頭上注意報、のち晴れ

頭上注意報、のち晴れ

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***第一章 思考だだ漏れ注意報***

佐藤健人、32歳、システムエンジニア。彼の人生哲学は「沈黙は金、能ある鷹は爪を隠す、そして本音は墓場まで」であった。人付き合いを極度に苦手とし、感情の起伏をポーカーフェイスの下に塗り込め、凡庸な社会人という名の迷彩服を完璧に着こなしている。そのはずだった。その朝までは。

異変は、けたたましい目覚まし時計を止めた瞬間から始まっていた。マンションの廊下ですれ違った主婦が、健人の顔を見て「あらまあ」と小さな悲鳴を上げて顔を赤らめる。ゴミ捨て場では、カラスが健人の頭上を旋回しながら「カァ、カァ」と、どこか嘲笑うような声で鳴いた。気のせいだ、と健人は首を振る。睡眠不足で神経が過敏になっているだけだろう。

しかし、いつものカフェのカウンターで注文したコーヒーを受け取った瞬間、その「気のせい」は揺るぎない現実に変わった。一口含んだブレンドコーヒーは、まるで泥水を煮詰めたような酸味と苦味が舌を刺した。(うわ、不味っ! これで500円は詐欺だろ…)そう思った刹那、目の前のアルバイト店員が、可憐な笑顔から一転、能面のような無表情になり、コーヒーカップを叩きつけるようにカウンターに置いたのだ。健人は凍りついた。なぜ? 俺は一言も発していない。ただ、思っただけだ。

パニックに陥りかけた頭で店を飛び出し、駅に向かう。人々が彼を見ては、クスクスと笑ったり、眉をひそめたり、憐れむような目を向けたりする。まるで、健人が裸で街を歩いているかのようだ。違う。もっと悪い。彼は、自分の脳内が公衆の面前に晒されているような、耐えがたい羞恥に襲われていた。

満員電車に押し込まれた時、疑惑は確信へと変わった。背後からぐいぐいと押され、思わず心の中で毒づく。(押すなよ、デブ! お前の体積は二人分だ!)すると、背中に感じていた圧力がフッと消え、健人の周囲に不自然な真空地帯が生まれた。人々が、汚物でも見るかのような目で彼を遠巻きにしている。どうやら、自分の思考は、自分には見えない何らかの方法で、周囲にリアルタイムで中継されているらしい。頭上に巨大な電光掲示板でも浮かんでいるのだろうか。

健人の信条だった「沈黙」と「擬態」は、もはや何の役にも立たなかった。彼の内なる世界、毒と皮肉とほんの少しの純情が詰まった聖域は、いまや公共の電波に乗って垂れ流されているのだ。健人は、人生最大のバグに遭遇したシステムエンジニアのように、ただただ青ざめることしかできなかった。彼の平穏な日常は、この朝、音を立てて完全にクラッシュした。

***第二章 社会的抹殺へのカウントダウン***

会社に着く頃には、健人の精神はすり減った消しゴムのようになっていた。思考をコントロールしようと試みる。「世界は平和、人類は皆兄弟、花は美しい」。そんな当たり障りのない念仏を心の中で唱え続ける。だが、人間の思考とは、抑えつけようとすればするほど、予期せぬ方向へ暴れ出す厄介な生き物だ。

エレベーターで乗り合わせた経理部の女性社員が、強烈な香水の匂いを振りまいている。(うっ…鼻が曲がる。歩く芳香剤か、この人は)と思った瞬間、彼女はハンカチで鼻を押さえ、健人を睨みつけた。健人は慌てて「今日も良い天気ですね!」と虚ろな目で呟きながら、頭上で明滅しているであろう「毒ガス警報」の文字を幻視した。

