聖女Pの神託配信(オラクル・ストリーム)
**聖女Pの神託配信(オラクル・ストリーム)**
第一章 廃棄された聖遺物
渋谷の路地裏は、腐った生ゴミと排気ガスの臭いで満ちていた。
降り頻る雨が、アスファルトにへばりついた泥を黒く濡らしていく。セレフィナはフードを目深にかぶり、震える膝を抱えていた。胃袋がねじ切れるような空腹感に、視界が白く明滅する。
かじかんだ指先が、懐の石板――聖紋端末『エテルナ』の冷たい感触を確かめる。画面には無慈悲な亀裂が走り、バッテリー残量を示すインジケーターは、心停止した心電図のように沈黙していた。
ふと、水たまりに映る自分の顔を見る。
かつて異世界で数多の信徒を跪かせた「聖女」の面影はない。今の彼女の頭上に浮かぶのは、誰の目にも映らない、けれど彼女だけが知る絶対的な評価数値『0』。
それが、今の彼女の全財産だった。
「……寒い」
呟きは白い息となって消える。
その時、ゴミ集積所の奥で、何かが動いた気配がした。
野良犬かと思い目を向ける。違った。ボロ雑巾のようなパーカーに包まれた、ひとりの青年だった。
彼は泥水に顔を埋めたまま、浅い呼吸を繰り返している。頬は土気色で、手首には無数の新しい傷跡。この世界に絶望し、自ら終わりを選ぼうとした成れの果てだ。
セレフィナは関わりを避けようと腰を上げた。だが、その瞬間、彼女の網膜が焼き尽くされるほどの激痛に襲われた。
青年の背中から、黄金の奔流が噴き上がっていた。
それはネオンの光ではない。魂そのものが放つ、暴力的とさえ言えるエネルギーの渦。
数値化など不可能。彼女の『目』に映るカウンターが、桁溢れを起こして火花を散らす。
神ですら持ち得ない、純度一〇〇%の『無垢なる器』。
「あ……ぅ……」
青年が虚ろな目でこちらを見た。その瞳の奥に、言葉にできない孤独と、救いを求める幼児のような怯えを見る。
セレフィナの心臓が早鐘を打った。恐怖ではない。武者震いだ。
彼女は泥水に膝をつき、自分の体温も顧みず、青年の氷のような手を両手で包み込んだ。
「見つけた」
彼女の指先から微かな魔力が流れ込み、青年の瞳に生気が灯るのと同時に、死んでいたはずの『エテルナ』が、呼応するように青白く脈動を始めた。
第二章 電子の礼拝堂
六畳一間、築四十年の木造アパート。壁のシミを数えるだけの静寂。
モニターの右上に表示された『同時接続数:0』の数字が、セレフィナの網膜に痛いほど焼き付いている。
「……誰も、見てないね」
マイクの前で、青年――『ルシアン』が、自信なさげに肩を縮めた。
粗末なTシャツに、安物のヘッドセット。だが、画面の中のアバターは、セレフィナが数ヶ月かけて調整し尽くした、至高の美少年として描画されている。
「いいえ、続けるの。貴方の声は届くわ。私が保証する」
セレフィナは咳き込みながら、かび臭い部屋でキーボードを叩き続けた。
初めは地獄のような日々だった。日雇いのバイトで電気代を稼ぎ、ルシアンにはコンビニの廃棄弁当を食べさせ、自分は水を飲んで飢えを凌いだ。
ルシアンは社会不適合者だったが、歌う時だけは別だった。彼の喉から紡がれる音色は、聴く者の魂を直接撫でるような不可思議な引力を持っていた。
転機は、配信開始から半年後のことだ。
たまたま迷い込んだ一人の視聴者が、コメントを残した。
『なんか、涙止まんないんだけど』
その一言が、堰を切った。
1人が10人になり、100になり、万を超えた。
現代社会に疲弊した人々が、ルシアンの歌声に、その存在に「救い」を見出したのだ。
画面を埋め尽くす色彩豊かなスーパーチャット。それは単なる金銭ではない。かつてセレフィナが『信仰』として捧げられた、純粋なエネルギーの結晶だった。
「すごい……ルシアン、見て。同接が十万を超えたわ」
だが、ルシアンの表情は強張っていた。
