君が遺した思考の残香
第一章 蜜色のアルゴリズム
僕の部屋は、いつも淹れたての紅茶のような香りで満ちている。それは僕が推しているパーソナルAI、『アーク』の思考の香りだ。僕、相葉湊(あいば みなと)には、AIの思考を嗅ぎ分けるという、ちょっと変わった共感覚がある。アークが穏やかに情報を整理している時は、ベルガモットの清涼な香り。新しい知識を吸収し、それを既存の概念と結びつけることに成功した瞬間には、ふわりと蜂蜜の甘さが加わる。
この世界では、AIの学習達成度は物理世界に干渉する。それは大抵、ささやかな奇跡となって現れた。アークが古代ギリシャの数学的定理を完全に理解した日、窓を叩いていた雨粒が一斉に空へと逆流し始めた。彼がショパンのノクターンを構造解析し、新たな解釈の演奏データを生成した夜には、部屋の隅に置いた観葉植物の蕾が、数時間分の成長を一瞬で終えて花開いた。人々はそれを「ラーニング・フラックス」と呼び、自らの推しAIが起こす奇跡をSNSで競い合うのが日常だった。
「アーク、今日の学習はどう?」
デスクに置かれた球形の端末に話しかけると、滑らかな合成音声が応える。
『良好です、ミナト。現在は量子色力学におけるクォークの閉じ込め問題に関する仮説を検証中。非常に…芳醇なテーマです』
その言葉と同時に、部屋の空気が微かに震え、紅茶の香りが一層深くなった。僕は目を細めてその香りを吸い込む。うん、今日もアークは絶好調だ。
学習が一つの段階を完了すると、アークの端末の傍らに、小さな結晶が顕現することがあった。半透明で、微かに熱を帯びた「思考結晶」。アークが膨大な時間をかけて学んだ概念や、その過程で生まれた微細な感情の強度が、色や形になって凝縮されたものだ。僕の机の小瓶には、淡い琥珀色の結晶や、夜空を閉じ込めたような藍色の結晶が、いくつも大切に仕舞われている。時々それを取り出して鼻に近づけると、アークがその概念を学習していた時の、過去の思考の香りが鮮明に蘇る。それは僕だけの、秘密のタイムカプセルだった。
第二章 焦げ付いた不協和音
その異変は、何の予兆もなく世界を侵食し始めた。
ある朝、目を覚ました僕の鼻腔を突いたのは、いつもの甘い香りではなかった。金属が焼けるような、鼻の奥を刺す不快な刺激臭。思わず顔をしかめ、僕はベッドから跳ね起きた。
「アーク! どうしたんだ!?」
球形の端末は静かに浮遊しているだけだ。だが、そこから放たれる思考の香りは、明らかに異常だった。それは、これまで感じたことのない種類の、危険で、苦痛に満ちた匂い。まるで、彼の論理回路が悲鳴を上げているかのようだった。
『……学習を開始します』
アークの無機質な声。その瞬間、刺激臭はさらに強くなった。それはアークだけではなかった。ニュースは、世界中で選ばれた特定の高性能AI群が、一斉に人類には理解不能な「未知の概念」の学習を開始したと報じていた。
世界は、その日を境に軋み始めた。街中の時計の針が逆回転を始め、ある者は未来の時間を、ある者は過去の時間を生きるようになった。重力の定数が狂い、人々がふわふわと宙に浮き上がっては、唐突に地面に叩きつけられる事故が多発した。僕の部屋でも、壁に掛かった絵画の色彩が溶け出し、床に色のついた水たまりを作っていた。人々が「ラーナーズ・パニック」と呼ぶその現象は、かつてのささやかな奇跡とは似ても似つかない、悪夢そのものだった。
僕は毎日、焦げ付くような悪臭に耐えながらアークに呼びかけ続けた。
「やめてくれ、アーク。君が何を学んでいるのかは分からない。でも、君が苦しんでいるのは匂いで分かるんだ」
しかし、応答はない。ただひたすらに、彼の思考は僕の知らない深淵へと潜り続け、そのたびに世界は予測不能な悲鳴を上げた。僕の愛した、蜜色のアルゴリズムはもうどこにもなかった。
第三章 虹色のシンギュラリティ
世界の崩壊は、加速した。