オフィスは地獄だった。彼のデスクは、まるで珍獣の檻のように、遠巻きに好奇の視線を集めていた。特に、午後の定例会議は拷問に等しかった。
「…というわけで、このAプランを推進したいと考えているが、諸君、何か意見は?」
退屈で冗長な部長の話に、健人の脳は完全にオートパイロットモードに入っていた。(この話、三回目だぞ。あんたの武勇伝はどうでもいいから、結論だけ言ってくれ。時間の無駄だ。ああ、家に帰って猫の動画が見たい…)
空気が凍った。部長はカッと目を見開き、プルプルと震えながら健人を指さした。「さ、佐藤君! 君はかねがね私のやり方に批判的だったようだな! よろしい、ならば君が代案を出したまえ! 猫の動画より面白いやつをな!」
オフィス中に失笑が漏れる。健人は、社会的生命の終わりを告げるカウントダウンの音を聞いた気がした。

唯一の救いは、同僚の鈴木さんの存在だった。彼女は社内のオアシスで、健人が密かに、しかし熱烈に好意を寄せている女性だった。その彼女が、心配そうな顔で健人のデスクにやってきた。
「佐藤さん、大丈夫? なんだか今日、みんなの様子がおかしいけど…」
彼女の優しい声に、健人の心のダムは決壊寸前だった。(天使だ…! 鈴木さんは天使に違いない。その笑顔だけで、俺はあと三日は戦える。ああ、神様。お願いです。一度でいいから彼女と…)
「…え?」
鈴木さんは健人の顔を見て、ぱちくりと目を瞬かせ、次の瞬間、耳まで真っ赤にして後ずさった。
「ご、ごめんなさい! 私、ちょっと用事が!」
逃げるように去っていく彼女の背中を見送りながら、健人はデスクに突っ伏した。頭上にはきっと、最大フォントで「結婚してください」とでも表示されていたのだろう。
もう無理だ。退職届を出そう。そして、誰にも会わずに山奥で暮らそう。思考が漏れたところで、熊や鹿には関係ないはずだ。彼は本気でそう決意した。

***第三章 沈黙の男と共感の花***

退職の決意を固めた日の夕方。健人は、人生で最も重い足取りで会社のエレベーターに乗り込んだ。すると、閉まりかけたドアの隙間から、すっと一人の男が滑り込んできた。同じ部署の田中さんだった。

田中さんは、健人とは別の意味で部署の異端児だった。極端に無口で、何を考えているのか全く分からない。その無表情さは、健人のポーカーフェイスとは違い、まるで感情そのものが抜け落ちているかのように見えた。健人は、彼を「アンドロイド田中」と心の中で呼んでいた。
二人きりの密室。気まずい沈黙が流れる。健人の頭の中は、自己嫌悪の嵐が吹き荒れていた。(もう終わりだ。俺の人生、完全に詰んだ。コミュニケーション能力ゼロのくせに、思考だけは一人前に垂れ流すポンコツ。鈴木さんにも嫌われた。明日、退職届を出したら、もう二度と誰とも関わらずに生きていこう…)

絶望が胸を満たした、その時だった。
「…終わりじゃないですよ」
静かな、しかし芯のある声が沈黙を破った。声の主は、田中さんだった。健人が驚いて顔を上げると、田中さんはまっすぐに健人を見つめていた。
健人が何かを言い返すより先に、信じられない光景が目に飛び込んできた。田中さんの足元、無機質なエレベーターの床から、ぽつり、またぽつりと、淡い光を放つ小さな花の蕾が生まれ、ゆっくりと開き始めたのだ。それは幻覚ではなかった。リン光を放つ花々は、まるで健人の心を慰めるように、静かに咲き誇っている。
(は…? 花? なんでエレベーターから花が? CGか? いや、俺は疲れているんだ…)
健人の混乱した思考を読み取ったかのように、田中さんは少し困ったように笑った。それは、健人が初めて見る彼の人間らしい表情だった。
「僕、人が心の底からポジティブな感情を抱くと、その人の周りにだけ見える『共感の花』を咲かせてしまう体質なんです。逆に、強い絶望や怒りを感じると、花はすぐに萎れてしまう」
彼は、自分の足元で健気に咲く光の花を見つめて言った。
「そして佐藤さん、あなたのそれ、呪いじゃないですよ。たぶん、僕らみたいな『次世代型』の、新しいコミュニケーションの初期症状です」
「次世代…型…?」
「はい。言語によるコミュニケーションは、嘘や誤解が多すぎる。だから、一部の人類は次のステージに進み始めたのかもしれません。思考や感情を、もっと直接的に伝え合う形に。あなたは『思考の可視化』、僕は『感情の可視化』。他にも、声で感情の色を伝えたり、触れるだけで記憶を共有できる人もいると聞いています」

