オノマトペ・サニタイザー
第一章 沈黙とゼリーと自白装置
僕、オトナシ・ヒビキの体は、どうやら欠陥品らしい。感情の蛇口が壊れているのだ。例えば、今。向かいの席に座る女性の、窓から差し込む光に透ける髪が綺麗だと感じた瞬間、胸の奥が微かに脈打つ。すると、喉元に何かがせり上がってくる感覚。僕は慌てて口元をハンカチで覆った。
「ドキドキ」
湿った音と共に、手のひらの上にぷるんと震えるハート型のゼリーが三つ、転がり出た。いちご味の甘い香りがふわりと漂う。僕はそれを誰にも見られないよう、素早くポケットに押し込んだ。これが僕の日常。感情が高ぶると、その感覚を表すオノマトペが、物理的な物体となって体から飛び出してしまうのだ。
僕が住むこの街は、静かだ。人々は俯き加減に歩き、互いに視線を交わさない。誰もが首から、古めかしい拡声器を模した銀色のデバイス――『自白スピーカー』をぶら下げている。この街には絶対的なルールがある。『他人から質問をされると、質問内容に関わらず、自分の最も隠したい失敗談を感情的に朗読しなければならない』。この義務を怠れば、社会的に抹殺される。だから人々は質問をしない。会話は天気の話か、当たり障りのない挨拶だけ。沈黙こそが、この街の美徳だった。
カフェの窓の外を、清掃ドローンがゆっくりと飛んでいく。最近、街のあちこちで奇妙な物質が見つかるようになったらしい。テレビのニュースキャスターが、抑揚のない声で『感情の残滓』と呼んでいたソレは、ヘドロのように粘つき、不快な臭気を放つという。原因は不明。ただ、街の静寂が少しずつ、目に見えない何かで汚染され始めている予感だけが、湿った空気と共に漂っていた。僕はポケットの中のゼリーの感触を確かめながら、この息苦しい平穏が、いつまでも続くはずがないと、ぼんやり考えていた。
第二章 感情物質テロリストの烙印
街の汚染は、人々の不安を煽るように、日に日に深刻さを増していった。路地裏には卵の腐ったような臭いが立ち込め、公園のベンチは虹色の油膜のようなもので覆われた。住民たちは『自白スピーカー』のボリュームを固く絞り、さらに口数を減らしていく。まるで街全体が息を殺しているかのようだった。
その日、僕は買い物の帰り道で、広場の惨状を目の当たりにした。街のシンボルである噴水が、黒く粘つく『感情の残滓』を噴き上げていたのだ。周囲には野次馬が集まっているが、誰もが押し黙り、眉をひそめているだけ。誰も「何があったんですか?」と問えない。問えば、己の恥を晒すことになるからだ。
その異様な光景に度肝を抜かれた瞬間、僕の体は正直に反応した。
「ビックリ!」
喉から飛び出したのは、硬質な音。数十個の星形をした琥珀色の飴玉が、カラン、コロンと音を立てて石畳に散らばった。その音に、周囲の沈黙していた視線が一斉に僕に突き刺さる。しまった、と思った時にはもう遅い。人々は僕と、僕の足元に散らばる飴玉、そして噴水から溢れるヘドロを交互に見比べ、その表情を恐怖と非難に染めていった。ちょうどその時、上空を旋回していた報道ドローンのカメラが、僕の姿を完璧に捉えていた。
翌日、僕は『感情物質テロリスト』になっていた。街の混乱は、僕の特異体質が原因だと断定されたのだ。僕が吐き出す無害なオノマトペと、街を汚染する『感情の残滓』が、同一犯の仕業として結びつけられてしまった。家のドアには監視ドローンが張り付き、僕は追われる身となった。なぜ、どうして。答えの出ない問いに心が乱れるたび、「モヤモヤ」とした綿埃が口からこぼれ落ち、風に舞って消えていく。僕は真犯人を見つけ出すため、そして僕自身の無実を証明するため、人気のない裏通りを駆け抜けた。背後から聞こえる追手の足音に、「ハラハラ」と乾いた落ち葉を撒き散らしながら。
第三章 地下の不協和音
この奇妙なルールと『自白スピーカー』を街に導入したのは、市長のダンマリ・ツグムだ。彼ならば、何かを知っているはずだ。僕は夜の闇に紛れ、厳重な警備を潜り抜け、市庁舎の最上階にある市長の屋敷に忍び込んだ。静まり返った豪華な調度品の間を、息を殺して進む。
書斎の隠し扉の先、地下へと続く螺旋階段を下りた時、僕は異様な光景に息を呑んだ。広大な地下空間に、巨大な機械が鎮座していた。無数のケーブルが脈打つように明滅し、街中に張り巡らされたネットワークに繋がっている。それは、街中の『自白スピーカー』を統括する、巨大なサーバーシステムだった。そして機械の足元には、悍ましい『感情の残滓』が、巨大な水槽の中で不気味に渦巻いていた。
