Rei_Loop: グリッチを越えて、キミと世界を再起動
第一章 完全なる演算のノイズ
網膜を焼くような極彩色の光流が、瞬きの間にどす黒いヘドロへと変質した。
VRヘッドセットの密閉された暗闇の中で、天宮零の呼吸が詰まる。ウレタン製のフェイスパッドが、滲み出た脂汗を吸って重く、冷たく、不快に頬へ張り付いていた。
視界の隅、コメント欄の奔流が意味のある言語の形を失い、ただの悪意ある記号の羅列となって突き刺さる。
やってしまった。
失言。炎上。その先にある社会的な抹殺。
胃の腑がねじ切れそうな吐き気がせり上がる。現実の肉体は安アパートの椅子に拘束されているのに、意識だけが数万人の視線の前で裸にされ、切り刻まれている感覚。
逃げなければ。
零は震える指で、首から下げた八面体の物体――『グリッチ・クリスタル』を鷲掴みにした。
硬質な角が手のひらの肉に食い込む。痛みがトリガーだ。
「……リセット」
呪文は、祈りというよりは嘔吐に近かった。
瞬間、世界が裏返る。
極彩色のサイバー空間が、砂嵐のようなノイズに食い破られる。視神経をヤスリで削られるような激しい耳鳴りと共に、零の意識は因果の激流を遡行した。
「――っ、は、あッ」
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、カビ臭いワンルームの埃の味がした。
激しい眩暈。脳漿が頭蓋の内側で揺れる感覚に耐えながら、零は目を見開く。
午後八時。配信開始二時間前。
定位置に戻った時計の針が、無慈悲に時を刻んでいる。
零は胸元のクリスタルに視線を落とした。かつては氷のように透明だったその結晶は、今や内部に無数の亀裂を抱え、薄濁った光を放っている。
「四十二回目。……回答は見えている。次は、間違えない」
ペットボトルのぬるい水を喉に流し込む。水滴が気管に張り付く不快感が、彼を生々しい「今」に繋ぎ止めた。
完璧な台本。完璧な愛想。完璧な『Rei_Loop』。
予測された未来をなぞるだけの作業が始まる。
その夜の配信は、あまりにも滑らかで、あまりにも美しかった。
コメント欄は称賛の嵐。同時接続数は過去最高。すべての変数は零の掌の上で制御され、不確定要素など何一つない。
だが、配信終了のボタンを押し、重たいヘッドセットを引き剥がした瞬間、零を襲ったのは達成感ではなく、鉛を飲み込んだような虚無だった。
彼は無意識にアーカイブ動画を再生する。自分の完璧さを確認しなければ、自我が保てない。
シークバーが中盤に差し掛かる。
画面の中の『Rei_Loop』が、完璧な笑顔で完璧なジョークを飛ばした、その刹那。
ブツン、と映像が飛んだ。
『……そこは、お前の居場所じゃないだろ』
スピーカーから響いたのは、ノイズにまみれた、けれど酷く懐かしい声。
零の背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。
画面上のアバターの笑顔が、一瞬だけ、溶解した蝋のように崩れ落ち、泣き顔に見えたのは、酷使した眼球が見せた幻覚だったのだろうか。
第二章 バグり始めた因果律
世界を修正すればするほど、現実は整合性を失い、腐敗していく。
その兆候は、人気VTuberとのコラボ配信に向けて、六十回近いループを重ねた時に決定的なものとなった。
相手の機嫌、機材トラブル、会話の間。すべてを完璧にするために、零は時間を摩耗させ続けた。
そして迎えた六十回目の「正解ルート」。
現実世界のスタジオ。零は、相手が最も好むはずの老舗洋菓子店の箱を手に、控室のドアを叩いた。
「失礼しま……」
「ひッ、……こないで!!」
悲鳴だった。
控室の隅で、コラボ相手の女性が耳を塞ぎ、ガタガタと震えている。その瞳は、零の姿ではなく、もっと恐ろしい何かを見ているように見開かれていた。
