第一章 耳の中の寄席
田中誠の人生は、ある日から突如として、常設の寄席会場と化した。それも、彼の頭の中だけに開演する、奇妙奇天烈な寄席である。市役所の戸籍係として、無味乾燥な判子と書類の山に埋もれる彼の日常は、表面上は昨日までと何ら変わりない。しかし、彼の耳に届く世界は、完全に調子が狂っていた。
例えば、目の前で赤子の夜泣きが止まらないと涙ながらに訴える若い母親。田中が同情を込めて「お察しします」と口にしかけた瞬間、彼女の心はこう叫ぶのだ。
『――まんじゅうこわい』
思わず、田中は差し出された書類を取り落としそうになる。まんじゅう?怖い?いや、怖いのはあんたの子供の泣き声だろう。混乱する頭で、彼はかろうじて業務を続行する。
あるいは、定年退職の手続きに来た、いかにも厳格そうな元校長先生。労いの言葉をかける田中に、彼は威厳たっぷりに頷いてみせる。だが、その心の内は、
『――お後がよろしいようで』
もう帰りたいだけじゃないか。長年の教職生活への感慨も、未来への希望も、そこにはない。ただ、早くこの場を立ち去りたいという、身も蓋もない本音だけが、高座の終わりを告げる定型句となって田中の鼓膜を揺さぶるのだ。
そう、田中誠は、他人の心の声が、なぜか古典落語の「オチ」として聞こえてしまう、という呪いのような能力に憑りつかれていた。人の本音、欲望、秘密。それらがすべて、数百年かけて練り上げられた話芸の締めの一言に変換されてしまう。この能力が発現してからというもの、彼の世界から真実味は失われた。言葉と心の乖離は、彼を人間不信の淵へと静かに突き落としていった。誰も彼もが、滑稽な噺の登場人物にしか見えなくなってしまったのだ。
彼は他人との深い関わりを徹底的に避けるようになった。愛想笑いを浮かべながら、心の中で悪態をつく上司の『長屋の花見』。残業を頼むと、快く引き受けるふりをして『時そば』を企む同僚。すべてお見通しだったが、それを指摘する術はない。ただ、孤独という名の分厚い壁を自らの周りに築き、感情のスイッチを切って日々をやり過ごすだけだった。
そんなある春の日、彼の灰色の日常に、ぽつりと一点、色の違う染みが落ちた。
「あの、すみません。婚姻届、こちらでよろしいでしょうか」
カウンターの向こうに現れたのは、鈴木ひかりと名乗る女性だった。桜色のブラウスが、彼女の少し上気した頬の色とよく似合っている。緊張からか、差し出す手が微かに震えていたが、その瞳は未来への期待にきらきらと輝いていた。
田中はいつものように、無感動を装って書類を受け取る。そして、無意識に彼女の心を探った。どんなオチが飛び出すだろうか。『たらちね』か、あるいは『子は鎹』か。
しかし――。
しん、と静まり返っていた。彼の頭の中の寄席は、固く扉を閉ざしたかのように、何の音も立てない。ただ、窓から差し込む午後の光が、空気中の埃をきらきらと照らし出すのが見えるだけだ。
「……?」
田中は思わず、ひかりの顔をまじまじと見つめた。彼女は彼の視線に気づき、小首を傾げる。
「何か、不備でも?」
「あ、いえ……」
慌てて書類に目を落とす。住所、氏名、証人欄。どこにも不備はない。完璧な婚姻届だ。
だが、田中が感じた不備は、書類の上にあるのではなかった。彼の世界に、初めて生じた「無音」という名の不協和音。それは、彼が失って久しい、ただの「沈黙」だった。そしてその沈黙は、どんなにやかましいオチよりも、彼の心を強く、激しく揺さぶったのである。
第二章 無音の安らぎと喧騒の板挟み
ひかりの心の声が聞こえない。その事実は、田中の日常に小さな、しかし決定的な変化をもたらした。彼は、生まれて初めて「普通」の会話ができる相手を見つけたのだ。
婚姻届の提出から数日後、彼女は別の手続きで再び市役所を訪れた。田中は自分の担当ではなかったにも関わらず、思わず声をかけてしまった。
「あの、先日の……」
「あ、はい!その節はありがとうございました」
ひかりは太陽のような笑顔で応じた。田中が恐る恐る彼女の心を探っても、やはりそこは静寂に包まれている。聞こえるのは、彼女自身の明るい声と、背後で騒がしい役所の喧騒だけだ。
「書類、無事に受理されたようで、何よりです」
「はい。おかげさまで。あの、なんだか田中さんって、すごく真面目な方なんですね」
「はあ……よく言われます」
心が読めない。ただ、彼女が発する言葉と表情だけが、コミュニケーションの全てだった。それは田中にとって、まるで外国語しか話せない国で、初めて母国語を話す人に出会ったかのような安堵感をもたらした。疑心暗鬼のフィルターを通さず、言葉を言葉として受け取れることが、これほどまでに心地よいとは。
