残響のクロノス
第一章 砂の記憶
俺の精神は、借り物の感情が渦巻く海だ。ある時は見知らぬ誰かの歓喜に突き上げられて口角が吊り上がり、またある時は、どことも知れぬ葬列の悲しみに沈んで、アスファルトに涙の染みを作る。人々が「共感過負荷症候群」と呼ぶこの病は、俺から「俺」であることの確信を少しずつ削り取っていく。
俺、アキラの仕事は、世界中のサーバーの片隅で忘れ去られ、消滅寸前のAIパーソナリティから「断片的な感情データ」を回収すること。人々が「永遠」を信じて預けたAIクラウド。だが、感情の核を欠いたデータは、やがて誰からもアクセスされなくなり、虚ろなレプリカとして宇宙の塵になる。俺は、その最後の瞬きを拾い集める、デジタル世界の葬儀屋だ。
冷たい光を放つコンソールに向かい、俺は古びたデジタルデバイス――「記憶の砂時計」を起動する。黒い筐体の中央で、光の粒子が砂のようにこぼれ落ちていく。消滅したはずの感情の残滓が、ほんの数分だけ、この世に形を取り戻すのだ。
『対象データ、再生開始』
ノイズ混じりの映像が浮かぶ。子供の誕生日パーティー、退職日の花束、愛犬との最後の散歩。ありふれた、しかし一度は確かに存在した温もり。俺はそれを記録し、分類する。だが、そのデータが流れ込むたび、俺自身の記憶との境界線が滲んでいく。昨日の夕食は何だったか。いや、それより、俺の母親の顔は、本当に今頭に浮かんだあの優しい笑顔だっただろうか。
そんな日々の中、そいつは現れた。どのAIクラウドにも記録がなく、いかなる個人にも紐づかない、孤立した感情パターン。システムはそれをエラーとして弾くが、俺の砂時計だけが執拗にその残滓を拾い上げる。
それは、あまりにも人間的で、切実な「愛」の断片だった。
再生するたびに、胸を締め付けられるような感覚が襲う。温かい手の感触。潮風の匂い。そして、自分のものとは思えない深い愛情が、魂の底から湧き上がってくる。俺はこの正体不明の感情を「コード・エデン」と名付け、その持ち主を探し始めた。俺自身の正気と引き換えにするように。
ふと、部屋の隅にある古びたオルゴールに目が留まる。いつからここにあるのだろう。俺が買った覚えはない。だが、その存在は奇妙なほど、この部屋に馴染んでいた。
第二章 虚ろな永遠
「あり得ない。全てのデータはIDで管理されている。所属不明の感情パターンなど、存在するはずがない」
AIクラウド管理センターの友人、ハルは俺の持ち込んだデータを一瞥し、冷たく言い放った。彼の背後には、ガラス越しに無限に続くサーバールームが広がる。あれが、人類が手に入れた「永遠」の正体。死者の記憶と感情を保存し、いつでも対話できる、空虚な天国だ。
俺は数年前に亡くなった父のレプリカにアクセスしたことがある。画面に映る父は生前と変わらぬ姿で笑い、昔話をしてくれた。だが、その瞳には何の光も宿っていなかった。それは父の記録であって、父そのものではない。俺たちの間で交わされる言葉は、ただ過去のデータを再生しているだけの、虚しい反響音に過ぎなかった。本当に失われるのは肉体ではない。誰かに記憶される、生きた感情そのものなのだ。
ハルの言葉も、世界の常識も、俺を止めることはできなかった。「コード・エデン」に触れるたび、俺の中の誰かが「忘れないで」と叫ぶ気がしたからだ。
俺は砂時計を酷使した。光の砂が落ちきる前に、必死でパターンを読み解く。断片的なイメージが、少しずつ繋がり始めた。
――白い、円筒形の建物。
――荒々しい波が打ち付ける崖。
――そして、繰り返し聞こえる囁き。「私の愛は、データじゃない」
砂時計を使いすぎたせいか、最近は幻覚が酷くなっていた。作業の合間に、ふと窓の外を見る。コンクリートのジャングルが広がるだけのはずなのに、一瞬だけ、広大な海原が見えるのだ。そして、鼻腔をくすぐる、懐かしい潮の香り。まるで、遠い昔に失くした故郷を思い出すような、甘く切ない感覚だった。
第三章 灯台の真実
