小山田護の、あまりにも危険なガーデニング

小山田護の、あまりにも危険なガーデニング

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小山田護(おやまだまもる)、32歳、独身、経理部所属。彼の人生は、電卓のディスプレイに並ぶ数字のように平坦で、予測可能だった。唯一の情熱は、ベランダで繰り広げられる小さな家庭菜園。最近、彼が血眼になって手に入れたのは、ネットオークションで競り落とした「天空のサファイア」という品種の、青いミニトマトの種だった。

「ふふふ…ついにこの日が来たか」

週末の朝、小山田は真新しいプランターに優しく土を入れ、ピンセットでつまんだ一粒の種を埋めた。その姿は、まるで聖遺物を安置する神官のように厳かだった。彼にとって、これは神聖な儀式なのだ。

だが、その「神聖な儀式」は、複数の人間によって全く別の意味に解釈されていた。

***

隣室の102号室。カーテンの隙間から、高性能双眼鏡が小山田のベランダに焦点を合わせていた。
「コードネーム『漆黒の鷹(しっこくのたか)』より本部へ。ターゲット『農夫(ファーマー)』が、ついに『青い涙』の培養を開始した。繰り返す、『青い涙』の培養を開始した」
男の名は佐藤。表向きはフリーのWEBデザイナーだが、その正体は、国家の存亡を憂うあまり独自に活動を始めた、自称・諜報員である。彼が所属する「本部」とは、SNSの非公開グループで繋がった、同じ志を持つ数人の仲間だ。
佐藤は確信していた。小山田護は、国際的な犯罪組織の植物学者であり、「天空のサファイア」とは、あらゆる電子機器を無力化するウイルス兵器のコードネームに違いない、と。あの小さな種に、世界の運命が詰まっているのだ。

「必ず、阻止してみせる…!」
佐藤は、コンビニで買ったカツ丼をかき込みながら、固く誓った。

***

向かいのマンションの305号室。スランプに陥ったミステリー作家、鬼頭響子(きとうきょうこ)は、万年筆を噛みながら窓の外を眺めていた。
「…まただわ」
双眼鏡のレンズの先には、ベランダで何やら怪しげな作業をする小山田の姿。夜中にこっそり土をいじり、時折、空を見上げて不気味に微笑む。先日は、大きな麻袋を担いで部屋に入っていくのを目撃した(中身は園芸用の土だった)。
「間違いない。あの男、何かを埋めている。肥料にしては量が多すぎる。あれは…そうよ、人間の骨を砕いたものに違いないわ!」
鬼頭の脳内で、次回作のプロットがみるみるうちに組み上がっていく。主人公は、平凡なサラリーマンを装ったサイコキラー。夜な夜なベランダで、犠牲者の遺体を植物の肥料にするのだ。タイトルは『ベランダは死の香り』。
「ありがとう、小山田さん。あなたのおかげで傑作が書けそうだわ…!」
彼女は興奮のあまり、担当編集者に「最高のプロット、降臨セリ」とだけメッセージを送った。

***

一方、小山田のアパート近くの公園では、金髪のケンジとパンチパーマのマサが、深刻な顔で話し合っていた。
「なあ、聞いたか?あのボロアパートの2階に住んでるサラリーマン、ヤバい草を育ててるらしいぜ」
「ヤバい草って…まさか、あの伝説の…?」
「ああ。一粒吸えば三日三晩ハッピーになれて、純金よりも高く売れるって噂の『ブルーヘブン』だ」
どこでどう間違ったのか、小山田の青いトマトの話は、裏社会の噂話と融合し、とんでもない都市伝説と化していた。彼らにとって、小山田のベランダは、一攫千金を夢見るエルドラド(黄金郷)そのものだった。
「今夜、いただくしかねえな」
「おうよ!」
二人は拳を突き合わせ、邪悪な笑みを浮かべた。