しかし、一歩ひかりから離れれば、世界は再び滑稽な寄席へと逆戻りする。
「田中くん、この資料のまとめ方、素晴らしいじゃないか!君の真摯な仕事ぶりには、いつも感心させられるよ」
肩を叩いてくる課長の心には、くっきりと『目黒のさんま』が響き渡る。――「さんまは目黒に限る」。結局、自分の手柄にしたいだけなのだ。
「田中さん、この後の飲み会、来られますよね?みんな待ってますよ!」
人懐っこい笑顔で誘ってくる後輩女子の胸の内は『禁酒番屋』。――「これなら番屋も通るだろう」。本当は、人数合わせでしかない。
田中は、ひかりといる時の安らぎと、それ以外の世界とのギャップに、ますます苛まれるようになっていた。まるで、穏やかな水面と荒れ狂う嵐の海を、一日のうちに行き来しているようだ。ひかりという存在は、彼にとって唯一の避難港であると同時に、それ以外の世界の異常さを際立たせる鏡でもあった。
「もしかして、何か悩み事でもあるんですか?」
ある昼休み、偶然食堂で一緒になったひかりが、心配そうに田中の顔を覗き込んだ。彼の眉間には、自分でも気づかないうちに深い皺が刻まれていたらしい。
「いえ、別に……」
「そうですか?なんだか、いつも難しい顔をされているから。世界中の不幸を一人で背負っているみたいな」
ひかりの言葉は、的を射ていた。彼は世界中の「オチ」を一人で背負っているのだ。
「そんなことありませんよ。ただ、人の言うことを、素直に信じられない時があるだけで」
自嘲気味に呟くと、ひかりはきょとんとした顔で言った。
「なんでです?嘘をつくのって、結構疲れますよ。私は面倒くさがりなので、できません」
そのあまりに屈託のない物言いに、田中は言葉を失った。この人には、本当に裏がないのかもしれない。彼女の周りだけ、空気が澄んでいるように感じられた。
この能力は、やはり人生のバグでしかない。人の心を歪め、自分を孤独にするだけの、忌まわしい呪いだ。田中は、ひかりと出会ったことで、その確信を一層強くしたのだった。
第三章 芝浜の不協和音
平穏な時間は、唐突に終わりを告げた。
その日、ひかりは青ざめた顔で田中のカウンターにやってきた。数週間前とはまるで別人のように、彼女の瞳からは輝きが消え失せ、暗い影が落ちている。
「すみません、先日提出した婚姻届のことで、ご連絡をいただいて……」
「確認します。……ああ、こちらですね。証人の方の印鑑が、少し不鮮明でして。再押印を」
事務的な口調で説明しながらも、田中は彼女の様子が気になって仕方なかった。すると、ひかりの背後から、すらりとした長身の男性がぬっと姿を現した。歳は三十代半ばだろうか。高価そうなスーツを着こなし、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「いやあ、申し訳ない。僕の友人に頼んだんだが、どうもそそっかしい奴でね」
男はそう言って、ひかりの肩を優しく抱いた。彼が婚約者なのだろう。ひかりは力なく微笑むだけで、何も言わない。
田中は、言いようのない胸騒ぎを覚えた。そして、いつものように、目の前の男の心を探った。その瞬間、彼の背筋を冷たいものが駆け上がった。
今まで聞こえてきた、どんな「オチ」とも違う。それは、ただ滑稽なだけではない。噺の根底に流れる、物悲しさ、やるせなさ、そして一種の諦念が、重く冷たい塊となって田中の心にのしかかってきた。
『――よそう。また夢になるといけねぇ』
『芝浜』。大金を拾った魚屋が、女房の機転でそれを夢だったと思い込まされ、心を入れ替えて真面目に働くようになる人情噺。そして、何年か後に真実を打ち明けられた男が、祝杯を勧められても断る時の、あの有名な一言だ。
なぜ、この男から『芝浜』が聞こえる?この幸福の絶頂にあるはずの男から、なぜこんなにも物悲しいオチが?
田中は混乱した。これは単なる心の声ではない。何か、もっと重大な意味を持つのではないか。彼の能力が、初めて警鐘を鳴らしているように思えた。
「すぐに友人に連絡して、押し直してもらいます。ご迷惑をおかけしました」
男は丁寧に頭を下げると、ひかりを促して去っていった。その後ろ姿を見送りながら、田中は『芝浜』のオチを何度も頭の中で反芻していた。
夢。嘘。大金。そして、諦め。
バラバラのキーワードが、彼の頭の中で不吉なパズルのピースのように散らばる。今まで、この能力をただのノイズとして聞き流してきた。だが、もし、これが未来に起こることの「結末」を示唆しているとしたら?