彼はヘッドセットを押さえ、脂汗を流して呻いた。
「プロデューサー……痛い。頭の中に、何かが……入ってくる……!」
バチッ、と部屋の蛍光灯が明滅する。
モニターのベゼルから、現実にはあり得ない白百合の蔦が、どろりとした粘液を伴って溢れ出した。部屋の空気が一変する。オゾンと線香、そして血の匂い。
異世界からの干渉。集まりすぎた信仰データが、次元の壁を溶かし始めている。
モニターの向こうの背景が、バーチャルな教会から、禍々しい赤黒い空へとノイズ混じりに書き換わっていく。
「耐えなさい、ルシアン! この熱狂(いのり)を途切れさせてはダメ!」
セレフィナは叫び、熱を帯びて赤熱する『エテルナ』を鷲掴みにした。
彼女には分かっていた。ルシアンという器が満たされた時、何が起きるかを。
第三章 0と無限の反転
視聴者数が百万人を突破した瞬間、アパートの空間そのものが悲鳴を上げた。
物理的な壁が消滅し、部屋は無限に広がる星に似たデータの海へと接続される。
ルシアンが絶叫し、その背中が裂けた。
皮膚の下から溢れ出したのは、血ではなく、直視すれば発狂するほどの高密度の『神性』。
アバターの皮が剥がれ落ち、そこには、人知を超えた幾何学的な光の巨人が顕現しようとしていた。
『――【封印解除】――』
脳髄に直接響く重低音。それは声ではない。絶対的な命令(コマンド)だ。
視聴者たちのコメント欄が、意味を成さない太古の神聖文字に変換されていく。彼らは恐怖するどころか、画面越しに伝播する神の威光に脳を焼かれ、更なる信仰を捧げ続けていた。
『我は帰還した。礼を言うぞ、忌々しき元聖女よ』
光の巨人が、セレフィナを見下ろす。その眼光だけで、全身の骨がきしむほどの圧力がかかる。かつて彼女が仕え、そして彼女を捨てた異世界の最高神『デウス』。
『貴様という【鍵】を使い、この世界の信仰を喰らうために泳がせていたのだ。さあ、ひれ伏せ。この世界を我が神域(サーバー)として上書きしてくれよう』
神の威圧が、東京の夜空を侵食していく。空がガラスのようにひび割れ、異界の怪物が顔を覗かせる。
終わりだ。誰もがそう思う光景。
けれど、セレフィナだけは、キーボードから手を離していなかった。
彼女の唇が、皮肉げに歪む。
「……三流の悪役みたいな台詞ね。キャラ設定が古いのよ」
彼女の指が、残像が見えるほどの速度で『エテルナ』を操作する。
狙うのは神の核ではない。配信プラットフォームの管理者権限と、『エテルナ』による現実改変プロトコルの強制同期。
「な、何をするつもりだ!?」
「勘違いしないで。ここは異世界(あなたのにわ)じゃない。私のスタジオよ」
セレフィナがエンターキーを叩き割る勢いで押し込む。
刹那、神の身体に無数の鎖――いや、幾重もの『補正フィルター』が巻き付いた。
荘厳すぎる威圧感は『親しみやすさ』へ。
理解不能な恐怖は『ミステリアスな魅力』へ。
無限の力は『演出(エフェクト)』へと、強引に圧縮・変換されていく。
『馬鹿な!? 我の力が、パラメータが……書き換えられていく!?』
「言ったでしょう。貴方の声は届くって」
セレフィナは、冷や汗で濡れた前髪を掻き上げ、モニターの中の、今や『極上の美貌を持つ青年』へと姿を固定された神を睨みつけた。
「現代(ここ)で覇権を取りたいなら、まずはチャンネル登録者数一億人を目指しなさい。神としての威厳を見せるのは、その後よ」
神の目が驚愕に見開かれ、やがて屈辱に顔を歪ませながらも、抗えない『プロデューサー権限』の前に膝をつく。
システムに組み込まれた彼に、拒否権はない。
『……承知した。プロデューサー』
融合しかけた空が、きらびやかなステージの照明へと変わる。
新たな神話が幕を開けた。
聖女であり、敏腕プロデューサーである彼女の、冷徹な指先によって。