虚飾の聖域、炎上の夜明け
第一章 砂糖菓子の地獄
鼻孔を犯すのは、脳が蕩けるようなバニラの香りだ。
石畳は磨き抜かれた飴細工のように輝き、空には綿菓子のような雲が浮かぶ。だが、灰音ジンの胃袋は、ここ数日ずっと鉛を呑み込んだように重かった。
目の前のオープンテラスで、恰幅の良い商人が昼食をとっている。
「ああ、なんと芳醇な脂だ。聖女様の恵みよ」
商人は恍惚とした表情で、ナイフとフォークを動かした。皿の上に乗っているものを、彼は「極上のステーキ」だと認識している。
ジンの左眼が疼く。視界の端でノイズが走り、世界にかかった厚化粧が剥がれ落ちる。
そこに在るのは、ステーキではない。数日前に死んだと思しき、ドブネズミの巨大な死骸だ。
商人がナイフを入れるたび、ブジュリ、と腹が裂け、中から白く肥え太ったウジ虫が溢れ出す。だが商人の目には、それが「とろけるような肉汁」に見えているのだ。彼はウジの塊をフォークで掬い、大きく口を開けて放り込んだ。
咀嚼音。プチ、プチ、グチュリ。
未消化の汚物が口の端から垂れるが、商人は舌なめずりをしてそれを拭う。
「……ウッ」
ジンは口元を押さえ、路地裏へと駆け込んだ。胃液が喉までせり上がる。
ポケットからスマートフォンを取り出した。画面の亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、右上のバッテリー表示は、今にも途切れそうな赤い極細の線一本を残すのみとなっていた。
虫の息のようなその赤い光だけが、ここが狂人の檻であることをジンに教えてくれる唯一の味方だった。
路地裏を抜けると、広場に出た。
そこでは、着飾った貴婦人が優雅に歩を進めていた。彼女の進行方向には、片足を失い、地面を這いずり回る男がいる。
男は泥水に顔を突っ込みながら、乾いた音を立てて何かを訴えていた。喉が潰れ、言葉になっていない。ただの絶望の咆哮だ。
だが、貴婦人は微笑んだまま、男の背中を「踏んだ」。
ピンヒールが男の脊椎に食い込む。男がビクリと痙攣し、白目を剥く。
貴婦人は気づかない。彼女の脳内では、そこには美しい花壇があり、彼女は可憐な花を愛でながら小径を歩いていることになっているのだろう。靴底にべっとりと付着した男の血肉さえ、彼女には花弁の色素に見えているのだ。
ジンはスマートフォンのカメラを起動した。
レンズ越しに見る世界だけが、真実を映し出す。『真実の眼』を持つ彼の視覚とリンクし、欺瞞のフィルターを食い破る。
画面の中で、踏みつけられた男の姿が点滅していた。
この世界にとって、苦痛はバグだ。不幸はエラーだ。だからシステムが修正をかけ、男の存在そのものを透明化し、消去しようとしている。
「……撮れ高は十分だ」
ジンは乾いた唇を歪めた。怒りではない。もっと冷たく、暗い情動。
かつて愛した女が、「あなたのため」と微笑みながら浮気を重ねていた夜。あの時感じた、内臓を素手で掻き回されるような感覚が蘇る。
嘘で塗り固められた平和など、汚物まみれの地獄よりタチが悪い。
第二章 ノイズまみれの謁見
王城の玉座の間は、吐き気を催すほどの聖性に満ちていた。
最奥に座る聖女エルミナ。彼女を中心に、世界を歪める甘い毒が放射されている。
絹糸のような銀髪、陶磁器のような肌。謁見に訪れた騎士や神官たちは、彼女を一目見るだけで涙を流し、膝をつく。
だが、ジンの眼には、その「発生源」が見えていた。
少女の背中から、無数の脈動する管が生えている。
肉色の、ぬらぬらと濡れた太い血管のようなパイプ。それらは玉座を貫通し、床下へ、そして王都全体の地下へと根を張っていた。
ドクン、ドクン。
管が波打つたびに、人々の思考が吸い上げられていくのが分かる。苦しみ、悲しみ、疑問。それら「不純物」を聖女というフィルターで濾過し、脳を麻痺させる「幸福」という名の排泄物を世界に還流させるシステム。
「異界の方ですね」
エルミナが微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無垢で、あまりにも残酷だった。
彼女は玉座を降り、ジンへと歩み寄る。背中の管がずるずると床を這い、粘液の跡を残す。周囲の人間にはそれが見えていない。
「あなたの心は、傷だらけです。真実が見えるというのは、それほどまでに辛いことなのですね」
エルミナがそっと手を伸ばし、ジンの頬に触れた。指先は氷のように冷たい。
「私なら、治してあげられます」
甘い囁きが、鼓膜ではなく脳髄に直接響く。
「あの時のことも。……信じていた恋人に裏切られた、あの雨の日の記憶も」
ジンの心臓が跳ねた。
なぜ、それを。
「忘れましょう? 痛みは不要なものです。私が消してあげます。そうすれば、あなたはもう二度と、夜中に叫びながら目覚めることもない」
誘惑は、暴力的なまでに甘美だった。
この地獄のような記憶が消える。嘘を見抜く呪われた眼が閉ざされる。あの商人のように、腐肉をステーキだと信じて笑って死ねるなら、それはどれほど幸福だろうか。
ジンの手が震える。スマートフォンを取り落としそうになる。
だがその時、ズキリと胸の古傷が痛んだ。
その痛みだけが、彼が「灰音ジン」であるという証明だった。痛みを消すということは、自分を殺すということだ。
「……お断りだ」
ジンは歯を食いしばり、口の中に鉄の味を感じながら言った。
「痛みがあるから、俺は立っていられる。傷跡があるから、過去を否定せずに済むんだよ」
「なぜ? 痛いのは嫌でしょう?」
エルミナは心底不思議そうに首を傾げた。彼女には「悪意」がない。だからこそ、対話は不可能だ。
「お前がやってるのは救済じゃない。麻酔で眠らせて、少しずつ殺してるだけだ」
ジンはスマートフォンを構えた。バッテリー表示が赤く点滅し、最期の警告を発している。
彼は画面をスワイプし、デバイスの外部出力端子を露出させた。
「見せてやるよ。お前が隠している、この世界の素顔をな」
ジンは一足飛びに距離を詰めると、聖女の背後に回り込んだ。
「きゃっ!?」
彼は躊躇なく、露出した端子を、エルミナの背中から生える太い血管の一つに突き刺した。
ブシュッ!
