第一章 捨て石のプライスレス
「――おい、もっと前に出ろよゴミ!」
罵声と共に、背中を蹴り飛ばされる。
俺、灰谷レンジの体は無様に宙を舞い、コンクリートのような硬質の地面に叩きつけられた。
「グッ……!」
肺から空気が漏れる。
視界の端、浮遊するドローンカメラのレンズが冷たく光っていた。
その向こう側には、数万人の視聴者がいる。
《うわっ、今日も蹴られてるw》
《レンジ君、受け身ヘタすぎ》
《カイト様、今日もイケメン! 踏んで!》
《はよ死ねよ、その荷物持ち》
網膜に直接投影されるコメントの嵐。
悪意の奔流。
けれど、俺はそれを不快だとは思わなかった。
むしろ、安堵すら覚えている。
(ああ……痛い。ちゃんと、痛いな)
ズドン、と地響き。
目の前には、身長3メートルを超える『鉄巨兵(アイアンゴーレム)』。
その巨大な拳が振り上げられている。
「おいレンジ! 『スケープゴート』発動しろ! 撮れ高だぞ!」
パーティリーダーであり、Sランク探索者のカイトが叫ぶ。
俺はよろめきながら立ち上がり、ゴーレムの影に入った。
「……スキル発動、『痛覚代理(スケープゴート)』」
瞬間、カイトたちパーティメンバーの体を薄い光の膜が覆う。
彼らが受けるはずのダメージを、俺が全て肩代わりするスキル。
攻撃力皆無、防御力皆無。
ただ痛みを引き受けるだけの、底辺にして最悪の能力。
ゴォオオオン!
ゴーレムの拳が、カイトではなく、何もない空間を殴った。
はずだった。
「ガ、ハッ……!?」
俺の全身から、バキバキと音が鳴る。
肋骨が3本、いや4本砕けた。
内臓が潰れる感触。
口の中に鉄の味が広がる。
カイトは無傷だ。
奴はニヤリと笑い、動けなくなった俺を背景にポーズを決める。
「見たかみんな! これが俺の無敵の立ち回りだ!」
《カイト様つえええええ!》
《ノーダメ攻略とか神かよ》
《後ろでゴミが血吐いてて草》
《あの絵面、放送事故じゃね?w》
薄れゆく意識の中で、俺は思う。
もっと。
もっと痛くてもいい。
この痛みが、俺がまだ「生きている」という唯一の証明だから。
俺には、生きる理由がない。
死ぬ勇気もない。
だからこうして、他人の盾として使い潰されることで、緩やかな自殺を続けている。
「よし、次行くぞ。おいレンジ、立てるか?」
カイトが靴底で俺の頬を叩く。
回復ポーションの瓶が、ゴミのように投げつけられた。
「……はい。行けます」
俺は這いつくばってそれを飲み干す。
骨が繋がる不快な音。
まだ、死ねないらしい。
第二章 深淵への片道切符
異変が起きたのは、ダンジョン深度50『奈落層』に到達した時だった。
予定されていたルートとは違う。
カイトが「隠し部屋を見つけた」と言って、強引に未踏破エリアへ踏み込んだのだ。
「ここ、ヤバくないですか……?」
ヒーラーの女がおどおどと呟く。
壁面は脈動する肉塊のように蠢き、空気は腐敗臭に満ちている。
同接数は過去最高の10万人を超えていた。
《なんか雰囲気違くない?》
《激レアボスの予感》
《カイトなら余裕っしょ》
その時。
闇の奥から、音が消えた。
音もなく現れたのは、漆黒の騎士。
頭部がなく、代わりに青白い炎が揺らめいている。
鑑定スキルを持つ視聴者が騒ぎ出す。
《おい待て、あれ『デュラハン・ロード』じゃねえか!?》
《深層ボスだろ!? なんでこんなとこに!》
《逃げろカイト! 勝てるわけねえ!》
カイトの顔が引きつる。
彼もSランクだ、瞬時に理解したのだろう。
こいつは、勝てない。
「撤退だ! 全員退避!」
だが、デュラハン・ロードの大剣が横薙ぎに閃く。
退路を塞ぐように、地面が割れた。
「クソッ、ターゲットが分散すれば全滅する……!」
カイトの目が、血走った眼球が、俺を捉えた。
