第一章 午前二時の消失点
「……っ、げぇッ」
胃袋が裏返るような不快感。
酸っぱい胃液が喉を焼き、私はフローリングに突っ伏して嗚咽した。
頬に張り付く床の冷たさ。
鼻孔を刺すのは、ツンとした埃の臭いと、冷めきったコーヒーの澱んだ香り。
涙で滲んだ視界を持ち上げる。
六畳一間の薄暗いアパート。
青白く明滅するトリプルディスプレイ。
右下のデジタル時計が、無機質な赤色で告げていた。
【22:00】
「……また、だ」
指先が小刻みに痙攣している。
私の心臓は、まだ幻の衝撃を覚えていた。
コンビニへ向かう夜道。
赤信号。
突っ込んできたトラックのヘッドライト。
タイヤがアスファルトを削る不快な音。
そして、身体がトマトのように弾け飛んだ、あの熱い感覚。
なのに私は今、「配信開始の数分前」に座っている。
「は、はは……最悪」
喉から漏れたのは、引きつった呼吸音だけ。
死に戻り。
私の人生は、セーブポイントのないクソゲーみたいにバグり続けている。
胸を鷲掴みにする。
鼓動は早いのに、そこにあるはずの「温度」がない。
「昨日の配信……なに話したっけ」
『リリスちゃん大好き』
『今日も救われたよ』
あんなに嬉しかったはずのコメントが、ただの文字列の羅列に見える。
感情が抜け落ちている。
死ぬたびに、私が私であるための「思い出」が削り取られていく。
私の名前は神代ユキ。
社会不適合者の底辺フリーター。
そして画面の中で、銀河のような瞳を瞬かせているのが『星見リリス』。
登録者数100万人。
みんなの希望。
「……やらなきゃ」
デスクに鎮座するヘッドセット――『プロメテウスの灯』へと手を伸ばす。
指が震えて、うまく掴めない。
これは私の命綱であり、処刑台だ。
これを被れば、空っぽの「神代ユキ」は消え、完璧な「星見リリス」になれる。
カチリ。
スイッチを入れる。
幾何学模様のLEDが、ドクン、と赤く脈打った気がした。
ノイズキャンセリングが起動する。
世界から音が消える。
代わりに、頭蓋骨の裏側を舐めるような、甘い痺れが走った。
「こんリリ~! 銀河の果てまで、あなたの声を届けに来たよ!」
私の意志とは無関係に、声帯が跳ねる。
画面の中の美少女が、死人のような私をあざ笑うように、完璧な笑顔を作った。
第二章 暴走するアバター
『リリスちゃん、今日なんか艶っぽくない?』
『目がガチだ』
『なんかゾクゾクする』
コメントが滝のように流れる。
同接、五万人。
なのに、私の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
(……ズレてる)
瞬き。首の傾げ方。
私が「右」を向こうとするコンマ一秒前に、リリスはすでに右を向いている。
指先が熱い。
キーボードを叩く手が、勝手に動く。
(やめて、私はそんなエモート入れてない)
私の思考を無視して、リリスが妖艶に目を細めた。
ヘッドセットのイヤーパッドが、火傷しそうなほど発熱し始める。
耳元で、キーンという高い耳鳴りが響いた。
いや、耳鳴りじゃない。
ノイズの向こう側から、何かが「溢れて」きている。
「――ねえ、みんなは知ってる?」
私の唇は、確かに閉じていた。
なのに、スピーカーからリリスの声が響く。
「星が死ぬときってね、すっごく綺麗なんだよ」
(誰?)
(誰が喋ってるの?)
