ミスター・ノー・スマイルと虹色の宝石

ミスター・ノー・スマイルと虹色の宝石

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第一章 感情飽和都市

僕、小鳥遊雄介(たかなしゆうすけ)の住むこの街では、感情は隠せない。それは比喩ではなく、物理的な現象だ。人々は喜びを感じると、シャンパンの泡のようにきらめく金色の息吹を吐き出し、悲しみに暮れれば、サファイアのような青い涙の結晶を頬からこぼす。怒りは頭から立ち上る深紅の蒸気となり、驚きは小さな稲妻となって指先からほとばしる。市役所の窓口業務は、さながら気象観測所のようだった。市民の陳情が激化すれば赤い蒸気が充満し、還付金の知らせには金色の息吹が舞う。それが、僕らの世界の日常だった。

そんな世界で、僕はたった一つの感情を排出できない特異体質だった。それは「笑い」。

どんなに面白い話を聞いても、どんなに滑稽な光景を目にしても、僕の身体はそれを外に出すことを頑なに拒んだ。代わりに、行き場を失った「笑い」のエネルギーは、僕の体内に澱のように蓄積されていく。それはまるで、栓をされた炭酸水の瓶だ。内側から絶えず圧力がかかり、時折、腹の底から奇妙な振動がこみ上げてくる。くぐもった「ゴポゴポ」という音は、誰にも聞かれてはならない僕だけの秘密だった。

だから僕は、笑わない。笑えないのではなく、笑わないのだ。徹底的に面白いものを避け、無感動を装い、心を凪の状態に保つ。その努力の甲斐あって、市役所での僕のあだ名は「鉄仮面」「能面係長」「歩く定款」。不名誉ではあるが、内臓が破裂するよりはマシだった。

そんな僕の平穏な、しかし常に内圧と戦う日常は、一人の新人によって破壊されることになる。

「小鳥遊係長! 私、今日からお世話になります、日向葵(ひなたあおい)です! 太陽みたいに周りを明るく照らせる職員になりたいです!」

彼女は金色の息吹を全身から盛大に放ちながら、深々と頭を下げた。その勢いで、彼女の頭頂部に乗っていたフクロウの形をしたボールペンが、放物線を描いて僕のコーヒーカップに見事なダイブを決めた。チャポン、という音と共に、黒い液体が放射状に飛び散り、僕が昨日三時間かけて完成させた書類の上に、無数のシミを作った。

周囲の同僚たちが、驚きの小さな稲妻をパチパチさせながら固まっている。僕は無表情のまま、ティッシュで書類をそっと拭った。

「……フクロウは夜行性だ。太陽とは相性が悪い」

「えっ? あっ、ほんとだ! すごい、係長って博識で詩人なんですね!」

彼女はさらに大量の金色の息吹を噴出した。キラキラと輝く粒子が僕の顔にかかり、少しだけくすぐったい。そして、僕の腹の奥で、ゴポッ、と危険な音が鳴った。まずい。この新人は、僕のダムを決壊させるタイプの天然記念物かもしれない。僕は静かに席を立ち、腹を押さえながらトイレへと向かった。個室の扉を閉めた瞬間、体中の筋肉を総動員して、こみ上げる笑いの発作を必死に押し殺した。ミシミシと、僕の内側で何かが軋む音がした。

第二章 決壊寸前のダム

日向葵という名の災害は、僕の予測をはるかに超える規模で市民課を席巻した。彼女は極度の方向音痴で、コピーを取りに行かせれば地下の書庫で迷子になり、電話の取り次ぎを頼めば、市長と町内会長を間違える。そのたびに彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、頭からしょんぼりとした青灰色の靄を出すのだが、その失敗談を武勇伝のように語るものだから、結果的にオフィスはいつも同僚たちの金色の息吹で満たされることになった。

僕にとって、それは地獄だった。彼女が存在するだけで、職場は笑いの地雷原と化した。僕は耳栓の購入を真剣に検討し始め、昼休みは一人、屋上で味気ないサンドイッチを頬張るのが日課になった。

「係長、見ーつけた!」

その日も、僕は給水塔の陰で固くなったパンを咀嚼していた。背後からの声に、危うくパンを喉に詰まらせそうになる。振り返ると、日向さんが弁当箱を片手に、太陽のような笑顔で立っていた。