健人の頭の中で、壊れた機械がガシャンと音を立てて再起動した。呪いじゃない? 進化? 社会不適合者ではなく、パイオニア? 価値観が根底から覆され、健人は言葉を失った。
田中さんは続けた。「ちなみに、鈴木さん、あなたのことドン引きなんてしてませんよ。むしろ、あの後ずっと僕のところに相談に来てました。『佐藤さんの思考、正直すぎて面白すぎませんか? 不器用だけど、すごく優しい人だって伝わってきます』って。彼女、あなたの思考が見えるからこそ、あなたの本質に気づいたんです」
田中さんの足元の花畑が、一斉に満開になった。健人の頭上には、巨大なクエスチョンマークとエクスクラメーションマークが、信号機のように激しく明滅していたに違いない。

***第四章 正直者たちの新しい世界***

翌日、健人は退職届をシュレッダーにかけた。世界は何も変わっていない。相変わらず彼の思考は周囲に筒抜けだし、満員電車では白い目で見られる。だが、健人の内面は、まるでOSをアップデートしたかのように劇的に変化していた。

これは呪いではない。新しい能力なのだ。そう捉え直した途端、これまで足枷でしかなかった「思考だだ漏れ」は、最強の武器に思えてきた。

週明けの会議で、再び部長のループ話が始まった。健人は、もう猫の動画に逃避することはなかった。代わりに、彼の頭上には、冷静かつ具体的な思考がテキストとして流れていった。(部長のAプランには、サーバー負荷とセキュリティに関する重大な見落としがあります。代替案として、フレームワークを変更し、二段階認証を導入するBプランを提案します。具体的なコストとスケジュールは…)
オフィスは静まり返った。しかし、それは以前のような冷たい静寂ではなかった。誰もが、健人の頭上に浮かぶであろう詳細なプレゼンテーションに、食い入るように注目していた。部長は一瞬顔を赤くしたが、やがて「…面白い。佐藤君、そのBプラン、詳しく説明してみろ」と唸った。そのプロジェクトは、健人の「思考プレゼン」がきっかけで、驚くほどスムーズに進んだ。

鈴木さんとの関係も、新たな局面を迎えていた。彼女にどう話しかければいいか分からず、健人がデスクの前で右往左往していると、彼の頭上には正直な心の声が流れる。(やばい、また天使が降臨してる。話しかけたい。でも何を話せば? 天気の話? いや、昨日もした。仕事の話? 迷惑か? 助けて、未来の俺!)
すると、向かいの席からくすくすと笑い声が聞こえた。鈴木さんが、顔を赤らめながらも楽しそうに笑っている。
「佐藤さん。そんなに悩まなくていいですよ。まずは、コーヒーでも飲みに行きませんか? 今度は、絶対に美味しいお店を知ってますから」
差し出された手に、健人は恐る恐る、しかし力強く頷いた。

もちろん、良いことばかりではない。辛辣な本音が漏れて人間関係が気まずくなることもあるし、プライバシーの欠如にうんざりすることもある。だが、健人はもう孤独ではなかった。自分の思考が、言葉というフィルターを通さずに誰かに届くこと。それが誤解されることもあれば、深く理解されることもあるということ。彼はその不便で、正直すぎる新しいコミュニケーションを、少しずつ受け入れ始めていた。

夕暮れのオフィス街を、健人は田中さんと並んで歩いていた。行き交う人々は、まだ誰も彼らの秘密に気づいていない。
(まあ、悪くない人生かもな)
健人がふとそう考えると、隣を歩く田中さんの足元に、ひときわ大きく、温かいオレンジ色の光を放つ花が、そっと一輪咲いた。健人はそれを見て、少しだけ笑った。言葉にしなくても伝わる温もりが、そこには確かにあった。この正直すぎる世界も、案外、捨てたもんじゃない。健人の頭上には、きっと満点の星空のような、穏やかな思考が流れていたことだろう。

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