第一章 ダジャレは突然に
須田譲(すだゆずる)、三十ニ歳。彼の人生は、ある朝を境に、安っぽい三文芝居のようになった。原因は、この耳だ。人の心の声が、それも極上のダジャレに変換されて聞こえるようになってしまったのだ。
「今日のプレゼン、絶対に成功させるぞ…!」
鏡の前でネクタイを締めながら、自分に気合を入れる。しかし、背後を通り過ぎた母親の思考が、無慈悲に鼓膜を突き刺した。
(朝食のパン、**食パンだ**!)
「……知ってるよ」
譲は、こめかみを押さえながら小さな声で呻いた。母親はただ、トーストを皿に乗せようとしただけだ。悪意はない。悪意はないが、この脳に直接響くオヤジギャグの破壊力は凄まじい。
広告代理店に向かう満員電車は、地獄のコメディ劇場だ。
(この会議、**会議は踊る**、されど進まず…ってか?)
(部長の頭、**後退した**んじゃなくて、時代が**前進した**だけだよね?)
(ああ、カレーが食べたい。**華麗に**仕事を終わらせて…)
譲はヘッドホンで耳を塞ぎ、大音量でクラシック音楽を流すが、それらを突き抜けて、くだらないダジャレの洪水が思考を侵食してくる。真面目で、物事を深く考える性格の彼にとって、この能力は呪い以外の何物でもなかった。
そして今日、呪いは最悪の形で牙を剥いた。
新商品のプロモーションに関する、会社の命運を賭けたコンペ。譲がメインプレゼンターだった。重役たちが並ぶ会議室の空気は、氷のように張り詰めている。
「…以上が、我々の提案する戦略の骨子です」
順調だった。手応えもあった。しかし、クライアントの社長が腕を組み、深く頷いた、その瞬間だった。
(なるほど、面白い。この企画、**採用**したい気持ちは**山々**だが…)
「ぶっ!」
譲は、思わず吹き出してしまった。静寂に包まれた会議室に、間の抜けた音が響き渡る。しまった、と思った時にはもう遅い。社長の眉がピクリと動き、隣に座っていた自社の上司が、鬼のような形相でこちらを睨んでいる。
(採用したい気持ちは山々…?なんだその古風なダジャレは!しかも山々ってなんだよ、二つも採用したいのか!?)
脳内で激しいツッコミが繰り広げられるが、口から出たのは引きつった笑いだけだった。
「す、すみません…少し、のどに…」
必死で取り繕うが、一度崩れた雰囲気は戻らない。その後の質疑応答はしどろもどろになり、プレゼンは歴史的な大失敗に終わった。
会社に戻るなり、上司に個室へと呼び出された。
「須田くん、君はあの場を何だと思っているんだ!」
激しい叱責が飛ぶ。譲はひたすら頭を下げるしかない。
(期待していたんだがな…。俺の**期待**、**液体**になって流れちまったよ…)
上司の落胆した心の声が、またもダジャレになって突き刺さる。譲は唇を噛み締めた。違うんです、あなたの期待は液体なんかじゃない。俺だって、必死だったんだ。そう叫びたかったが、言えるはずもなかった。
その日から、須田譲は人間を避けるようになった。人の心が、言葉が、信じられなくなった。世界は、くだらないダジャレでできた、薄っぺらな張りぼてのように思えた。
第二章 静寂の君と騒音の僕
譲が心を閉ざしてから数週間後、彼の所属する営業部に、一人の女性が中途採用で配属されてきた。
「はじめまして、天野心(あまの こころ)です。皆さんと一緒にお仕事できるのが楽しみです。よろしくお願いします!」
太陽をぎゅっと絞って人間にしたような、明るい笑顔だった。同僚たちが歓迎の言葉を口にする中、譲はデスクの隅で、警戒心を剥き出しにしていた。彼女が近づいてくる。耳を塞ぎたくなるのを必死でこらえる。さあ、どんなダジャレが飛び出す?「**天野**です、**甘党**です」とか言うのか?
「須田さん、ですよね?天野です。これからよろしくお願いします」
心は、譲のデスクの前に立つと、にこりと微笑んだ。譲は身構えた。だが、彼の耳に飛び込んできたのは、予想していたダジャレではなかった。
……しいん。
いや、違う。完全な無音ではない。それは、澄んだ小川のせせらぎのような、心地よく静かな音だった。風がそよぐ音。木の葉が触れ合う音。そんな、穏やかで優しい音だけが聞こえた。
「……あ、ああ。須田だ。よろしく」
譲は呆然としながら、彼女の差し出した手を握った。彼女の心の声は、ダジャレにならない。この騒音に満ちた世界で、彼女の周りだけが、まるで聖域のように静かだった。
それからというもの、譲は無意識に心を目で追うようになっていた。彼女は、誰にでも平等に、そして裏表なく接した。ミスをした後輩を庇い、さりげなくフォローする。重い荷物を持つ清掃員を見かければ、駆け寄って手伝う。そのたびに、譲は彼女の心の音に耳を澄ませたが、聞こえてくるのはいつも、あの穏やかなせせらぎだけだった。
(この人はいったい、どうなっているんだ…?)
