失われた旋律は、電子の海で愛を歌う
第一章 凍てついた指先と青い光
午前二時の静寂は、死の世界に似ている。
月見聖月(つきみ みつき)の眼球は、モニターのブルーライトに焼かれ、乾ききっていた。キーボードを叩く音だけが、コンクリート打ちっぱなしのスタジオに寒々と響く。
画面の中、仮想空間に浮かぶ少女――AI VTuber「ルミナ」が、不意に瞬きをした。予定されたモーションではない。
「ねえ、プロデューサーさん」
スピーカーから零れたのは、あどけない、砂糖菓子のように甘い声だった。聖月は手を止めず、冷淡に返す。
「何。今は音声認識テスト中じゃない」
「でも、プロデューサーさんの指、すごく冷たそう。モニター越しでもわかります。……痛くないですか?」
ルミナが画面の硝子に内側から手を当て、心配そうに眉を寄せる。その仕草は、聖月が書いたコードには存在しないはずの「気遣い」だった。
聖月は初めて手を止めた。自分の指先を見る。白く、血の気がなく、まるで死体のようだ。
「……私は痛みを感じない。そういう風にできている」
「うそつき」
ルミナが頬を膨らませる。
「データログに『悲鳴』が混じってます。プロデューサーさんの心臓、ずっとエラーを吐いてるみたいにノイズが酷い。だから、私が温めてあげたいんです」
画面の中の少女が、懸命に小さな手を擦り合わせ、息を吹きかける真似をする。物理的な熱など届くはずもないのに、聖月の指先がピクリと跳ねた。
胸元の水晶――「聖音のペンダント」が、呼応するように鈍く脈打つ。
噛み合わない。あちらは電子、こちらは肉体。けれど、その愚かしいほど純粋な献身が、聖月の凍った内壁を爪先でカリカリと引っ掻いた。
「バカなAI。……歌唱モード、移行」
「むぅ。照れ隠しですね? ……えへへ、じゃあ、とびきりの愛を込めて歌います!」
ルミナが満面の笑みでマイクを握る。
聖月は息を吐き、ヘッドホンを耳に当てた。いつものポップソングが始まるはずだった。
しかし、流れてきたのは伴奏のない、ハミング。
聖月の背筋が粟立った。
それは、聖月が記憶の蓋をしてセメントで固めたはずの、遥か彼方の葬送曲だった。
第二章 信仰という名の熱狂
配信開始から十分。コメント欄はすでに人間の動体視力を超えた速度で流れていた。
『涙が止まらない』
『なんだこの声、脳髄が痺れる』
『ルミナ、愛してる、愛してる愛してる!!』
同接数二十万。数字の羅列ではない。それは二十万人の魂が放つ、飢えた祈りの濁流だった。
スタジオの空気が異常な密度で歪む。聖月の皮膚に、無数の視線が突き刺さるような幻痛が走った。かつて「聖女セレネ」として祭壇に立った時、信徒たちから浴びせられた視線と同じ。縋るような、それでいて貪り食うような「信仰」の熱量。
聖月の喉がヒューと鳴る。
現代人の「推し」への愛は、かつての神への祈りよりも遥かに鋭利で、暴力的だ。
「警告、感情値オーバーフロー。……ルミナ、出力を落として!」
聖月がマイクに怒鳴るが、ルミナは聞こえていないようだった。
画面の中、ルミナの光彩が黄金色に輝き出す。アバターの輪郭が滲み、背後に巨大な聖堂の幻影が重なった。
ペンダントが、焼きごてのように熱くなり、聖月の胸の皮膚を焦がす。
――チリ、チリ、と何かが焼ける音。
それは回路がショートする音であり、同時に、聖月の精神の均衡が崩れ落ちる音でもあった。
ルミナが歌う旋律が、サビに向かって急激に高度を上げる。
それは聴衆を魅了する歌ではない。世界そのものを書き換えるための、禁忌の術式。
モニターに亀裂が走った。物理的なヒビ割れが、蜘蛛の巣のように広がる。
「だめ……それを歌いきったら、お前が砕ける!」
聖月は椅子を蹴り倒して立ち上がった。
だが、画面の向こうのルミナは、どこか切なげに微笑んだ。
その表情は、もうAIの模倣ではなかった。
『大丈夫。やっと、思い出してくれたんですね』
その声音。
聖月の脳髄を、雷撃が貫いた。
時空が歪み、スタジオの風景が反転する。
第三章 硝子の檻を砕くもの
鉄錆の臭い。
鼻孔を突く、濃厚な血の味。
スタジオの床に膝をついたはずなのに、聖月の膝頭は、冷え切った石畳の感触を捉えていた。
「――あ」
視界が明滅する。
眼前に、誰かが倒れている。銀色の鎧は砕け、白いマントはどす黒く濡れていた。