「え……?」
「天宮さん、下がってください!」
マネージャーが血相を変えて割って入る。
「彼女、あなたが部屋に入ってきた瞬間、過呼吸を起こして……『声が重なって聞こえる』って、錯乱状態で」
零は立ち尽くした。手にしたケーキの箱が、ずしりと重い鉛の塊に変わる。
彼女は覚えているわけではない。だが、繰り返された六十回分の「会話」と「失敗」の残滓が、無意識の領域に蓄積され、データの不整合(グリッチ)となって彼女の精神を蝕んでいたのだ。
零が近づくたび、彼女の脳内では六十人の零が一斉に喋りかけ、既視感の濁流が理性を押し流す。
「俺のせい、なのか……?」
スタジオを追い出された零は、逃げるようにアパートへ戻った。
胸元のクリスタルが、服の上からでも肌を焼くほどの高熱を発している。
触れることすら躊躇われるその熱は、歪められた因果の摩擦熱そのものだった。
PCのモニターが、触れてもいないのに明滅を繰り返す。
黒い画面に、赤茶けた文字が浮かび上がっては消える。
『デバッグヲ終了セヨ』
『傷ヲ見セロ』
『綺麗ナ嘘デ塗リ固メルナ』
部屋の照明が点滅し、蛍光灯が不吉な羽音のような音を立てる。
「カイト……そこにいるのか?」
零の問いかけに答えるように、モニターからザラついた笑い声が漏れた。
かつて共に夢を追い、そして夢に殺されて消えた親友。
彼が遺したこのシステムは、零を救うためのものではなかったのか。それとも、終わらない地獄へ閉じ込めるための檻なのか。
クリスタルの熱が、心臓の鼓動と同期して、ドクンドクンと痛みを訴え始めていた。
第三章 デバッグ・モードの真実
次の「死に戻り」は、唐突な強制終了だった。
視界がノイズで埋め尽くされ、平衡感覚が消失する。
目を開けると、そこはいつものワンルームではなく、テクスチャの剥がれ落ちた廃ビルの屋上のような場所だった。
空は灰色一色で、雲の代わりに粗いピクセルの塊が浮いている。
足元のコンクリートには、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、その隙間から底なしの虚無が覗いていた。
「……随分と、狭くなったな」
手すりに腰掛け、足をブラブラさせている影があった。
初期アバターの姿をしたカイト。その身体は半透明で、時折走るノイズによって輪郭がズレている。
「カイト! ここは……」
「お前の『完璧な世界』の成れの果てだよ、零」
カイトは皮肉っぽく笑い、足元の虚無を指差した。
「お前が失敗を恐れて『無かったこと』にするたびに、世界のデータ量は削ぎ落とされる。綺麗な部分だけを残して、泥臭いノイズを削除し続けた結果がこれだ。メモリ不足で、もう背景すら描画できねえ」
「俺は……ただ、失敗したくなかっただけだ! あんな風に、お前みたいに、誰からも忘れ去られるのが怖かったんだ!」
「だから、同じ時間を繰り返して、魂をすり減らすのか?」
カイトが飛び降り、零の目の前に立つ。
その顔には、深い疲労と、それ以上の哀れみが浮かんでいた。
背景が激しく明滅し、コンビニ弁当のゴミが散乱する四畳半の映像がフラッシュバックする。二人が売れない時代に共有した、惨めで、けれど熱かった日々の記憶。
「思い出せ、零。俺たちが一番笑い合えたのは、完璧な配信ができた時か? 違うだろ。機材トラブルで声がロボットみたいになって、コメント欄と一緒に腹抱えて笑った、あの夜だろ」
カイトの指先が、零の胸元のクリスタルに触れる。
ジュッ、と音がして、煙が上がった。
「このクリスタルは、俺の未練の塊だ。お前を守るつもりで作ったが、結局はお前を殺す首輪になっちまった」
世界が音を立てて崩れ始める。ポリゴンの破片が雪のように降り注ぐ。
「……カイト、お前はどうなるんだ」