***

それから数週間。小山田のトマトは、彼の愛情を一身に受けてすくすくと育った。
その間、小山田の周囲では、壮絶な攻防戦が繰り広げられていた。
諜報員・佐藤は、小山田の部屋への侵入を試みるも、玄関先で小山田の飼い猫「ミケ」に顔を引っかかれて撃退された。
ミステリー作家・鬼頭は、小山田がスーパーで買ってきた消臭剤を「死臭を消すための偽装工作」と断定し、物語のリアリティを追求するため、同じ商品を購入した。
チンピラのケンジとマサは、雨どいを伝ってベランダに侵入しようとしたが、足を滑らせて二人仲良くゴミ捨て場のネットにダイブした。

そして、運命の日がやってきた。
青く、宝石のように輝くミニトマトが、ついに実をつけたのだ。
「おお…!我が子よ…!」
小山田は感涙にむせびながら、今夜、ささやかな収穫祭を開くことを決意した。クラッカーと、少しお高めのチーズ、そして主役の「天空のサファイア」を食すのだ。

その夜。
小山田が「収穫の儀」のためにベランダに出た、まさにその瞬間だった。

「動くな!農夫!」
黒ずくめの戦闘服(ネット通販で購入)に身を包んだ佐藤が、リビングの窓を突き破って転がり込んできた。手には水鉄砲を改造した麻酔銃(のつもり)。

「待ちなさい!その凶行、すべてお見通しよ!」
玄関のドアをピッキング(動画サイトで習得)で開けた鬼頭が、万年筆を突きつけて叫ぶ。彼女は、小山田が新たな犠牲者を出すと確信し、自ら乗り込んできたのだ。

「へへへ、お宝はいただきだぜ!」
ケンジとマサが、ついにベランダに到達。しかし、そこにいたのは小山田だけではなかった。

リビングは一瞬で戦場と化した。
「貴様ら、組織の増援か!」「あんたたちこそ、死体泥棒の仲間ね!」「んだテメエら!横取りする気か!」
佐藤、鬼頭、ケンジ&マサ。三者は互いを小山田の共犯者やライバルだと勘違いし、壮絶な三つ巴の乱闘を開始した。水鉄砲が火を噴き、万年筆が宙を舞い、チンピラたちの怒号が響き渡る。

大混乱の渦の中心で、当の小山田はきょとんと目を丸くしていたが、やがて状況を自分なりに解釈し、満面の笑みを浮かべた。
「みなさん!僕の『天空のサファイア』収穫祭パーティーに、サプライズで駆けつけてくれたんですね!?」

彼は収穫したばかりの青いミニトマトを籠に盛り、乱闘中の三者の前に差し出した。
「どうぞ、召し上がってください!これが僕の、血と汗の結晶です!」

ピタリ、と三者の動きが止まる。
彼らの視線は、小山田が差し出す、ただの青いミニトマトに注がれた。

佐藤が、震える手で一粒つまむ。「…これは…ウイルス兵器では…?」
鬼頭が、呆然とつぶやく。「…骨を…埋めたのでは…?」
ケンジが、トマトをまじまじと見て叫ぶ。「…ブルーヘブンじゃ…ねえのかよ!?」

小山田は、心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「え?これは観賞用のミニトマトですけど。ああ、でも食べられますよ。ちょっと酸っぱくて、皮が硬いだけで」

静寂がリビングを支配した。
やがて、誰からともなく、くすくすと笑い声が漏れ始めた。それはすぐに、抑えきれない大爆笑へと変わっていった。

その夜、小山田のアパートでは、奇妙な四人組が、あまり美味しくない青いトマトをかじりながら、夜が更けるまで語り合ったという。

後日、佐藤は「諜報活動はもっと慎重に」と本部の仲間から諭され、鬼頭響子の新作コメディ小説『ベランダは勘違いの香り』はベストセラーとなり、ケンジとマサはなぜか小山田に感化され、近所の花屋で真面目に働き始めた。

そして小山田護は、何も知らないまま、次のターゲットとして「漆黒のダイヤモンド」と呼ばれる黒いトウモロコシの栽培計画を立てるのであった。彼のあまりにも危険なガーデニングは、まだ始まったばかりである。

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