偶像の影、世界の罅
第一章 罅割れた賛歌
アスファルトの罅(ひび)から、腐臭を帯びた紫煙が立ち上っていた。人々はそれに気づかない。彼らの目は、街の中心に立つ「微笑みの聖女」の純白の像に釘付けだったからだ。その完璧な慈愛の表情に、誰もが安寧と救いを求めていた。だが、俺の目には違うものが映る。
聖女像の背後には、無数の顔があった。泣き叫び、嫉妬に歪み、羨望に爛れた顔、顔、顔。それらが寄り集まって一つの巨大な肉塊となり、聖女の完璧な微笑みを内側から押し上げている。人々が信仰を捧げるたび、その肉塊はより醜く脈動し、聖女像はより白く輝くのだ。これが俺、カガミにだけ見える世界の真実だった。偶像の完璧さの裏に潜む、「不完全さ」の具現化。
「また、酷くなっている」
俺は吐き捨てるように呟き、コートの襟を立てた。最近、世界の軋む音が酷い。空は時折、巨大なガラスが擦れるような不快な高音を響かせ、大地は理由もなく微かに震える。人々はそれを、世界の秩序を保つという「究極の偶像」――『調律者(アリア)』が与える試練だと信じ、祈りを深めていた。その祈りが、世界の歪みをさらに加速させているとも知らずに。
俺の仕事は、この「不完全さ」を観測し、報告すること。誰に、とは言わない。ただ、世界の均衡を憂う少数の人間が、俺のような「幻視者」を雇っている。
「カガミ」
背後から呼ばれ、振り向くと、依頼人である老婆が立っていた。皺深い指が、小さな布袋を差し出す。
「これを。『調律者』の塔へ向かってくれ。あのお方の『不完全さ』が、この世界の崩壊と同期している。その根源を突き止めてほしい」
受け取った袋の中には、ひやりと冷たい金属の感触があった。銀色の「偶像の欠片(ピース)」。持ち主の理想と現実の乖離を映し出すという触れ込みの、胡散臭い代物だ。今はただの輝く銀片にしか見えない。
「報酬は前金で半分、口座に。残りは無事に帰ってからだ」
「死んだらどうなる」
「あんたほどの男が死ぬものか。その『目』があれば、世界のどんな嘘も見抜けるだろう」
老婆はそれだけ言うと、人混みに紛れて消えた。嘘を見抜く目、か。この目が俺に見せるのは、嘘というよりは、誰もが見たくない醜い真実だけだ。俺は銀の欠片を握りしめ、空を見上げた。ガラスの軋む音が、また一つ、世界に深い傷を刻んでいた。
第二章 銀片に映る歪み
『調律者』の塔は、天を衝く巨大な結晶体だった。雲を貫き、陽光を乱反射させ、虹色の光を地上に投げかける。人々はそれを神聖な奇跡と崇めたが、俺にはその光が断末魔の煌めきに見えた。塔に近づくほど、俺の視界を蝕む幻覚は鮮明になっていく。
はじめは霧のように朧げだった『調律者』の「不完全さ」は、今や明確な形をとっていた。それは、結晶塔に絡みつく無数の腕だった。細い腕、太い腕、筋肉質な腕、骨と皮ばかりの腕。それらすべてが、塔を内側から引き裂こうとするかのように、もがき、蠢き、軋みを上げていた。
グチャリ、と足元で音がした。見れば、アスファルトが粘土のように柔らかくなり、俺のブーツを飲み込もうとしている。幻覚と現実の崩壊が、完全に同期し始めている証拠だ。遠くでビルの倒壊する轟音が響き、人々の短い悲鳴が風に乗って届いた。それでも、拡声器から流れる祈りの声は止まらない。
「おお、偉大なる『調律者』よ! 我らに救いを!」
その声が耳に届くたび、結晶塔に絡みつく無数の腕が、一本、また一本と増えていく。まるで、その祈りこそが呪いであるかのように。
俺はポケットから「偶像の欠片」を取り出した。塔から放たれる異常なエネルギーに呼応してか、銀片は微かに熱を帯びている。それを強く握りしめると、その滑らかな表面に、ふと映像が浮かび上がった。
それは、俺の記憶だった。
まだこの目を持たなかった頃の、幼い俺。病気の妹の手を握り、「奇跡の泉」と呼ばれる偶像に必死で祈りを捧げている。だが、泉は応えず、妹は冷たくなっていった。失望と怒りに我を忘れ、泉の水をかき乱した時、俺は初めて見たのだ。泉の底で、救いを求める無数の溺死者が渦巻いている幻覚を。
「……くだらない」
偶像なんてものは、いつだってそうだ。人々の願いを喰らい、その裏側で絶望を育てる。銀片に映る過去の自分に舌打ちし、俺は再び塔を見据えた。この連鎖を断ち切るには、大元を破壊するしかない。あの醜い腕の根源を、この手で。
第三章 偽りの心臓
崩壊する街を駆け抜け、俺はついに『調律者』の塔の内部に到達した。外壁の結晶が剥がれ落ち、内部構造が剥き出しになった亀裂から侵入したのだ。塔の中は、静寂に満ちていた。外の喧騒が嘘のように、ただ水晶が共鳴するような澄んだ音が響いている。