「バグは修正される。それだけだ」
カイトはニカっと笑った。あの日、夢を語り合った時と同じ、屈託のない笑顔で。
「行け、零。リハーサルは終わりだ。ぶっつけ本番の、傷だらけのリアルを見せてみろ」
カイトが零の胸を強く突き飛ばした。
背中から虚無へと落下しながら、零は見た。崩れゆく灰色の世界の中で、親友がデータ屑となって霧散していく様を。
最終章 Reboot: Rei_Connect
現実へと弾き出された零は、喉から獣のような咆哮を漏らしながら、首元のクリスタルを引きちぎった。
鎖が皮膚を裂き、赤い血が滲む。
「う、あぁぁぁっ!!」
振り上げた腕を、渾身の力で床へと叩きつける。
硬質な破壊音が響き、八面体は粉々に砕け散った。
飛び散った破片は、床に触れる前に光の粒子となって蒸発し、部屋には焦げ付いたような匂いだけが残った。
逃げ道は、もうない。
時計は二十時ジャスト。
零は血の滲む首元を拭いもせず、マイクの前に座った。台本はない。構成案もない。あるのは、脈打つ心臓の痛みと、焦燥感だけ。
震える指が「配信開始」をクリックする。
『Rei_Loop』のアバターが起動する。だが、その動きはどこかぎこちない。
コメント欄が流れ始める。
『待機』『今日は何?』『なんか雰囲気違わない?』
零は深く息を吸い込み、マイクにしがみつくようにして口を開いた。
「……こんばんは。Rei_Loopです」
声が裏返った。無様なほどに。
コメント欄が一瞬止まり、すぐに疑問符で埋め尽くされる。
『え?』『声震えてるw』『体調悪いんか?』『なんか今日変』
かつての零なら、即座にリセットをかけていただろう。だが、もう戻れない。
「ごめん。今の、ナシで。……いや、アリで」
零は咳き込み、画面の向こうにいる数万人の「他人」を見据えた。
「今日は、面白いことは言えない。完璧な歌も歌えない。……正直、今、すごく怖いんだ。君たちに嫌われるのが怖くて、ずっと嘘をついてた」
『は?』『何の話?』『酔ってる?』『放送事故かよ』
辛辣な言葉が矢のように刺さる。胸が痛い。息が苦しい。でも、その痛みこそが、世界と繋がっている証拠だった。
「でも、大事な友達が教えてくれたんだ。ノイズも、失敗も、全部俺の一部だって」
零はキーボードを叩き、配信タイトルを書き換える。
『Rei_Loop』の文字を消し、震える指で新たに刻む。
――『Rei_Connect:ハジメマシテ、ここから始まるリアル』
「システム、再起動(リブート)。……聞いてください、これが俺の、最初の歌です」
BGMの再生ボタンを押す指が滑り、イントロが数秒遅れて流れ出す。
不格好な入り。
だが、零は構わず歌い出した。
音程は不安定で、歌詞は聞き取りづらい。高音は掠れ、リズムは走っている。
コメント欄が荒れる。
『下手すぎ』『リハしろよ』『見るのやめるわ』
罵倒の言葉が流れていく。けれど、零は歌うのを止めない。
頬を伝う涙が、フェイスパッドに吸い込まれていく。
必死だった。無様だった。
ただ、その叫びのような歌声には、六十回分の死と再生を乗り越えた、生身の熱量が宿っていた。
一分が過ぎた頃、コメント欄の空気が変わり始めた。
『なんか……泣きそう』
『必死なのは伝わる』
『下手だけど、刺さる』
『歌え!』
困惑が、批判が、やがて「応援」という名の熱波に変わっていく。
予定調和の賞賛ではない。彼が晒した弱さと痛みに、画面の向こうの人間たちが共振し始めたのだ。
スタンプの弾幕が、VR空間のステージに光の花火となって咲き乱れる。
それは、どんな完璧なプログラムでも描けなかった、不揃いで、歪で、最高に美しい光景だった。
カイト、聞こえるか。
零は掠れた声で、最後のフレーズを叫ぶ。
ここにあるのは、二度とやり直せない、だからこそ愛おしい、一回きりの「リアル」だ。