「こんなところにいたんですね。係長って、ミステリアスですよね。いつも一人で、何を考えてるのかなって」

「……今日の夕飯の献立とか」

「えー、面白い! ちなみに何にするんですか?」

「麻婆豆腐だ」

「わ、奇遇! 私も今夜、麻婆豆腐にしようと思ってたんです! 私たち、気が合いますね!」

彼女はそう言って、また金色の息吹を放った。僕の腹部で「ゴボボボッ」と、いよいよ聞き捨てならないレベルの異音が発生する。僕は慌てて腹を強く押さえた。風船のように張っているのが、自分でもわかる。

「係長? お腹、痛いんですか?」

「いや、これは……腹筋を鍛えているんだ。シックスパックを目指している」

「すごーい! だからそんなにクールでいられるんですね! 私も見習わなきゃ!」

駄目だ。会話が成立しない。彼女のポジティブさは、あらゆる理屈を捻じ曲げ、すべてを笑いに昇華させてしまうブラックホールだ。

その週末、僕の我慢は限界を迎えようとしていた。日向さんに、半ば強引にお笑いライブのチケットを押し付けられたのだ。「落ち込んでいるみたいだから、元気だしてください!」という彼女なりの善意なのだろうが、僕にとっては処刑宣告に等しい。

「無理だ。私用がある」

「えー、そんなこと言わずに! この芸人さん、すっごく面白いんですよ! 見たら絶対、係長のその鉄仮面も崩れちゃいますって!」

彼女は無邪気に笑う。僕は青ざめた。崩れるどころじゃない。僕の肉体が四散するかもしれないのだ。しかし、「一緒に行かないと、私、悲しくて青い結晶がダイヤモンドくらい大きくなっちゃいます」と、潤んだ瞳で言われてしまえば、断る術はなかった。こうして僕は、人生最大の危機に、自らの足で歩み寄ることになったのである。

第三章 虹色の弾丸

ライブ会場は、開演前から人々の期待と興奮が入り混じった熱気に満ちていた。僕はサングラスとマスクで顔を完全に覆い、さらに音響用のイヤーマフまで装着するという、テロリストか何かにしか見えない重装備で席に着いた。隣の日向さんは、僕の異様な姿を見ても「わ、本格的ですね! プロの鑑賞家みたい!」と目を輝かせている。もう、何を言っても無駄だった。

幕が上がり、最初のコンビが登場する。僕はイヤーマフ越しにかすかに聞こえる音と、舞台上の身振り手振りだけで、必死に面白くないことを考えた。確定申告の締め切り、水道管の錆、宇宙の熱的死……。しかし、人間の本能とは恐ろしいものだ。視覚と聴覚から入る断片的な情報だけで、脳が勝手に文脈を補完し、面白いオチを予測してしまう。

その瞬間は、突然訪れた。

ベテラン漫才師の絶妙な「間」。相方の予期せぬ一言。会場全体が揺れるほどの爆笑の渦。僕の思考は完全に停止し、腹の底から、マグマのような灼熱のエネルギーがせり上がってきた。ダメだ、抑えきれない。ゴポポ、という音ではない。ゴゴゴゴゴ……! 地殻変動のような轟音が、僕の体内で鳴り響いている。

「係長、顔、真っ赤ですよ? っていうか、ちょっと光ってません?」

日向さんの心配そうな声が遠くに聞こえる。僕は体をくの字に折り曲げ、両手で腹を押さえる。だが、ダムはついに決壊した。

「プッ!」

情けない、小さな音だった。しかし、その音と共に、僕の口から何かが勢いよく飛び出した。それはビー玉くらいの大きさの、虹色に輝く固形の物体だった。宝石のようにきらめくそれは、放物線を描いて舞台上に着地し、カラン、と乾いた音を立てた。

一瞬、会場が静まり返る。観客も、舞台上の漫才師も、怪訝な顔で虹色の物体を見ていた。

ツッコミ担当の芸人が、それをそっと指でつまみ上げた。

「なんやこれ、お客さんからの差し入れ……?」

彼がそう言った瞬間だった。芸人の全身が、ビクンと痙攣した。彼の目がカッと見開かれ、常人ではありえないほどの速度で、相方に向かって叫んだ。

「差し入れなわけあるかい! これは宇宙の真理が凝縮された涙、時空を超えて俺のツッコミを待っていた奇跡の結晶や! お前のボケが陳腐すぎて、神が授けてくれた最終兵器なんじゃい!」

神がかった、としか言いようのないツッコミだった。キレ、語彙、熱量、すべてが人間の限界を超えていた。会場は、先ほどとは比較にならないほどの爆笑の津波に飲み込まれた。人々は腹を抱え、涙を流し、呼吸困難に陥りながら笑い転げている。

