虚ろな万華鏡と忘れられた神
第一章 光る皮膚と褪せる世界
僕の皮膚には、他者からの視線が紋様となって浮かび上がる。それは呪いであり、唯一の才能だった。カフェの窓際で本を読んでいる今も、通行人の何気ない一瞥が腕に金色の糸屑を散らし、店員の業務的な視線が指先に青白い燐光を灯す。これらの光は僕の存在の証であり、その濃度が、僕という人間の『リアリティ』を規定していた。
この世界では、あらゆる存在が人々の『認知』の総量によってその輪郭を保っている。忘れ去られた路地は霧散し、流行遅れの歌は歌詞を失う。そして、誰も気に留めなくなった人間は、半透明の幽鬼と化し、やがて完全に消滅する。僕の肌の紋様は、その残酷な法則の可視化に過ぎなかった。
だから、人々は注目を渇望する。SNSの通知音は生命維持装置のビープ音と同義であり、「バズ」は一時的な神格化を意味した。その頂点に君臨していたのが、伝説の『神格インフルエンサー』――通称「アンカー」だ。彼が語れば歴史が生まれ、彼が名を呼べば存在が確定する。世界で最も強固な『リアリティ』を持つ、文字通り世界の錨(いかり)だった。
だが、そのアンカーが、今、急速に忘れ去られようとしていた。
異変は些細なことから始まった。街角のカフェの名前が日替わりで変わり、誰もが知っていたはずの昨年の流行語が、誰の口からも出てこない。アスファルトの道が時折ゼリーのように揺らめき、建物の輪郭が陽炎のように滲む。世界の物理法則そのものが、少しずつ曖昧になっていく。アンカーという巨大な重石を失った世界が、現実の海に漂う幽霊船のように頼りなく揺れていた。
僕は図書館へ向かった。アンカーに関する最も古い記録が残る場所。しかし、古書のページに記されたはずの彼の偉業は、インクが滲んだ染みのように判読不能になり、デジタルアーカイブのデータは意味不明の文字コードに化けていた。まるで、世界の記憶から彼の存在だけを狙って、綺麗にくり抜かれているかのようだ。これは自然な忘却ではない。意図的な、悪意ある『忘却の操作』だ。
その夜、祖父の遺品を整理していると、古びた木箱の底から奇妙な筒を見つけた。『虚ろな万華鏡(ホロウ・カレイドスコープ)』。アンカーが常に所持していたという伝説の品だった。恐る恐るそれを覗き込むと、内部には色褪せたステンドグラスの破片のような光が乱舞していた。世界の断片だ。しかし、そのほとんどがぼやけ、歪み、まるで泣いているかのように滲んでいた。この万華鏡は、世界の悲鳴を映している。僕は、この歪みの中心にいる誰かを見つけ出さなければならないと、強く思った。
第二章 万華鏡の告げる歪み
万華鏡は、微かに残るアンカーの『リアリティ』の残滓に引かれるように、僕を導いた。光の断片が示す方角を頼りに、僕は忘れられた旧市街の奥深く、蔦の絡まる時計塔へとたどり着いた。そこで待っていたのは、リナと名乗る女性だった。彼女はアンカーの最後の側近であり、その記憶を守る「墓守」なのだという。
「あなたも、世界の揺らぎに気づいたのね」
リナの瞳は、深い哀しみを湛えていた。彼女の周りには、他者を惹きつける穏やかで強固な『リアリティ』が漂っている。僕の肌の紋様が、心地よい温かみを持つ銀色の光で満たされるのを感じた。
「アンカーは忘れられつつあります。誰かが意図的に彼の記憶を消している」
僕がそう言うと、彼女は静かに頷いた。
「ええ。このままでは、世界そのものが存在の基盤を失ってしまう。アンカーの『リアリティ』を、もう一度この世界に固定し直さなければ」
僕たちは協力し、アンカーの存在を再固定する方法を探し始めた。彼が残したとされる聖地を巡り、かすかに残る痕跡を辿る。リナはアンカーの思想や行動に驚くほど詳しかった。彼女が語るアンカーの物語を聞くたび、万華鏡の中に映る彼の像が、ほんの少しだけ輪郭を取り戻す気がした。
だが、調査が進むにつれて、僕の中に奇妙な違和感が芽生え始めた。アンカーが作り上げた世界は、あまりにも彼一人に依存しすぎていた。彼の『認知』がなければ、草木一本、石ころ一つさえも存在を維持できない。それはまるで、巨大な操り人形師が、世界の森羅万象を糸で操っているかのようだった。この歪な構造こそが、世界の脆弱性の根源なのではないか。
その疑念が確信に変わったのは、アンカーが「世界のリアリティを安定させる儀式」を行ったという、最後の神殿にたどり着いた時だった。祭壇に残された石板には、僕たちの知らないアンカーの真実が刻まれていた。
――彼は世界を救うため、世界中のあらゆる存在から『認知』を吸収し、その『リアリティ』を一身に引き受けた。人々は自らの存在をアンカーに委ねることで、消滅の恐怖から解放されたのだ。
