聖女の祈りはバグの中に
第一章 硝子の指先
床板を伝う振動が、内臓を揺さぶっていた。
eスポーツ世界大会決勝戦。防音ガラス一枚隔てた向こう側で、数万の観客が喉を枯らしているはずだが、今のエレノア・ヴィヴィアンの耳には、自身の心音が早鐘のように打ち鳴らされている音しか届かない。
ゲーミングマウスを握る右手の指先から、血の気が失せていく。プラスチックの筐体を軋ませるほど強く握りしめすぎて、爪の間が白く変色していた。
呼吸が浅い。吸い込んだ空気が肺の底まで届かず、喉元でひきつけを起こしている。
「エレノア、聞こえてるか。……ポインターがブレてるぞ」
ヘッドセットから響くチームメイトの声も、水底で聞くように遠い。
右手首に巻かれた古い革のバンドが、皮膚を焦がすような熱を放ち始めた。かつて彼女を縛り付けていた教団の遺物。網膜に映る敵プレイヤーのシルエットが、不意に揺らぐ。その頭上に浮かぶはずのない十六進数の羅列が、羽蟲のように視界を覆い始めた。
——来る。
恐怖に呼応して、脳の処理速度が人間の閾値を超える。モニターのフレームレートが遅すぎる。コマ送りの世界で、色彩が剥離していく。
第二章 深淵からの招待状
ログインの合図と共に、意識が強制的に引きずり込まれる。
次世代VR『アース・クロニクル』。その戦場となる「廃都」に降り立った瞬間、エレノアは思わず口元を押さえた。
臭う。
鼻腔にへばりつく、湿ったコンクリートと鉄錆の酸化臭。そして、どこかで何かが腐ったような甘い吐き気。
頬を撫でる風が、ザラついた砂を含んで皮膚を物理的に刺激した。痛い。プログラム上の演出であるはずの環境エフェクトが、神経に直接触れるような不快感を伴って迫ってくる。
生理的な嫌悪感に背筋が粟立つ。見上げた空は灰色に澱み、雲の切れ間から覗くのは青空ではなく、肉の裂け目のような赤黒い亀裂だった。その奥で、かつて彼女の背に焼き付けられた紋章と同じ幾何学模様が、眼球のようにぎょろりと蠢いている。
手首の革バンドが脈動し、締め付ける力が強まる。
ここはゲームフィールドではない。彼女の精神を喰らい、現実の法則を書き換えるために用意された、巨大な培養槽だ。
第三章 凍てつく完全世界
吐き気が頂点に達した時、世界が裏返った。
エレノアの瞳から「光」が消える。恐怖という感情のリミッターが焼き切れ、代わりに冷徹な演算処理だけが脳髄を支配した。
「……最適化(オプティマイズ)」
呟きは、氷の破片のようにこぼれ落ちた。
次の瞬間、戦場から「音」が死滅した。
爆発音も、銃声も、瓦礫が崩れる音も、すべてが完全な波形として相殺され、真空の静寂がフィールドを包み込む。
もはやゲームではない。そこにあるのは、塵一つない無菌室のような、あまりにも美しく、窒息しそうな調和だけだった。
銃弾は放物線を描かず、発射の瞬間に着弾判定のみが処理される。プレイヤーたちは摩擦係数を失ったかのように、最短距離を直角に移動し続ける。
観客たちの熱狂は、水を打ったような沈黙へ変わった。誰もが瞬きすら忘れ、有機的な温かみが一切排除された映像に、本能的な畏怖を抱いていた。
対面にいた敵プレイヤーが、ふらりと銃を下ろす。その瞳は濁り、口元はだらしなく開き、まるで糸の切れた人形のように、ただ呆然と「虚無」を見つめていた。戦意喪失ではない。人間としての生気が吸い取られ、単なる背景オブジェクトへと成り下がってしまったのだ。
第四章 泥だらけの乱数
その凍りついた地獄に、汚れた唾が吐き捨てられた。
「おい、姫様。随分と行儀のいいクソゲーにしやがって」
静寂を引き裂く、しわがれた罵倒。
エレノアの相棒、ジャックだった。彼は最適化された移動ルートを無視し、わざわざ足場の悪い泥濘(ぬかるみ)を選んで踏み込んだ。
ドロリと跳ねた泥が、エレノアの真っ白なアバターの頬を汚す。
システムが「予測不能」のエラーを吐き出す。効率的ではない。無意味な動きだ。だが、彼はニヤリと笑い、わざと銃の安全装置をガチャガチャと鳴らした。
「そんな能面みたいな顔で遊ぶのが、俺たちの『楽しい』だったかよ?」
彼が放ったグレネードは、敵ではなく、自分たちの足元の壁を破壊した。
爆風。舞い上がる粉塵。計算外の物理演算が、完璧だった空間座標を歪ませる。
ゲホッ、とエレノアは咽せた。喉に詰まる埃の味。焦げ臭い火薬の匂い。
不快で、苦しくて、泥臭い。
けれど、その痛みだけが、彼女を人間として繋ぎ止めていた。
かつて薄暗い部屋で、指にマメを作りながら夜明けまでコントローラーを握りしめた記憶。悔しさで奥歯を噛み締め、それでも「もう一回」と願った熱。
手首の熱さが変わる。焼きごてのような激痛が、脈打つような鼓動へと。
完璧な世界に亀裂が走る。その裂け目から溢れ出したのは、神の力ではなく、数多のプレイヤーたちが積み重ねてきた、計算不可能な「意地」という名のバグだった。
最終章 不完全な世界の賛歌
エレノアはカッと目を見開いた。
視界を埋め尽くすシステムコードを、彼女は指先一つで掻き回す。
「メチャクチャにしてやる……!」
調和などいらない。彼女が望んだのは、バグだらけの混沌だ。
教団が仕組んだプログラムが悲鳴を上げ、テクスチャが剥がれ落ちていく。敵も味方も、重力すら無視した挙動で空を駆け、弾切れの銃を鈍器にして殴り合う。
それは見るに堪えない泥仕合であり、最高にスリリングなショーだった。
終了のブザーなど聞こえない。画面を埋め尽くした光の渦が晴れた時、そこに勝敗の文字はなかった。ただ、サーバーダウンを告げる無機質なエラーメッセージだけが点滅している。
現実へ。
エレノアは勢いよくヘッドセットをもぎ取った。
鼓膜を破らんばかりの歓声と怒号が、物理的な圧力となって全身に降り注ぐ。汗で張り付いた前髪を、震える手でかき上げる。
右手首を見る。リストバンドは砕け散り、そこには赤く腫れた痣だけが残っていた。ヒリヒリと痛むその熱は、確かに彼女自身の体温だった。
隣の席で、ジャックがふうと息を吐き、無言で拳を突き出してくる。
エレノアは小さく笑い、その拳に自分の拳をこつんと当てた。
「……最悪で、最高のゲームだったわ」
不完全で、ノイズだらけで、ままならない。だからこそ、この世界は愛おしい。
『』