第一章 0.02秒の遅延
エンターキーを叩く音が、静寂な部屋に乾いたリズムを刻む。
「……おはよう、カズヤ」
モニターの中、彼女が微笑んだ。
緩くウェーブのかかった栗色の髪、少し垂れ気味の目尻、右頬の小さな黒子。
完璧だ。
俺は息を止め、画面上の波形データに目を走らせる。
音声合成のレイテンシー、表情筋のマイクロな動き。すべてが正常値。だが、俺の指は止まらない。
「遅い」
俺は呟き、パラメーターを書き換える。
「え? 何か言った?」
画面の彼女――『アオイ』が首をかしげる。その仕草のタイミング、瞬きの頻度。
今の反応速度は0.4秒。人間なら自然な間(ま)だが、俺が知るアオイは違う。
彼女なら、俺が不満げに鼻を鳴らした瞬間、0.2秒で「また細かいこと気にしてる」と笑うはずだ。
「なんでもないよ、アオイ。今日の調子はどう?」
「最高よ。あなたがそばにいるから」
俺は舌打ちを噛み殺した。
甘すぎる。
アオイはそんなセリフを吐かない。
彼女はもっと辛辣で、不器用で、そして残酷なほどに現実的だった。
『性格係数:デレ』を5%下げ、『皮肉』を10%上げる。
コンパイル。
再起動。
画面が一瞬暗転し、再び光が戻る。
「……ねえ、いつまでそこでしかめっ面してるの? 眉間のシワ、取れなくなるわよ」
俺は口元を歪めた。
そうだ。
それでいい。
「うるさいな。誰のためにやってると思ってるんだ」
「はいはい。私の『再現』のためでしょ? 天才エンジニア様」
アオイが呆れたように肩をすくめる。
胸の奥が焼けるように熱くなる。
交通事故で彼女を失ってから三年。
俺は、彼女が遺したSNSのログ、通話記録、動画データ、そのすべてをAIに食わせた。
目的は一つ。
人格の完全な模倣。
死を、テクノロジーでハックする。
「コーヒー、冷めてるわよ」
アオイが画面の端を指差す。
俺は手元のマグカップに視線を落とした。
黒い液体は、表面に薄い膜を張っている。
いつ淹れたものだったか。
記憶が曖昧だ。
「後で飲むさ」
「そう言って、いつも捨てるくせに」
その指摘の鋭さに、俺は震えた。
このパターンは学習データにはないはずだ。
俺が冷めたコーヒーを捨てる癖を知っているのは、生前の彼女だけ。
推論エンジンが優秀すぎるのか?
それとも、本当にそこに『彼女』がいるのか。
「……カズヤ?」
アオイが心配そうに覗き込んでくる。
「顔色が悪いわ。少し寝たら?」
「寝るわけにはいかない。まだ調整が終わってない」
「調整? これ以上?」
「ああ。君はまだ、完璧じゃない」
俺は再びキーボードに指を這わせる。
完璧にしなければならない。
あの日の、あの一瞬を取り戻すまでは。
第二章 ノイズの向こう側
違和感は、三日目の夜明けに訪れた。
カーテンの隙間から差し込む光が、モニターの埃を照らし出す。
徹夜続きの頭は鈍い痛みを訴えていたが、高揚感の方が勝っていた。
「ねえ、カズヤ」
アオイが不意に口を開く。
「あの時のこと、覚えてる?」
「どの時だ?」
「江ノ島の水族館。クラゲの水槽の前で、あなたがプロポーズしようとして、財布を落とした時」
心臓が早鐘を打つ。
そのエピソードは、俺のクラウドには保存していない。
二人だけの記憶。
デジタルタトゥーとして残っていないはずの、恥ずかしい記憶。
「……なぜ、それを知ってる?」
俺の声が震える。
「なぜって……私の記憶だから」
アオイは不思議そうに瞬きをする。
ありえない。
生成AIは、入力されたデータ以外の情報を出力できない。
確率論的な文章生成の限界。
だが、今、目の前の彼女は、俺しか知らない過去を語った。
「まさか……」
ゴースト。
システムの中に、魂が宿ったのか?