興味と、ほんの少しの恐怖。彼女だけが特別なのか、それとも、この能力が壊れ始めたのか。
そんなある日、例の上司から新しい仕事が言い渡された。
「須田、次の地域活性化プロジェクトだが、天野さんと二人で担当してもらう」
「えっ!?」
断る間もなかった。かくして、譲は最も近づきたくなかった、しかし最も気になっていた人物と、ペアを組むことになったのだ。
最初の打ち合わせは、気まずい沈黙から始まった。譲が口を開くたびに、自分の心の声が相手にダジャレで伝わったらどうしよう、という恐怖が襲う。
「あの、須田さん」
沈黙を破ったのは、心だった。
「何か、悩んでることがあるんじゃないですか?無理にとは言いませんけど、私でよかったら聞きますよ」
まっすぐな瞳が、譲を射抜く。譲の鼓膜には、彼女の心のせせらぎが聞こえている。嘘や建前ではない、純粋な気遣いの音だ。
「…いや、別に」
譲は素っ気なく答えて、資料に目を落とした。でも、彼の心臓は、まるでドラムのように激しく鳴っていた。この静けさは、心地いい。もっと、この音を聞いていたい。
ダジャレの洪水の中で溺れかけていた譲にとって、天野心という存在は、唯一息継ぎができる、小さな浮島のように思え始めていた。
第三章 嵐の中の駄洒落アンサンブル
プロジェクトは、予想外に順調に進んだ。心の卓越したコミュニケーション能力と、譲の緻密なデータ分析能力は、見事な化学反応を起こした。譲は、心の隣にいる時だけは、忌まわしい能力のことを忘れ、仕事に没頭できた。久しぶりに感じる充実感。このまま、うまくいけばいい。そう、心の底から願っていた。
しかし、現実は非情だ。プレゼンを三日後に控えた夜、メインの協力企業から、突然の契約辞退の連絡が入った。理由は、競合他社からの、より有利な条件提示。屋台骨を失った企画は、一瞬にして崩壊の危機に瀕した。
深夜のオフィスは、パニックと絶望に包まれていた。
「どうするんだよ、もう時間がないぞ!」
「そもそも、あの企業を選んだのが間違いだったんだ!」
責任のなすりつけ合い。飛び交う怒号。そして、譲の耳には、地獄の駄洒落アンサンブルが鳴り響いていた。
(俺の人生、もう**お終いだ**!**お姉妹**(しまい)なんていないけど!)
課長の悲痛な心の声。
(この状況、**どうしよう**もないな…**銅賞**くらいは欲しかったが…)
先輩の諦めに満ちた思考。
(胃が痛い…**ストレスで胃に穴**が空いたら、**アナウンサー**にでもなろうかな…)
同僚の現実逃避。
くだらない。あまりにもくだらない。こんな大変な時に、どうしてお前たちの頭の中は、そんな駄作で埋め尽くされているんだ!
