心の中で毒づき、そして、つい口に出してしまった。
「あーあ……こんな窮屈なら、いっそ体が紙みたいにペラペラになれば、隙間に入れるのになあ」
それは、誰に聞かせるでもない、ただの愚痴。いつもの癖だった。しかし、次の瞬間、健太の体に異変が起きた。視界がぐにゃりと歪み、手足の感覚が薄れていく。まるで自分が一枚の紙になったかのような、奇妙な浮遊感。気づけば、彼の体は新聞紙のように薄くなり、人々の隙間をスルスルとすり抜けて、電車のドアの前に立っていた。
「え……?」
パニックになった健太が「元に戻れ!」と心で叫ぶと、ふっと体が重みを取り戻し、元の立体的な肉体へと戻った。周囲の乗客は誰も彼の異変に気づいていない。心臓が早鐘のように鳴り響く。汗が額を伝う。今の現象は一体何だったのか。過労による幻覚か。それとも、ついに頭がおかしくなったのか。
会社に着いても、健太の動揺は収まらなかった。上の空でパソコンに向かっていると、隣の席の先輩が分厚い資料をドンと彼の机に置いた。
「佐藤くん、これ、今日の三時までによろしく。まあ、君には無理だろうけどねえ。冗談だよ、ジョーダン!」
嫌味な笑いを浮かべる先輩。健太のストレスゲージが再び振り切れた。彼は無意識に、小さな声で呟いた。
「……先輩の頭が、プリンになっちゃえばいいのに」
次の瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。先輩の、やや薄くなりかけた頭部が、ぷるん、と揺れた。見事なカスタード色の、つやつやしたプリンが、スーツを着た胴体の上に乗っている。カラメルソースまでかかっていた。
オフィスは一瞬で静まり返り、次の瞬間、悲鳴と爆笑の渦に包まれた。健太は口をあんぐりと開けたまま、硬直した。
どうやら、これは幻覚ではない。
自分の口にする「冗談」が、現実になる。
健太は、神様がコーディング中に起こした、とんでもないタイピングミスに巻き込まれてしまったことを、この時ようやく理解したのだった。
***第二章 全知全能の素人***
世界を意のままに操れる力を手に入れた。そう聞けば、誰もが壮大な野望を抱くだろう。しかし、三十年間、平凡という名の安全地帯でのみ生きてきた健太にとって、その力はあまりにも手に余る代物だった。
彼はまず、手始めに小さな実験を繰り返した。
「家に帰ったら、最高級の寿司が用意されてないかなあ」
帰宅すると、玄関を開けた瞬間から芳しい酢飯の香りがした。リビングには、信じられないほど美しい大トロやウニが並んだ寿司桶が鎮座していた。健太は泣きながら食べた。その味は、彼の貧相な語彙力では表現できないほど絶品だった。
「この書類の山が、一瞬で片付いたら楽なのに」
オフィスでそう呟くと、机の上の書類は完璧にファイリングされ、整然と棚に収まった。
「部長のつまらないダジャレ、全部スベればいいのに」
会議中、部長が得意げに放ったダジャレは、かつてないほど冷え切った沈黙を生み出し、部長は顔を真っ赤にして俯いた。
健太は全能感に酔いしれた。嫌なことは冗談で消し去り、欲しいものは冗談で手に入れる。人生は、彼が脚本を書くコメディドラマになった。彼は、この力を「ジョーク・リアリティ」と名付け、密かに楽しんでいた。
しかし、この能力は、彼の想像以上にデリケートで、そして危険だった。
ある日、プレゼンの準備に追われ、「ああ、もうちょっと頭がキレるようになりたいもんだ」と冗談めかして言った瞬間、頭上からカミソリの刃が数枚、ひらひらと舞い落ちてきたのだ。間一髪で避けたが、頬をかすめ、赤い線が走った。物理的に「キレる」ところだった。
またある時は、後輩の失敗を庇って「僕が全部やったことにしてください。もう、いっそ僕を透明人間にしてほしいですよ」と自虐的に言ったところ、本当に体が透け始め、誰からも認識されなくなってしまった。オフィスで一日中、孤独と恐怖に苛まれ、日が暮れる頃に「冗談でした!」と必死に叫んで、ようやく元に戻ることができた。
言葉の綾、皮肉、比喩表現。日本語の複雑さが、そのまま能力のバグとなって健太を襲う。彼は、自分が「面白い」と思って放った冗談でなければ、正確に発動しないことに薄々気づき始めていた。そして、自分のユーモアのセンスが、いかに乏しく、浅はかであるかを痛感させられた。全知全能の力を持つ彼は、その実、言葉の海で溺れかける、哀れな素人に過ぎなかったのだ。
***第三章 笑えない冗談***
健太の日常が非日常に塗り替えられていく中で、唯一変わらないものがあった。それは、同僚である高橋美咲の存在だった。彼女は、健太が働く部署の、一輪の花のような女性だった。いつも穏やかに微笑み、誰にでも親切で、健太のような冴えない男にも、屈託のない笑顔を向けてくれた。健太は、そんな彼女に密かな想いを寄せていた。
ある金曜の夜、健太は勇気を出して美咲を食事に誘った。彼女は喜んで頷いてくれた。夢のような時間だった。しかし、その帰り道、美咲はふと立ち止まり、少し寂しそうに笑って言った。
「佐藤さん、今日はありがとう。すごく、楽しかった」
その笑顔に、健太は今まで感じたことのない儚さを見た。そして、彼女は打ち明けた。自分は、進行性の難病を患っており、医者からは、もう長くはないと告げられている、と。