ひかりの、あの翳りのある表情。婚約者の、あの完璧すぎる笑顔。そして、不釣り合いなほどに物悲しい『芝浜』のオチ。
田中は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。ひかりが、危ない。
彼はいてもたってもいられなくなった。初めて、この忌まわしい能力を、誰かのために使わなければならないと直感した。今まで心を閉ざすために使ってきた盾を、今度は誰かを守るための剣として振るうのだ。
彼は決意を固めると、有給休暇の申請書を握りしめ、課長のデスクへと向かった。課長の心からは、案の定『居残り』が聞こえてきたが、もはやそんなことはどうでもよかった。田中の頭の中は、ひかりを救うという、ただ一つの目的で満たされていた。
第四章 これからが、本当の噺の始まり
田中の調査は、困難を極めた。手がかりは、婚約者の名前と、『芝浜』という不吉なオチだけ。彼は市役所のデータベースを駆使し、探偵まがいの尾行まで行った。最初は空振りの連続だったが、諦めずに食い下がるうち、男の経歴に不審な点が見つかり始める。名前も、職業も、全てが嘘で塗り固められていたのだ。
そして、決定的な証拠を掴んだ。男は、資産家の女性を狙って結婚をちらつかせ、金品を巻き上げる常習犯の結婚詐欺師だった。ひかりもまた、両親から相続したささやかな資産を狙われていたのだ。
『芝浜』のオチの意味が、雷に打たれたように田中の脳を貫いた。詐欺が成功し、大金を手にした男が、ひかりを捨て去る時に嘯く言葉だ。「君との結婚なんて、楽しい夢だったよ。でも、いつまでも夢を見てはいられないからね」。そう言って、彼はひかりの前から消えるのだろう。あの物悲しい諦念は、捨てられるひかりのものではなく、全てを夢として片付け、次の獲物へと向かう詐欺師自身の、歪んだ空虚さだったのだ。
田中は証拠を握りしめ、ひかりの元へと走った。インターホンを何度も鳴らし、ようやく出てきた彼女に、彼は堰を切ったように全てを話した。自分の奇妙な能力のこと。婚約者の心から聞こえた『芝浜』のこと。そして、彼が突き止めた、残酷な真実を。
「何を、言ってるんですか……?」
ひかりは震える声で言った。彼女が信じられないのも無理はない。しかし、田中は必死だった。
「信じられないのは分かります!でも、これは本当なんです!あなたの目が、最初に会った時と全然違う。僕には分かるんです!」
彼の言葉は支離滅裂だったかもしれない。だが、その瞳には、今まで誰も見たことのない真剣な光が宿っていた。田中が差し出した調査資料と、彼の必死の形相を前に、ひかりの顔から血の気が引いていく。彼女は、薄々感じていた違和感の正体を、ようやく突きつけられたのだ。
事件は、そこからあっけなく解決へと向かった。ひかりは警察に相談し、田中が掴んだ証拠によって男は逮捕された。全てが終わり、彼女は改めて田中の前にお礼を言いに来た。
「ありがとうございました。田中さんがいなかったら、私は……」
「いえ……」
田中は、どう言葉を返せばいいか分からなかった。
数週間後、市役所の窓口は、いつも通りの喧騒に包まれていた。田中の耳には、相変わらず人々の心の「オチ」が聞こえてくる。しかし、以前のようにそれを不快だとは思わなかった。むしろ、それは不器用な人々の、隠された本音やささやかな願いを伝える、不格好なサインのように感じられた。彼は、この世界を少しだけ、許せるようになっていた。
その時、カウンターの向こうに、見慣れた姿が現れた。桜色のブラウスを着た、鈴木ひかりだった。彼女は、以前のような輝きを取り戻した瞳で、まっすぐに田中を見つめていた。
「田中さん。今度、改めてお礼をさせてください。食事でも、どうですか」
その誘いに、田中の心臓が小さく跳ねる。彼は、ほんの少しだけ期待を込めて、彼女の心に耳を澄ませた。
すると、今度は聞こえた。
それは、有名な古典落語のオチではなかった。ひどく穏やかで、温かく、そして確かな響きを持つ、一言だった。
『――これからが、本当の噺の始まり』
田中は、その言葉の意味をゆっくりと噛み締めた。そして、心の底から、本当に自然な笑みが込み上げてくるのを感じた。それは、愛想笑いでも、自嘲の笑みでもない。彼の人生という名の高座で、初めて鳴り響いた、希望に満ちた出囃子だった。
彼の世界は、もう誰かの噺のオチで終わることはない。目の前の彼女と共に、これから始まるのだ。お後がよろしいかどうかは、まだ誰にも分からない。だが、それもまた、悪くない。田中はそう思った。