「レンジ。お前、残れ」
「……え?」
「お前がヘイトを集めて盾になれ。その間に俺たちが脱出ルートを確保する」
それは、死刑宣告だった。
『痛覚代理』は、近くにいなければ発動しない。
ここで一人残るということは、スキルなしで、あの化け物の攻撃を受けるということだ。
一撃で肉塊になる。
「でも、それじゃあ僕は……」
「死にたかったんだろ? お前」
カイトは歪んだ笑みを浮かべ、俺の胸ぐらを掴んだ。
そして、カメラに向かって叫ぶ。
「みんな聞いてくれ! レンジが、自ら囮になると志願してくれた! まさに英雄的行為だ!」
《え、マジ?》
《泣ける》
《さすがレンジ、最期くらい役に立つな》
《カイト様を助けるなら名誉の戦死だろ》
《死ぬとこ映せよ》
コメントが流れる。
誰も、俺を止めない。
誰も、俺が助かることを望んでいない。
「……分かり、ました」
俺は震える足で一歩前へ出た。
カイトたちが背を向けて走り出す。
デュラハン・ロードが俺を見下ろす。
その圧力だけで、心臓が止まりそうだった。
振り上げられる大剣。
それは、俺が待ち望んでいた「終わりの一撃」。
(やっと、楽になれる)
俺は目を閉じた。
ドズンッ!!
衝撃。
しかし、痛みはなかった。
目を開けると、俺の体はまだそこにあった。
ただ、俺の腹部を貫通しているはずの大剣が、黒い霧に阻まれている。
『――条件ヲ、満タシマシタ』
脳内に響く、無機質な声。
『スキル【痛覚代理】が覚醒シマスコトヲ確認』
『所有者ノ絶望値ガ閾値ヲ突破』
『隠し派生スキル【殉教者の呪詛(マータ・カース)】ヲ習得』
「……は?」
『コレヨリ、蓄積サレタ全テノ苦痛ヲ、対象へ反転(ギフト)シマス』
次の瞬間。
俺ではなく、デュラハン・ロードの全身が、内側から弾け飛んだ。
第三章 逆流する地獄
何が起きたのか、理解できなかった。
最強クラスのボスモンスターが、たった今、何もない空間で「爆発」した。
俺の体には傷一つない。
だが、記憶にある「痛み」が、奔流となって溢れ出している。
《え?》
《は? 今なにが起きた?》
《デュラハンが……死んだ?》
《バグ?》
置き去りにされたドローンカメラが、俺の姿を映し続けている。
ステータス画面が開く。
【スキル:殉教者の呪詛】
効果:自身がこれまでに受けた「総ダメージ量」を、視認した対象に強制付与する。
現在蓄積ダメージ:5億4千万。
「5……億……?」
桁がおかしい。
いや、おかしくない。
俺はずっと、カイトたちのダメージを肩代わりしてきた。
毎日、毎日、骨を折られ、肉を裂かれ、焼かれ、凍らされ。
その全てが、俺の中に溜まっていたというのか。
俺は自分の手を見る。
汚れて、傷だらけの手。
でも今は、不思議と力が漲っている。
「あ……ああ……」
笑いがこみ上げてくる。
これは、俺の痛みだ。
誰にも渡さなかった、俺だけの地獄だ。
「返してやるよ。全部」
俺は歩き出した。
出口の方へ。
カイトたちが逃げた方へ。
道中、群がってくるモンスターたち。
俺が一瞥するだけで、次々と爆散していく。
オーガが、キメラが、まるで風船のように。
《おい、何だよこれ》
《レンジが歩くだけで敵が死んでくぞ》
《チート? 最初から隠してたのか?》
《顔、見たか? あんな顔する奴だったっけ》
カメラが俺の表情をアップにする。
俺は泣いていた。
いや、笑っていたのかもしれない。
地上へ続くゲートの前。
カイトたちが立ち尽くしていた。
どうやら、ゲートを守るガーディアンに苦戦しているらしい。
「クソッ、なんで開かねえんだよ! レンジの奴が時間を稼いでるはずだろ!」
カイトが毒づく。
その背中に、俺は声をかけた。
「お待たせ。カイト」
「は……?」
全員が振り返る。