「だから、一日一日を、大切に生きたいんです」
そう言って微笑む彼女の顔を、健太はまともに見ることができなかった。頭をガツンと殴られたような衝撃。世界から色が消え、音が遠のいていく。彼の全能感は、粉々に砕け散った。
その日から、健太の頭は美咲のことでいっぱいになった。彼には世界を改変する力がある。そうだ、この力を使えば、彼女を救えるはずだ。
彼は誰もいない部屋で、何度も、何度も試した。
「美咲さんの病気なんて、まるで嘘みたいに消えちゃえばいいのに」
「彼女の体から、病気が冗談みたいに出ていけばいい」
しかし、何も起こらなかった。部屋は静まり返ったまま。彼の言葉は、ただ虚しく空気に溶けていくだけだった。なぜだ。なぜ、この一番大事な時に、力は発動しないんだ。
焦りと絶望の中で、健太はついに、この能力の残酷な真実にたどり着いた。
彼の能力は、彼自身が**「心の底から面白い、滑稽だと思って言った冗談」**でなければ、決して現実にはならない。
これまでの成功は、彼の皮肉や自虐の中に、無意識のユーモアの火種があったからだ。満員電車でペラペラになりたいという発想の馬鹿馬鹿しさ。上司の頭がプリンになるという光景の滑稽さ。それらを、彼自身がどこかで「面白い」と感じていた。
しかし、美咲の病気は違う。それは彼にとって、あまりにも深刻で、悲痛な現実だった。そこには一欠片のユーモアも、笑いも存在しない。あるのはただ、切実な祈りだけ。健太は、自分の力が、最も愛する人を救うためには全くの無力であることを悟り、その場に崩れ落ちた。神様のタイピングミスは、彼に究極の力を与え、そして、最も残酷な皮肉を突きつけたのだった。
***第四章 世界で一番、くだらない奇跡***
全てを失ったように感じた。健太はもう、自分の能力に頼ることをやめた。それは希望ではなく、ただの呪いだった。彼は、残された時間を、ただひたすら美咲と共に過ごすことを選んだ。
彼は彼女を笑わせようと必死になった。もともとユーモアのセンスなど皆無な男だ。彼の試みは、ことごとく空回りした。寒いダジャレを言っては眉をひそめられ、面白い顔をしては本気で心配され、ドジを踏んでは溜息をつかれた。彼はもはや世界を操る神ではなく、ただ一人の女性を笑顔にしたいだけの、不器用で哀れな男だった。
それでも、美咲はそんな健太を見て、よく笑った。彼の不器用さそのものが、彼女にとっては可笑しくて、そして、愛おしかったのかもしれない。
季節が巡り、美咲の病状は悪化していった。病院の白いベッドの上で、彼女の笑顔は少しずつ弱々しくなっていった。ある夜、彼女はほとんど意識が混濁し、健太の手を弱々しく握りしめていた。
もう、時間がない。健太の胸を、どうしようもない無力感が締め付けた。涙が溢れて止まらなかった。彼は、嗚咽を漏らしながら、彼女との思い出を語り始めた。初めて食事に行った日のこと、彼が盛大に空回りしたジョークのこと、一緒に見た映画がつまらなくて二人で苦笑いしたこと。
それは悲しいはずの回想なのに、語れば語るほど、その一つ一つが滑稽で、間抜けで、たまらなく愛おしい日々に思えた。
「僕ら……まるで、出来の悪いコメディドラマの登場人物みたいだよね……」
健太は涙で濡れた顔で、ふっと笑った。
「僕みたいな、何もない冴えない男が、君みたいな……太陽みたいな人に出会って……恋をして……。でも、結末は悲劇だなんて……。こんなの、神様の、たちの悪い冗談だよ」
その言葉を口にした瞬間、健太は、心の底から、その状況のあまりの理不尽さと、皮肉さに、泣きながら、本当に笑ってしまった。それは、絶望と、悲しみと、そしてどうしようもないほどの愛情がごちゃ混ぜになった、彼の人生で最高傑作の「冗談」だった。
その瞬間、奇跡が起きた。
健太の言葉に応えるように、病室が柔らかな光に包まれた。心電図の無機質な音が、穏やかで力強いリズムへと変わっていく。美咲の青白かった顔に、ゆっくりと血の気が戻り、その瞼がかすかに震えた。
健太の能力は、彼がユーモアの本当の意味――悲しみや絶望のどん底に咲く、一輪の愛おしい花――を理解したその瞬間に、初めて、彼の祈りを現実にしたのだった。
それから数年後。健太と美咲は、海辺の小さな町で二人、静かに暮らしている。健太はもう、あの力を滅多に使うことはない。彼は知ってしまったからだ。世界を丸ごと変えてしまうような奇跡よりも、目の前にいる愛する人を、たった一度笑わせることの方が、ずっと難しくて、ずっと尊いということを。
「ねえ、健太さん。もしも、あの時みたいに、私がプリンになっちゃったらどうする?」
縁側で洗濯物を畳みながら、美咲が意地悪く笑う。
健太は少し考えて、彼女の額にそっとキスをした。
「美味しくいただくよ。君なら、きっと世界一甘い味がする」
それは、何の力も持たない、ただの愛情表現。もう何も、現実にはならない。
彼の最大の願いは、もう「冗談」ではなく、温かい「現実」として、すぐ隣で微笑んでいた。空には、まるで神様が笑ったかのような、おかしな形の雲が浮かんでいた。
神様のタイピングミス
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