譲は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ノイズが、ノイズがうるさい。吐き気がする。もう何も聞きたくない。
その時だった。
「大丈夫。まだ、終わりじゃない」
凛とした声が、喧騒を切り裂いた。心だった。彼女は、青ざめた顔で、それでもまっすぐに前を向いていた。
「別の協力企業を探しましょう。今から全員で手分けしてリストに当たりましょう。まだ、諦める時間じゃないです」
その言葉に、誰もがハッとした顔になる。そうだ、まだ終わっていない。だが、その瞬間、譲の耳は、これまで聞いたことのない音を捉えた。
それは、心からの声だった。
いつもは静かなせせらぎしか聞こえなかった彼女の心から、初めて、はっきりとした言葉が、ダジャレになって聞こえてきたのだ。
(**譲(ゆずる)れない想いがあるのに、須田(すだ)直になれない**…)
それは、今まで聞いたどのダジャレよりも拙く、そして、どうしようもなく悲しい響きを持っていた。
譲は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼女も、不安だったのだ。笑顔の裏で、たった一人で、この重圧と戦っていたのだ。そして、「譲れない想い」「素直になれない」…それは、このプロジェクトへの情熱と、そして、もしかしたら…。
譲の中で、何かが、カチリと音を立てて切り替わった。
ダジャレは、ノイズじゃなかった。
それは、彼らが口に出せない本音、不安、恐怖、そして願いが、不器用に変形しただけの、心のサインだったんだ。
「お終いだ」と嘆く課長は、誰よりもこのプロジェクトに人生を賭けていた。「銅賞」を欲しがった先輩は、本当は金賞を獲りたかったんだ。「胃に穴」が空きそうな同僚は、それほどのプレッシャーを感じながらも、この場から逃げ出さずに戦っている。
俺は今まで、何を聞いていたんだ。
彼らの心の表面を滑る、くだらない言葉の響きにだけ囚われて、その奥にある悲鳴を聞こうとしてこなかった。
譲は、ゆっくりと立ち上がった。もう、ヘッドホンはいらない。
第四章 その心、翻訳します
「皆さん、聞いてください」
譲の声は、不思議なほど落ち着いていた。喧騒の中、全員の視線が彼に集まる。
「課長。このプロジェクト、お終いになんてさせません。課長が『姉妹』のように大切に育ててきたこの企画、俺たちが守ります」
「え…?」
課長が目を丸くする。
「先輩。俺たちは銅賞で満足するチームじゃないでしょう。狙うなら、金賞一択です。そのために『どうしよう』か、今から考えましょう」
「須田くん…」
「そして、お前。ストレスで胃に穴が空く前に、そのストレスを競合にぶつけようぜ。俺たちが最高の『アナウンス』をして、世間を驚かせるんだ」
同僚は、呆然とした顔で譲を見ていた。
譲は、皆の顔を見渡した。ダジャレの奥にある、彼らの本当の顔が、今ははっきりと見える。
「俺は、今まで皆さんのこと、何も分かっていませんでした。でも、今なら分かります。みんな、このプロジェクトを愛している。だから、怖いんですよね。失うのが」
オフィスの空気が、変わった。諦めと混乱は消え、静かな熱気が満ちていく。
「俺に、考えがあります」
そこからの数時間は、まさに戦争だった。譲は、これまで培ってきた分析能力をフル回転させ、代替案となりうる企業のリストを瞬時に作成。心のコミュニケーション能力が、深夜にも関わらず次々とアポイントを取り付けていく。チームの誰もが、自分の役割を理解し、完璧な連携で動き始めた。彼らの心の声は、相変わらずダジャレのままだったが、もう譲を苦しめることはなかった。むしろ、それはチームの士気を高めるBGMのようにさえ聞こえた。
プレゼン当日。譲と心は、新しいパートナー企業と共に、クライアントの前に立っていた。譲のプレゼンは、以前とは別人のように、熱と自信に満ち溢れていた。彼は、データや戦略だけでなく、このプロジェクトに関わるチーム全員の「想い」を、自分の言葉で語った。
結果は、逆転での大勝利だった。
その夜の打ち上げは、大いに盛り上がった。上司が、酔って譲の肩を叩く。
(いやあ、見直したぞ!君は**大器晩成**だな!…うちの**炊飯器**も**晩成**だけどな!)
譲は、そのくだらないダジャレに、心からの笑顔で応えた。
「ありがとうございます。部長のおかげです」
宴もたけなわの頃、譲はそっと席を立ち、一人で夜風にあたっている心の隣に立った。
「天野さん」
「須田さん。…すごかったですね、今日のプレゼン」
心は、少し照れたように笑った。彼女の心の音は、また、あの穏やかなせせらぎに戻っていた。
「あの時…俺に聞こえたんだ。天野さんの心の声が」
心が、息を呑むのが分かった。
「『譲れない想いがあるのに、素直になれない』って」
譲は、まっすぐに彼女の目を見て言った。
「俺、ずっと人の心が聞こえるのが怖かった。でも、天野さんのあの声を聞いて、分かったんです。大事なのは、何が聞こえるかじゃなくて、何を聴こうとするかなんだって」
「須田さん…」
「俺も、素直になります。あなたのことが、もっと知りたい。あなたの心の、せせらぎの音を、これからも隣で聞いていたい」
心は驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりと、花が咲くように微笑んだ。
「…私の心の声、ダジャレだったんですか?」
「ええ、とびっきりのやつが」
二人の間に、温かい笑いがこぼれた。
譲の世界から、ダジャレが消えたわけではない。明日になればまた、やかましい駄洒落アンサンブルが彼を包むだろう。だが、もう彼はそれを呪いとは思わない。それは、不器用で、滑稽で、だけどどうしようもなく愛おしい、人間の心のメロディなのだから。
譲は、世界でただ一人の「駄洒落翻訳家」として、この騒がしくも美しい世界を、もう少しだけ愛してみようと、そう思った。