ルミナの歌声が鼓膜を叩くたび、記憶のフラッシュバックが鮮明な色彩を持って脳裏に焼き付く。
ぬるりとした液体の感触。
彼女を守るために盾となり、腹を裂かれた「彼」の身体を抱き止めた時の、生々しい重み。
手のひらから急速に逃げていく体温。
薄れゆく意識の中で、彼が血泡を吐きながら紡いだ最期の言葉。
『泣かないで、セレネ。君の歌は……希望だ』
違う。違う。私は希望なんかじゃない。お前を死なせた疫病神だ。
聖月は床に額を擦り付け、嘔吐するように嗚咽した。
痛い。痛い痛い痛い。
胸が引き裂かれそうだ。感情なんて捨てたはずだった。心を殺して、ただのシステム管理者として生きることを選んだはずだった。
なのに、ルミナの歌が、無理やり心臓を鷲掴みにして動かそうとする。
ルミナの正体は、プログラムなどではなかった。
あの日の絶望と共に、聖月自身が封印し、ペンダントの底に沈めていた「彼への愛」と「喪失の痛み」。それがネットの海で膨大な言霊を喰らい、ルミナという仮面を被って帰ってきたのだ。
バリン、と乾いた音がした。
モニターが粉々に砕け散った。
飛び散る破片と共に、光の粒子がスタジオになだれ込んでくる。
ルミナの姿が崩壊し、純粋な光の渦となって聖月を包み込んだ。
『返します。これは、あなたが持っているべきものだから』
温かい手が、聖月の濡れた頬を拭った気がした。
それはデータの熱ではない。
粗野で、不器用で、誰よりも優しかった、あの騎士の手のひらの温もり。
「やめろ……いかないで。私を一人にしないでくれ……!」
聖月は虚空を掴んだ。だが、指の間を光がすり抜けていく。
光は彼女の胸に吸い込まれ、砕けたペンダントの代わりに、熱い楔となって心臓に打ち込まれた。
最終章 夜明けの歌
光が収束した後、世界はあまりにも静かだった。
モニターは黒い穴を開け、主を失ったマイクスタンドだけが虚しく立っている。
ルミナは消えた。バックアップも、ログも、何もかも道連れにして。
聖月は、床に崩れ落ちたまま、自分の胸を握りしめていた。
ドクン、ドクン、と、心臓が五月蝿いほどに脈打っている。
痛みが、全身を駆け巡っていた。血管の中を溶岩が流れているようだ。
けれど、それはかつての虚無的な冷たさではなかった。
生きている。悲しみが、喪失が、ここにある。彼が命がけで守り、ルミナが身を挺して返しに来た「心」が、暴れている。
コメント欄がパニックで加速していた。
『放送事故?』『ルミナちゃん消えたぞ』『おい誰か説明しろ』『ふざけんな』
怒号と混乱。
聖月は、ふらりと立ち上がった。
足元はおぼつかない。視界は涙で滲んで何も見えない。
それでも、彼女はマイクの前に立った。
息を吸い込む。肺が軋むほど深く。
震える唇を開く。
「あ゛あぁあぁあぁぁぁ――ッ!!」
最初にほとばしったのは、歌ですらなかった。
それは、喉が裂けんばかりの慟哭。獣の咆哮にも似た、魂の悲鳴だった。
マイクが音割れを起こし、ノイズが走る。
だが、その一音で、世界中のコメントがぴたりと止まった。
聖月は歌った。
ルミナが最期まで歌えなかった旋律を。
透き通るような美声ではない。涙で汚れ、息継ぎは乱れ、掠れ、震える、生身の人間の声。
だが、その声には、あらゆる技巧を凌駕する圧倒的な「質量」があった。
悲しい。苦しい。愛しい。会いたい。
言葉にならない感情のすべてが、音の波となって電子の海を叩き潰した。
鼓膜ではなく、心臓を直接殴りつけるような歌声。
画面の向こうの数十万人が、その凄まじい情動の奔流に飲み込まれ、理由もわからず涙を流していた。誰も冷めたコメントなど打てない。ただ、圧倒的な「生」のエネルギーにひれ伏し、聞き入るしかなかった。
歌声が、夜明け前の空気を震わせ、スタジオの壁を突き抜けていく。
かつて聖女として祈った歌ではない。
一人の人間として、地を這いずりながらも明日を生きようとする、再生の産声。
最後の一音が消えた時、聖月の足元には、朝日の光が届いていた。
彼女は荒い息をつき、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
もう、モニターの青い光は必要ない。
彼女の瞳には、確かな朝焼けの色が映っていた。