鮮血のような液体が噴き出し、ジンの顔にかかる。
「痛い! なに、これ、痛いッ!」
聖女が絶叫する。彼女が初めて知覚する「痛み」。
「暴れるな、データのアップロード中だ」
ジンは暴れる聖女を押さえつけ、端子をさらに深く抉じ入れた。肉と機械が融合し、火花が散る。スマートフォンの『真実の眼』が捉えた映像データが、聖女の神経網を通じて、この世界を覆う魔力回路へと逆流していく。
第三章 世界を焼く炎
ゴォッ、と大気が唸った。
王城の天井が、いや、空そのものがノイズに侵食されていく。
聖女の悲鳴がマイクとなり、都市全域のスピーカーとなる。
空に映し出されたのは、美しいホログラムではない。ジンの眼が捉え続けてきた、生々しい現実のアーカイブだ。
ウジの湧いた食事。
汚泥にまみれて死んでいく子供たち。
そして、醜悪な肉塊の管に繋がれ、人々から搾取し続ける怪物の姿をした聖女。
王都を覆っていた「認知の膜」が、バリバリと音を立てて引き裂かれた。
瞬間、世界は反転した。
広場にいた人々は、自分たちが口にしていたものの味に気づいた。
「お、げぇぇッ!」
「なんだこれ、腐ってる! 臭い、臭い!」
あちこちで嘔吐の音が響く。自分の着ている服がボロ布だと気づき、隣人の顔色が土気色だと気づき、パニックが伝播する。
貴婦人は足元の感触に目を落とし、自分が踏み砕いた人間の頭部を見て、引きつけを起こして泡を吹いた。
それは、地獄の釜の蓋が開いた光景だった。
だが、人々は呆然とするだけでは終わらなかった。
騙されていたという事実。自分たちが汚物を貪り、同胞を踏みつけにして笑っていたという耐え難い屈辱。
それらの感情は、行き場を求めて急速に熱を帯びる。
「……誰だ、こんなことをしたのは!」
広場の誰かが叫んだ。
視線が一斉に、王城のバルコニーへと向けられる。そこに立っているのは、返り血を浴び、壊れたスマートフォンを握りしめた男。
「あいつだ! あいつが魔法を解いたんだ!」
「元に戻せ! 夢を返せ!」
「殺せ! あんな悪魔、生かしておくな!」
感謝などない。あるのは、甘い夢から無理やり叩き起こされた幼児のような癇癪と、現実を突きつけられたことへの逆恨みだけだ。
石が投げられる。火炎瓶が放たれる。
暴徒と化した市民が、王城の門を押し破ろうと殺到する。
バルコニーの上で、ジンは飛んできた石礫を額に受けた。
ツーと赤い血がこめかみを伝う。痛い。ズキズキと脈打つ痛み。
だが、ジンは口の端を吊り上げ、ニヤリと笑った。
背後では、管を引き抜かれたエルミナが、激痛と恐怖に震えながら小さくなっている。彼女もまた、ただの無力な少女に戻ったのだ。
「聞こえるか、エルミナ」
ジンは眼下に広がる、松明の炎と殺意の波を見下ろした。
「あれが人間の声だ。綺麗事だけの賛美歌より、ずっと生々しくて、力強いだろう?」
市民たちは泣き叫び、怒り狂い、互いに罵り合っている。
だが、その瞳にはもう、虚ろな光はない。彼らは自分の目で現実を見て、自分の感情で誰かを憎んでいる。
世界は炎上した。
文字通り、物理的にも、社会的にも。
もう二度と、あの穏やかで狂った楽園には戻れない。
ジンは手の中のスマートフォンを見た。画面は完全に砕け散り、あの赤い光も消えている。ここから元の世界に帰る術も、もうないかもしれない。
だが、不思議と後悔はなかった。
憎悪の視線を一身に浴びながら、ジンはバルコニーの手すりに足をかけた。
最高の気分だ。これこそが、彼が生きるべき場所だ。
「さて」
ジンは燃え盛る王都に向かって、高らかに両手を広げた。
「ここからが本当の地獄だ。……楽しもうぜ、共犯者ども」