そこには、無傷の俺が立っていた。
そして、俺の後ろには、塵となったモンスターたちの残骸が山のように積まれている。
「お前、生きて……いや、そのスキルはなんだ!?」
カイトが後ずさる。
「カイト。君は言ったよね。僕がみんなの痛みを引き受けるのが役目だって」
俺は一歩近づく。
カイトのパーティメンバーが武器を構えるが、手が震えて落としてしまう。
「だから、今度は君たちが引き受けてよ」
「何を――」
「僕が味わった、死なない程度の地獄を」
発動。
対象、カイト。
出力、0.01%。
「ぎ、あああああああああああああ!!!!」
カイトの右腕が、ねじ切れたようにひしゃげた。
何もしていない。
ただ、俺が「思い出した」痛みの一部を渡しただけだ。
「い、だい! 痛い痛い痛い!! なんだこれ!?」
のた打ち回るSランク探索者。
その無様な姿が、全世界に配信されている。
《うわあああああグロい!》
《カイトがワンパン!?》
《レンジ様……?》
《これこそ真の『ざまぁ』じゃん》
《もっとやれ!》
コメント欄の手のひら返し。
醜い。
本当に、人間は醜い。
「まだだよ、カイト。君が僕にくれた痛みは、こんなもんじゃない」
俺はカイトの顔を覗き込む。
彼は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、俺に命乞いをする。
「やめ、やめてくれ! 金ならやる! 装備もやる! だから!」
「いらないよ、そんなもの」
俺はドローンカメラを見上げた。
レンズの向こうにいる、数百万の人間たちに向かって微笑む。
「僕が欲しいのは、承認じゃない。共感だよ」
この世界そのものが、巨大なダンジョンだ。
他人を蹴落とし、見下し、消費する。
そんな社会が生み出した歪み。
「痛いでしょう? でもね、僕はもっと痛かったんだ」
俺はスキルを全開にした。
対象は、このダンジョンそのもの。
そして、この配信を見ている全ての視聴者の「端末」へ。
物理的なダメージではない。
精神的な「激痛」の幻覚を、ネットワークを通じて伝播させる。
《!?》
《手が、痛い》
《画面見てるだけなのに!?》
《やめろ、切断できない!》
世界中から悲鳴が上がる。
ダンジョンの壁が崩壊を始める。
俺の蓄積された5億の痛みが、世界を侵食していく。
「さあ、みんなで共有(シェア)しよう」
崩れ落ちる瓦礫の中で、俺は初めて、心からの安らぎを感じていた。
これでやっと、俺は一人じゃなくなる。
瓦礫が俺を押しつぶす。
その瞬間まで、配信は続いていた。
最終章 永遠のストリーマー
【NEWS】
『ダンジョン崩落事故から1年。跡地に発生した巨大クリスタルからは、今も不可解な電波が発信され続けています』
キャスターが読み上げる。
画面には、青白く輝く巨大な結晶体。
その中心には、一人の青年が眠るように閉じ込められている。
世界中の人々が、その「配信」を見ていた。
もはや誰も、彼を誹謗中傷しない。
コメント欄には、懺悔と、祈りの言葉だけが流れている。
彼、灰谷レンジは死んだ。
そして、世界の「痛み」を管理する神ごとき存在(サーバー)となった。
誰かが誰かを傷つけようとすると、その痛みが即座に自分に返ってくる。
そんな新しい理(ルール)が、世界を覆っていた。
クリスタルの中、レンジは薄っすらと目を開ける。
(ああ、静かだ)
痛みはない。
孤独もない。
ただ、世界中の人間が、俺の顔色を窺って生きている。
《今日もレンジ様が穏やかでありますように》
《争いはやめよう、痛いのは嫌だ》
流れるコメントを眺めながら、俺は永遠のまどろみの中で微笑んだ。
「……高評価、ありがとう」
承認欲求の成れの果て。
世界で最も静かで、最も残酷なライブ配信は、今日も続いている。