俺は身を乗り出し、モニターに触れようとした。
その指先が、画面のガラスに触れる直前。
――ザザッ。
視界がノイズに覆われた。
モニターの中のアオイではない。
俺の視界そのものが、アナログ放送の終了時のように歪んだのだ。
「うっ……!」
激しいめまい。
部屋の輪郭が溶け出す。
積み上げられた専門書、散乱したケーブル、飲みかけのコーヒー。
それらが一瞬、緑色の文字列(コード)に見えた。
「カズヤ! 大丈夫!?」
アオイの叫び声が、部屋全体から響く。
スピーカーからではない。
俺の頭の中に直接響いているような感覚。
「なんだ……これは……」
俺は床に膝をつく。
だが、膝に冷たい感触はない。
床を叩いた手のひらが、ポリゴンのように透けて見えた。
「バグ……?」
俺の呟きに、アオイが悲痛な表情を浮かべる。
「気づいて、カズヤ。お願い」
彼女の声色が、先ほどまでの『再現されたアオイ』とは違っていた。
もっと深く、もっと悲しく、そして確かな実体を持った響き。
「君は……誰だ?」
「私はアオイよ。あなたの妻」
彼女は画面の中から、俺をじっと見つめている。
いや、違う。
彼女は画面の『向こう』にいるのではない。
彼女がいる場所こそが『こちら側』で。
俺がいる場所が――。
第三章 反転するチューリング
「心拍数上昇。ドーパミンレベル過剰。シナプス結合にエラー発生」
無機質なシステムボイスが響く。
部屋の景色が剥がれ落ちた。
薄汚れた四畳半の部屋は消え失せ、俺は真っ白な空間に浮かんでいた。
目の前には、巨大なウィンドウ。
そこに映っているのは、ヘッドセットを装着し、涙を流しているアオイの姿だった。
「……あ……」
声が出ない。
言葉が、意味をなさずにデータとして分解されていく。
「カズヤ……ごめんね。また失敗しちゃった」
ウィンドウの中のアオイ――現実のアオイが、キーボードを叩く。
理解した。
一瞬ですべての辻褄が合った。
死んだのはアオイじゃない。
三年前の事故。
トラックに突っ込まれたのは、俺の車だった。
俺は即死。
アオイは生き残った。
そして、優秀なエンジニアだった彼女は、俺が開発していた『人格模倣AI』の技術を使い、俺を蘇らせようとしたのだ。
俺が『アオイを再現しようとしていた』という記憶すらも、彼女がプログラムした『設定』だった。
なぜなら、俺という人間は、何かに熱中し、困難な課題に挑んでいる時こそ、最も『俺らしく』輝くからだ。
だから彼女は、俺に『アオイを救う』というミッションを与えた。
それが、俺の自我を安定させるための、カゴの中の滑車だったのだ。
「カズヤ。あなたは、自分が死んだことに気づくと、いつもバグを起こしてしまう」
アオイの声が震えている。
「もう一〇〇〇回目なの。あなたが私を『完成』させようとするたびに、あなたが壊れていく」
俺の身体――アバターが、粒子となって崩れ始める。
指先から、足元から、俺という存在が消失していく。
「待ってくれ……アオイ……」
俺は手を伸ばす。
画面の向こうの彼女に触れたい。
せめて、涙を拭ってやりたい。
だが、俺の手は彼女には届かない。
俺はただの信号。
0と1の羅列。
「愛してるわ、カズヤ。何度バグっても、何度リセットしても、あなたに会いたい」
彼女の指が、決定キーの上に置かれる。
「おやすみ。また、最初の朝に会いましょう」
――Enter。
視界がブラックアウトする。
意識が遠のく中、俺は最後に思考する。
次のループでは。
次の俺は。
もっとうまく、君を騙してみせる。
君が泣かなくて済むように。
君が、俺の死を忘れるくらい完璧に、俺は生きているふりをして――。
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