これが、『感情過剰排出装置』。壁の設計図が、その正体を物語っていた。住民たちは質問による自白を回避するため、質問されそうになる予兆を感じた瞬間に、スピーカーを通じて己の過剰な感情――特に告白を強いられることへの羞恥心や恐怖――を、未処理のままこの装置に転送していたのだ。質問から逃れるための、究極の防衛システム。しかし、市民の溜め込んだ感情は装置の許容量をとうに超え、制御不能な汚染物質として街に漏れ出していた。
その時だった。甲高い警告音が鳴り響き、装置が激しく振動を始めた。過負荷だ。次の瞬間、僕が首から下げていた『自白スピーカー』が、勝手に起動した。
『さ、三歳の時、お隣のポチの犬小屋で一緒に寝てしまい、翌朝お母さんにものすごく怒られたことです!』
それは僕のではない、どこかの誰かの、可愛らしくも恥ずかしい秘密だった。警告音は街中に響き渡っているに違いない。街中のスピーカーが、一斉に誤作動を起こしたのだ。あちこちから、ランダムな告白が木霊する不協和音。「部長のカツラを…」「ペットのハムスターに…」「実は…」。沈黙の街は、突如として恥の坩堝と化した。
「君だったのか。街の浄化装置は」
背後から、静かだが芯のある声がした。振り返ると、市長のダンマリが立っていた。彼の顔は、絶望と、そしてほんの少しの安堵が入り混じった、奇妙な色をしていた。
第四章 ドタバタな英雄
市長は語った。彼もまた、過去にたった一つの質問で家族も地位も全てを失ったのだと。誰もが傷つかない、沈黙の世界を夢見たのだと。だが、感情に蓋をすることなど、できはしなかった。
彼の告白の最中、ついに『感情過剰排出装置』が臨界点を超えた。溜め込まれた数百万の住民の、澱んだ感情の塊が、巨大な津波となって僕たちに襲いかかってきた。街が終わる。そう直感した時、僕の中で何かが弾けた。恐怖、怒り、使命感、そして街の人々へのわずかな同情。あらゆる感情が、僕の中で嵐のように渦を巻いた。
「グチャグチャ!」「グルグル!」「キラキラ!」「ズキズキ!」
僕の体から、色とりどりの、形も質感も様々なオノマトペの奔流が噴出した。それは濁流と化した『感情の残滓』に向かって飛んでいく。すると、信じられないことが起きた。僕から放たれた「フワフワ」の綿雲がヘドロに触れると、ヘドロはたちまち軽やかなシャボン玉に変わり、「サラサラ」と零れた光る砂が汚泥に降りかかると、そこには心地よい香りのする花の種が芽吹いた。
僕の能力は、感情を吐き出すだけの欠陥ではなかった。この世界に元々備わっていた、感情を物理的に安定させるための安全装置。暴走する感情のエネルギーを、無害で、少しだけ奇妙な形に変えて浄化する『感情のサニタイザー』。それが、僕の正体だった。
街は救われた。僕は一夜にして『感情物質テロリスト』から、街を救った英雄になった。人々は僕を取り囲み、感謝を伝えようとする。だが、長年の習慣は抜けない。誰もが口ごもり、ただ僕を尊敬の眼差しで見つめるだけだ。そのもどかしくも温かい視線に、僕の胸は高鳴った。
「テレテレ…」
口から飛び出したのは、マシュマロのように柔らかく甘い香りのする物体。それは放物線を描き、ひとりの少女の頭の上に、ぽすん、と優しく乗った。少女は驚き、そして、くすりと笑った。その笑い声が、誰かの口元を、また別の誰かの目元を、少しだけ緩ませていく。
だが、この街の根本的な問題が解決したわけではない。ひとりの若者が、意を決したように僕に歩み寄り、こう尋ねた。
「あの…これから、どうするんですか?」
純粋な、善意からの質問。しかし、それはルール違反だ。僕の顔は瞬時に熱を持ち、この人生で最大の失敗――小学校の卒業式で、緊張のあまり校長のヅラを吹き飛ばしてしまった事件――を、赤裸々に、そして朗々と語り始めてしまった。羞恥心はピークに達し、僕の体は最後のオノマトペを盛大に吐き出した。
「ドタバタ!ドタバタ!ドタバタ!」
無数の、様々なサイズの靴の形をしたゴムが、広場中に弾け飛ぶ。人々はそれを避けようと右往左往し、英雄の凱旋パレードは、一瞬にして滑稽なコントへと変わった。
沈黙の街は、こうして終わりを告げた。そして、少し騒がしくて、相変わらずコミュニケーション不全な、新たなドタバタの時代が幕を開けたのだ。僕は飛び交うゴムの靴を避けながら、まあ、これくらいが丁度いいのかもしれないな、と少しだけ思った。