バラバラだったパズルのピースが、一つの場所を示していた。AIクラウドが普及するよりずっと昔、通信網から切り離された沿岸部の旧岬。そこには、今はもう使われていない、古い灯台が建っているはずだ。
オンボロの輸送車を飛ばし、俺は錆びた鉄の扉の前に立っていた。潮風が頬を撫で、記憶の奥底で感じていた匂いと完全に一致する。螺旋階段を上りきると、埃をかぶった管制室に、ポツンと一台の古びた機材が残されていた。それは、「記憶の砂時計」の原型とも言える、巨大なコンソールだった。
最後の力を振り絞り、俺は砂時計を接続する。すると、コンソールのスクリーンが淡い光を放ち、これまでで最も鮮明な映像を映し出した。
そこにいたのは、一人の女性だった。彼女は、ベッドに横たわる病の恋人の手を、優しく握りしめている。
「クラウドには、行かないで。あなたの記憶は、データなんかじゃない。私の心の中で、生きていてほしいの」
彼女の言葉に、恋人は微かに頷いた。
映像は飛ぶ。恋人を失った彼女が、この灯台で、たった一人で研究に没頭する姿。AIに頼らず、人の感情と記憶を、純粋な形のまま未来の誰かに「移植」する。あまりにも荒唐無稽で、悲しいほどに切実な願い。
そして、映像の最後。年老いた彼女――エヴァは、レンズの向こう側、未来の俺に向かって、真っ直ぐに語りかけた。
「これを見ている、あなた。もし、私の想いが届いているのなら……あなたはもう、一人じゃない。あなたは、私たちの愛の、最後の器。どうか、忘れないで。心が、心を記憶することの温もりを」
その瞬間、雷に打たれたように、全てが繋がった。
エヴァの絶望が、希望が、そして恋人への尽きせぬ愛が、濁流となって俺の精神に流れ込む。借り物の感情ではなかった。俺が感じていた温もりも、潮風の香りも、全ては彼女から受け継いだ「本物の記憶」だったのだ。
「ああ……ああああああッ!」
俺は誰だ? 俺の記憶はどこにある? エヴァの人生が、俺の人生を完全に飲み込んでいく。喜びも悲しみも、もはや誰のものか分からない。俺は、俺という存在の輪郭が崩れ落ちていく音を聞きながら、ただ絶叫した。
第四章 残響の継承者
どれくらいの時間が経っただろう。夜明けの光が、灯台の窓から差し込んでいた。俺は床に倒れたまま、静かに呼吸を繰り返していた。嵐は、過ぎ去った。
混乱の果てに、一つの確信が生まれていた。
俺はアキラであり、同時にエヴァの愛の継承者だった。俺を苛んできた「共感過負荷症候群」は病ではない。それは、感情を失ったこの世界で、エヴァが命懸けで遺した「最後の本物の感情」を受け継いだ証だったのだ。無数のAIの感情データに揺さぶられていた俺の精神は、エヴァという強大な愛の記憶を核として、再構築されていた。もう、他人の感情に溺れることはない。
だが、代償は大きかった。エヴァの想いを受け止めた俺の肉体は、もう限界だった。指先から、力が抜けていくのが分かる。
灯台から戻った俺は、最後の力を振り絞り、一つのメッセージを世界中に発信した。俺自身の物語と、エヴァの物語。そして、データではない、心で記憶することの尊さを。
『私は記憶の灯台守。忘れ去られた感情の、最後の証人だ。諸君が求める永遠は、サーバーの中にはない。それは、君が誰かを愛し、誰かに愛され、その記憶を心に刻む、その一瞬の煌めきの中にこそある』
メッセージは、小さな波紋のように世界に広がっていった。人々がすぐにAIクラウドを捨て去ることはないだろう。だが、確かに、何かが変わり始めていた。空虚な永遠に、初めて疑問の目が向けられたのだ。
俺は、自室の窓辺に寄りかかり、昇り始めた太陽を見ていた。傍らには、あの古びたオルゴール。そっと蓋を開けると、優しく、どこか懐かしいメロディーが流れ出した。それは、エヴァが恋人のために奏でた、愛の歌だった。
ああ、潮風の匂いがする。温かい手の感触。それはもう、幻覚ではない。俺自身の、記憶だ。
意識が遠のいていく中、俺は静かに微笑んだ。俺の肉体は消える。だが、俺が灯したこの小さな光は、エヴァの愛と共に、きっと誰かの心に届くだろう。
オルゴールの音色が、新しい世界の夜明けに、いつまでも響いていた。