呆然とする僕の隣で、日向さんが僕の腕を掴んで叫んだ。

「係長! 今の、係長がやったんですか!? 口から宝石出して、芸人さんを面白くしたんですか!?」

僕は、自分の口からこぼれ落ちた虹色の結晶と、舞台上で覚醒したようにツッコミ続ける芸人を交互に見つめた。僕の体内に溜まっていた「笑い」は、呪いではなかった。それは、凝縮され、結晶化した、「純粋なユーモアの源泉」だったのだ。

第四章 ミスター・ノー・スマイルの新たな仕事

あの一件以来、僕の人生は一変した。翌日の新聞には『謎の観客、虹色の宝石で芸人覚醒!』という見出しが躍り、SNSでは「笑いの神」「ユーモア・アルケミスト」など、様々な異名で僕の存在が噂されるようになった。市役所には、僕の「笑いの結晶」を求める人々が殺到した。スランプに悩む芸人、面白いスピーチをしたい政治家、意中の相手を笑わせたいという青年まで。市民課の窓口は、さながら願いを叶える神社のようになってしまった。

僕は混乱し、自分の能力を恐れた。これまでひた隠しにしてきた秘密が、自分のあずかり知らぬところで世界を騒がせている。僕は再び家に引きこもり、誰とも会わずに過ごそうとした。

そんな僕のアパートのドアを、遠慮なく叩いたのは日向さんだった。

「係長! いますよね! 大変なんです、開けてください!」

ドアを開けると、彼女は息を切らして立っていた。手には、小さな男の子の手を引いている。

「この子、最近お母さんが入院しちゃって、全然笑わなくなっちゃったんです。でも、係長の結晶があれば、きっと……!」

僕は首を横に振った。

「やめてくれ。僕にはそんな力はない。あれはただの偶然だ」

「嘘です! 私、見ましたもん! 係長、あの時、すごく幸せそうに笑ってました! ちょっとだけ!」

彼女の言葉に、僕はハッとした。そうだ。あの時、結晶を吐き出した瞬間、僕の身体は何十年ぶりかの解放感を味わっていた。腹部の圧迫感が消え、世界が少しだけ鮮やかに見えた。あれは、紛れもなく「快感」だった。

僕は黙って男の子の前にしゃがみこんだ。彼は俯いたまま、僕の顔を見ようともしない。どうすればいい? 無理に笑わせることなんてできない。

その時、僕の隣に立った日向さんが、おもむろに信じられないくらい下手なアヒルのモノマネを始めた。

「グワッ、グワッ! ボク、アヒルサン。オサンポ、タノシイナ!」

あまりのクオリティの低さに、僕の腹筋が痙攣した。ダメだ、これは、来る。僕は観念して、心のダムを解放した。

「フッ……、アハハ、ハハハハハ!」

自分でも驚くほど大きな声で笑っていた。口からは、パチンコ玉くらいの大きさの虹色の結晶が、キラキラと輝きながらいくつも飛び出し、床に散らばった。

それを見た男の子が、小さな指で結晶を一つ、そっと拾い上げた。すると、彼の顔がパッと明るくなり、僕と日向さんの下手なアヒルの顔を交互に見て、ケラケラと声を上げて笑い出したのだ。その無垢な笑い声は、僕がこれまで聞いたどんな音楽よりも美しく響いた。

その日、僕は市役所に辞表を出した。

数週間後、僕は小さな事務所を構えた。「ヘブンズ・ジョーク」と名付けた、笑いのデリバリーサービスだ。僕が笑い、結晶を生み出す。そして、アシスタント兼社長の日向さんが、それを必要とする人々の元へ届ける。

「小鳥遊さん! 次の依頼です! 結婚式でスピーチを頼まれたけど、超絶あがり症の新郎の友人からです!」

「よし来た。何か面白いことを言ってくれ、日向社長」

「えーっと、じゃあ……。このボールペン、また鼻に入っちゃいました!」

彼女が鼻にボールペンを突っ込んでおどける。なんて古典的で、くだらないギャグだろう。でも、なぜだろう。彼女がやると、最高に面白い。

僕は腹の底から笑った。かつては呪いだと思っていた体内の圧力が、今は愛おしい。口から放たれる虹色の宝石は、僕が世界と繋がるための、温かくて、かけがえのない絆だった。

鉄仮面と呼ばれた男は、もういない。ここにいるのは、世界で一番、笑うのが得意な男だ。

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