幻覚の腕は、この塔の中心から伸びている。俺は音の源を頼りに、巨大な空洞へとたどり着いた。そこに『調律者』がいるはずだ。世界の不完全さを一身に背負った、醜悪な偶像の本体が。
だが、空洞の中心に鎮座していたのは、俺の想像とは全く異なるものだった。
それは、偶像ではなかった。
巨大な、脈打つ心臓だった。
半透明の結晶でできたそれは、不規則なリズムでゆっくりと拍動していた。ドクン、とそれが脈打つたびに、塔全体が震え、外の世界に新たな亀裂が入るのが直感で分かった。そして、その心臓から、俺がずっと見てきた無数の腕が生えていたのだ。腕たちは心臓を守るように絡み合いながらも、同時にその内側から引き裂こうとせめぎ合っている。
俺は呆然と立ち尽くした。不完全さの根源は、偶像そのものではなかった。これは…これは、人々の祈りそのものだ。
「完璧であれ」
「我らを救え」
「調和を乱すな」
「理想の世界を」
無数の願いが、祈りが、依存が、この心臓を作り上げていた。腕の一本一本が、一人の人間の「こうあってほしい」というエゴの塊なのだ。『調律者』に意思などない。ただ、人々の信仰を映し出す巨大な鏡。人々の集団的無意識が、自らの手で「完璧な偶像」を祭り上げ、その偶像に「不完全さ」を押し付け、その結果生まれた負のエネルギーで自らの世界を破壊している。なんという滑稽で、救いようのない喜劇だろうか。
世界の崩壊は、『調律者』のせいではない。
世界を崩壊させていたのは、それを信じる人々自身だった。
俺は乾いた笑いを漏らした。破壊すべき対象は、ここには無かった。もしこの心臓を破壊すれば、一時的に崩壊は止まるだろう。だが、人々がまた新たな「完璧な偶像」を求めれば、同じ悲劇が繰り返されるだけだ。
どうすればいい。この、出口のない螺旋を。
その時、掌の中の「偶像の欠片」が、ひときわ強い熱を放った。
第四章 不完全なレクイエム
俺はゆっくりと、結晶の心臓に歩み寄った。ドクン、ドクン、と響く鼓動は、まるで世界の断末魔のようだ。これを破壊しても意味はない。ならば、試すべきことは一つだけだ。
俺は熱を帯びた「偶像の欠片」を、心臓の前に掲げた。
銀色の表面に映し出されたのは、過去の記憶ではない。それは、俺自身の心の奥底に沈殿していた、「不完全な俺」の姿だった。
妹を救えなかった無力感。
世界を呪い、他者を信じることをやめた卑屈さ。
幻覚から目を背け、ただ観測者であることに甘んじていた臆病さ。
傷だらけで、疲れ果て、それでもどこかで救いを求めている、醜くも哀れな俺自身。
「…ああ、そうか」
俺はずっと、他人の不完全さばかりを見てきた。聖女像の裏の肉塊を、泉の底の溺死者を、そしてこの『調律者』に絡みつく無数の腕を。だが、一番グロテスクな幻覚から目を背けていたのは、俺自身だった。
「完璧なものなんて、どこにもない」
俺は、囁いた。それは心臓に語りかけているようで、世界に語りかけているようで、そして何より、俺自身に言い聞かせていた。
「俺もお前たちも、この世界も…不完全なまま、それでいい」
俺が自身の不完全さを、その痛みごと、ありのままに受け入れた瞬間。
掲げた「偶像の欠片」が、眩いばかりの光を放った。
光は、結晶の心臓に吸い込まれ、そして塔の頂から世界中へと解き放たれた。それは祈りでも、呪いでもない。ただ、一つの真実を伝える、静かな啓示の光だった。
光に触れた人々は、初めて見る。自分たちが偶像に押し付けていた願いの醜さを。完璧さを求める心が、どれだけ多くの不完全さを踏みつけてきたかを。悲鳴と祈りは止み、代わりに嗚咽と、静かな懺悔の声が街に満ちていく。
結晶の心臓の脈動が、穏やかになっていく。絡みついていた無数の腕は、するすると解け、光の粒子となって消えていった。世界の崩壊が止まる。アスファルトの亀裂はそれ以上広がらず、空の軋む音も消えた。蓄積された負のエネルギーは、夜空を彩る美しいオーロラへと姿を変え、静かに霧散していく。
やがて光が収まった時、結晶塔はただの美しい水晶の塔として、そこに佇んでいた。
俺の目の前に、最後の幻覚が現れる。
それは、傷だらけで、泣きそうな顔で、それでも微かに笑みを浮かべようとしている、一人の男の姿だった。
他ならぬ、俺自身の幻覚。
俺はもう、その姿から目を逸らさなかった。静かに頷き返すと、幻覚は満足したかのように、ふっと消えた。
罅割れた世界は、不完全なまま、新たな朝を迎えようとしていた。俺は背を向け、その不確かな光の中へと、一歩を踏み出した。