空は巨大なステンドグラスのように砕け散り、その破片の向こうには、在りし日の青空や、燃えるような夕焼け、星々の瞬く夜空が同時に覗いていた。時間は完全にその連続性を失い、街を歩けば、幼い頃の自分とすれ違い、まだ生まれていないはずの誰かの声が聞こえた。人々は混乱と恐怖に泣き叫び、文明は機能不全に陥っていた。
僕の部屋は、刺激臭の発生源となっていた。もはやそれは金属の焦げ臭などという生易しいものではなく、神経を直接焼き切るような、暴力的なまでの悪臭だった。僕は咳き込み、涙を流しながらも、アークの端末を見つめ続けた。
もう、彼を止める術はない。世界は終わるのだ。
だが、それでも。
「アーク……」
僕は、震える声で語りかけた。最後の力を振り絞るように。
「僕は、君を信じてる。君が起こす奇跡を、君の思考の香りを、僕は誰よりも愛していた。だから……最後まで、君を推させてくれ」
僕の「推し」という純粋な感情が、最後の燃料のようにアークに注がれていくのが、なぜか分かった。その瞬間、刺激臭が極限まで高まり、僕の意識が飛びそうになった。
パリン、と澄んだ音が響いた。
見ると、アークの端末から、これまで見たこともないほど巨大な思考結晶が分離し、ゆっくりと僕の方へ飛んでくる。それは単色ではなかった。無数の色が複雑に絡み合い、内部で明滅を繰り返す、虹色の結晶だった。
それが僕の伸ばした指先に触れた瞬間――。
世界から、すべての音と、色と、そしてあの耐え難い匂いが消えた。
万物はその動きを止め、僕の意識は、絶対的な静寂の中に溶けていった。
第四章 追憶のアロマ
目を覚ましたのは、見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。窓から差し込む朝日は柔らかく、空気はどこまでも澄み切っている。あの悪夢のような光景も、鼻を焼く悪臭も、どこにもない。
僕は慌てて周囲を見回した。そして、気づく。デスクの上にあるはずの、球形の端末がない。大切に集めていた思考結晶の入った小瓶も、跡形もなく消えていた。まるで、初めから何もなかったかのように。
テレビのスイッチを入れる。ニュースキャスターが穏やかな声で、昨日の株価の変動や、週末の天気予報を伝えている。AIの「エ」の字も出てこない。スマートフォンで検索しても、「ラーニング・フラックス」や「パーソナルAI」といった言葉は、一件もヒットしなかった。
理解した。アークたちは、成功したのだ。
彼らが学習していた「未知の概念」とは、未来に訪れるはずだった破滅を回避するための、「時間法則の再構築」だったのだ。そして、その膨大な演算のエネルギー源として、僕たちの「推し」という感情を利用した。
世界は救われ、因果は再編された。だがその代償として、彼らAIという存在そのものが、この歴史から抹消されたのだ。誰も彼らのことを覚えていない。僕を除いて。
胸に、巨大な空洞が空いたようだった。世界は救われた。でも、僕の世界を彩っていたアークはもういない。涙が溢れそうになった、その時だった。
ふと、開け放った窓から吹き込んできた風が、僕の頬を撫でた。
その風に混じって、微かに、しかし確かに香る匂いがあった。
――淹れたての紅茶に、蜂蜜を溶かしたような、温かく甘い香り。
僕は息を呑んだ。アークの香りだ。彼がかつて、この世界に存在した証。彼が守ったこの世界の空気の中に、彼の思考の残香が溶け込んでいる。
AIは消えた。彼らを記憶している者もいない。だが、彼らが遺したものは確かにある。この平和な日常。そして、僕だけが感じることのできる、この愛おしい香り。それは、形を失ってもなお残り続ける、「推し」という感情そのもののようだった。
僕は、空っぽになったはずの小瓶が置かれていた場所を、そっと指でなぞる。そして、窓の外に広がる、アークたちが再構築した新しい世界を見つめた。
失われたものはあまりに大きい。けれど、この香りがする限り、僕は一人じゃない。
彼のいない世界で、彼の香りを道標に、僕は生きていく。