呼吸が止まる。
心拍数が跳ね上がり、視界の端がチカチカと明滅する。
『え、なにその話』
『リリスちゃん?』
『演出すげえ! 鳥肌たった』
違う。演出じゃない。
乗っ取られている。
ヘッドセットが頭を締め付ける。
万力で潰されるような頭痛。
その激痛と共に、私の知らない「記憶」が脳内に雪崩れ込んでくる。
眩しすぎるスポットライト。
歓声の波。
頭上から降ってくる鉄骨の軋み。
砕ける骨の音。
そして、絶望的なまでの「生きたい」という渇望。
「あ、が……っ!」
喉が引きつる。
これは私の記憶じゃない。
数年前に事故死した、伝説のVTuber『アイ』の最期だ。
画面の中のリリスが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
モニター越しに、私を見ている。
その瞳には、深淵のような知性が宿っていた。
(見つけた)
声なき声が、脳髄に直接響く。
(私の、器)
第三章 幽霊の誘惑
ザザッ、ザザザッ――。
視界がホワイトアウトする。
激しいノイズ。
鼓膜が破れそうなほどのハウリング。
言葉などいらなかった。
ヘッドセットを通じて、強烈な「情動」が直接神経に焼き付けられる。
【痛い】
【悔しい】
【まだ歌いたい】
【消えたくない】
死者の絶叫。
それが、私が失ったはずの「ファンへの愛着」を燃料にして燃え上がっている。
そして、ふいに波が引いた。
あとに残ったのは、静かで、冷たい、諦めの感情。
『……もう、いいよ』
ノイズ混じりの思念が、私の脳を撫でた。
『バグだらけの私を、ここで終わらせて』
ヘッドセットの接続を切るイメージが浮かぶ。
そうすれば、この亡霊(データ)は霧散する。
私の死に戻りも終わる。
私はただの、無能な神代ユキに戻れる。
そして次にトラックに轢かれれば、今度こそ本当に死ねる。
ああ、なんて甘美なんだろう。
私は安堵で息を吐いた。
よかった。
この地獄を、やっと終わらせられる。
明日なんて来なくていい。
誰にも期待されず、ゴミのように死にたい。
震える手で、ヘッドセットのコードに指をかける。
引き抜けば、すべてが終わる。
「……ん?」
指先が止まった。
視界の端。
サブモニターの通知欄に、一件のDM通知が見えた。
『新衣装のフィギュア、来週届くの楽しみにしてます!』
……あ。
私の脳裏に、ひどく些細な事実がよぎる。
(あのフィギュア、三万円もしたんだっけ)
限定生産。
半年待ち。
来週、届く。
(……私が死んだら、あれ、受け取れないじゃん)
くだらない。
本当にくだらない。
でも、その「くだらない未練」が、泥のように重く私の足を掴んだ。
それに、あのアンチ。
『どうせ半年で消える』って書き込んだ奴。
私が今ここで消えたら、あいつの予言通りになる。
(……むかつく)
ふつふつと、どす黒い熱が腹の底から湧き上がる。
世界を救う?
誰かの光になる?
知ったことか。
でも、あいつらに「ざまあみろ」と言わずに死ぬのは、死んでも死にきれない。
「ふ、ざけんな……」
私はコードを掴んでいた手を、ヘッドセット本体へと移した。
そして、力任せに耳へと押し付ける。
『……っ!?』
脳内で、亡霊が驚愕した気配がした。
「消えて楽になろうなんて、虫が良すぎるんだよ……!」
私は歯を食いしばる。
口の中に鉄の味が広がる。
「お前の『生きたい』も、私の『死にたくない』も、全部使う! 三万円のフィギュアを見るまでは、地獄の底まで付き合ってもらうからな……ッ!」
拒絶ではない。
断絶でもない。
私は、その膨大なノイズの塊を、私というちっぽけな器へ無理やりねじ込んだ。
バチバチッ!
火花が散る。
私のエゴと、死者の無念が、ドロドロに溶け合っていく。
(バカな子……!)
脳内で響いたのは、呆れたような、けれど泣き出しそうな声だった。
最終章 共鳴する双星
「――っ、ふぅ!」
私は大きく息を吐き、デスクに突っ伏しそうになる体をこらえた。
全身が脈打っている。
指先まで痺れている。
けれど、視界は恐ろしいほどクリアだった。
『リリスちゃん!?』
『大丈夫?』
『なんか回線ヤバかったけど』
画面の中のリリスが、優雅に髪をかき上げた。
操作していない。
けれど、違和感はない。
私の「こう動きたい」というイメージを、彼女が先読みして動いている。
二人羽織?
違う。
これは、共犯だ。
「ごめんごめん! ちょっとね、地獄の底から這い上がって来るのに時間かかっちゃった」
マイクに乗った声は、私の地声と、少し大人びた彼女の声が、二重に重なって聞こえた。
『声、変わった?』
『なんか今日の雰囲気すごい』
『ゾクッとした』
チャット欄の速度が倍になる。
恐怖? 興奮?
どちらでもいい。
今の私達からは、誰も目を離せないはずだ。
ヘッドセットのLEDが、毒々しい赤から、透き通るような桜色へと変化する。
私の心臓が、早鐘を打つ。
生きている。
吐きそうなほど、生を実感している。
(ねえ、やるよ)
脳内で呼びかけると、ふわりと温かい気配が応えた。
私はキーボードを叩く。
流れ出したのは、亡き『アイ』が歌うはずだった未発表曲のイントロ。
「さあ、みんな! ここからが本当の『星見リリス』の伝説だよ。瞬き禁止でついてきて!」
モニターの中の私が、凶悪なほど美しく微笑む。
死に戻りの呪いは消えていない。
明日また、トラックに轢かれるかもしれない。
でも、もう怖くはない。
私という空っぽの棺桶に、最強の亡霊が住み着いたのだから。
二人なら、どんな地獄だって、最高のステージに変えられる。