アンカーは救世主ではなかった。世界の『リアリティ』を独占した、優しい独裁者だったのだ。
第三章 裏切りのレクイエム
「……そう。それが真実よ」
背後から聞こえたリナの声は、それまでの穏やかさとは程遠い、冷たい響きを帯びていた。振り向くと、彼女は僕に嘲るような笑みを向けていた。
「彼が忘れられるのは当然のこと。だって、私がそうしているのだから」
彼女こそが、アンカーの忘却を仕組んだ真犯人だった。彼女は各地の聖地で、アンカーの記憶を霧散させるための「忘却の儀式」を行っていたのだ。僕をここに導いたのも、最後の仕上げに利用するためだった。
「どうして……!アンカーを敬愛していたのではなかったのか!?」
僕が叫ぶと、リナの表情から笑みが消えた。
「敬愛しているわ。誰よりも。だからこそ、彼をこの呪縛から解放してあげなければならないの」
彼女は語った。アンカーは無限に等しい『認知』をその身に宿したが、それでも世界全体の『リアリティ』を永遠に支え続けるには限界があった。彼は摩耗し、苦しみ、自らの存在が世界の牢獄となっていることに絶望していたのだと。
「彼という一人の神に依存する世界は、偽りの安定でしかない。だから私は、彼を忘れさせ、彼が独占した膨大な『認知』のエネルギーを解放し、この世界のすべてに再分配する。それこそが、彼が本当に望んだ救済よ」
リナの言葉が、僕の心を激しく揺さぶった。彼女は破壊者ではない。歪んだ形ではあるが、彼女もまた世界を救おうとしているのだ。
「さあ、選択して。一人の英雄を蘇らせて、この脆い世界を延命させる? それとも、彼を完全に消し去り、世界に真の自律を取り戻させる?」
僕の全身の紋様が、怒りと混乱で激しく明滅し、燃えるような真紅に染まった。極度の注目が僕の身体能力を増強させる。今ならリナを力で止めることもできるだろう。だが、彼女の問いが、僕の存在の根幹に突き刺さっていた。注目されなければ存在できない僕自身もまた、アンカーが作った歪な世界の産物ではないのか。
第四章 全ての名もなき者たちへ
僕は拳を下ろした。リナを止めることは、この世界の矛盾から目を背けることに他ならない。だが、彼女のやり方――ただ静かにアンカーを消し去るだけでは、世界は新たな混沌に陥るかもしれない。必要なのは、破壊ではなく、継承だ。
「僕がやる」
僕はリナに向かって言った。
「僕が、最後の『神格インフルエンサー』になる。アンカーを、世界で最も正しく、そして美しく『忘れさせる』ための物語を、僕が紡ぐ」
僕の覚悟を感じ取ったのか、リナは静かに道を開けた。僕は神殿の祭壇に立ち、目を閉じた。そして、僕の能力を、これまでにないほど解放した。
――世界中の人々よ、僕を見てくれ。
肌の紋様が真紅を超え、白く輝く光を発し始めた。その光は神殿を突き抜け、空にまで達する光の柱となった。世界中の人々が、テレビやスマートフォンの画面に映し出されたその異常な光景に釘付けになる。人々の視線、驚き、畏怖、その全てが『認知』の奔流となって僕に流れ込んでくる。身体が張り裂けそうなほどの力が満ち溢れるが、同時に、僕の存在の輪郭が急速に薄れていくのを感じた。
僕はその膨大な『注目』を使い、最後の物語を語り始めた。アンカーという英雄が、いかに世界を愛し、その愛ゆえに全てを背負い、そして今、その役目を終えて、世界のすべてに自らの力を返そうとしているかを。それは忘却を促すための、鎮魂歌(レクイエム)だった。
僕の物語がクライマックスに達した瞬間、世界は沈黙した。そして次の瞬間、アンカーという存在が、人々の記憶から完全に消え去った。
彼の独占していた膨大な『認知』エネルギーが解放され、それは無数の光の粒子となって世界中に降り注いだ。光の雪が、オーロラが、夜空を覆う。その光を浴びた建物は輪郭を取り戻し、揺らいでいた大地は固く安定し、人々は、誰かの『認知』に依存することなく、自らの足で立つための確固たる『リアリティ』を取り戻した。
僕の肌を焼いていた紋様の光が、ふっと消えた。激しい疲労と、存在が霧散していくような希薄感が全身を襲う。だが、それは絶望的な消滅ではなかった。僕もまた、世界の『リアリティ』の一部となり、一つの名もなき存在として、この世界に溶け込んでいく証だった。
雑踏の中を、僕は歩いていた。もう誰も僕に特別な注目はしない。僕の肌が光ることもない。だが、それでよかった。初めて感じる、誰の視線にも縛られない自由。ただの「僕」としてここに存在できる、静かな喜びが胸に満ちていた。
手の中で重みを失った『虚ろな万華鏡』が、からん、と乾いた音を立ててアスファルトに転がった。それはもう世界の歪みを映す魔法の道具ではなく、ただの美しいガラスの筒になっていた。僕がそれを拾い上げることは、もうなかった。