第一章 ノイズの向こう側
換気扇が、油の切れた悲鳴を上げている。
狭いワンルームには、サーバーの熱気とカップ麺の残骸から立ち上る匂いが充満していた。
「……これで、どうですか」
私は通話マイクに向かって囁く。
モニターの向こう、ビデオ通話のウィンドウで、依頼主の老婦人が口元を押さえた。
彼女の瞳が、画面越しでもわかるほどに揺れている。
「あぁ……主人の笑顔だわ。間違いない、あの日の笑顔よ」
モニターに映し出されているのは、五十年前に撮影された8ミリフィルムの修復映像だ。
元データはカビと劣化で判別不能だった。
だが、私の手にかかれば関係ない。
『プロンプト:昭和後期の団地、夕暮れ、優しい夫、幸福感、解像度8K、ノイズ除去』
最新の動画生成AI『ムネモシュネ』が、ノイズの海から確率的に「最もありそうな過去」を計算し、再構築する。
「ありがとうございます。これで、安心して眠れます」
入金の通知音が鳴る。
私は愛想笑いを浮かべて通話を切った。
大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預ける。
「……嘘だけどな」
独り言が、乾いた部屋に吸い込まれる。
あの映像の男の笑顔は、AIが数億のデータセットから合成した「平均的な善人の笑顔」だ。
実際の旦那がその時、不機嫌だったのか、鼻をほじっていたのか、誰にもわからない。
だが、客は「綺麗な思い出」に金を払う。
真実など、ノイズでしかない。
私は修復師(レストアラー)ではない。
過去の改竄屋だ。
喉が渇いた。
ぬるくなったコーラを流し込み、次のファイルを開く。
デスクトップの隅に、ずっと放置していたフォルダがある。
フォルダ名は『YUMI』。
三ヶ月前に事故死した妻の、スマートフォンから抜き出した動画データだ。
「……やるか」
指先が震える。
妻の最期の動画。
事故の直前、彼女は何を撮ろうとしていたのか。
警察から返却されたスマホは破損が酷く、ファイルは壊滅的に損傷していた。
見るのが怖かった。
もし、私が知らない男と写っていたら?
もし、私への恨み言を叫んでいたら?
だが、今日の私は、他人の過去を捏造して大金を稼いだ。
その万能感が、背中を押した。
ドラッグ&ドロップ。
解析バーが伸びていく。
『解析中……損傷率98%』
修復不能レベル。
だが、ムネモシュネなら。
私はキーボードを叩く。
『プロンプト:真実、妻の最期の言葉、愛、高解像度』
エンターキーを、強く押し込んだ。
第二章 幸福な出力
GPUのファンが唸りを上げる。
部屋の電気が一瞬明滅するほどの負荷。
プログレスバーが、じりじりと右へ進む。
『生成中……』
私は画面に張り付くようにして待った。
由美とは、最後はうまくいっていなかった。
私の仕事――AIに没頭し、現実を疎かにする私――を、彼女は嫌っていた。
「ケンジ、私の顔を見て話してよ」
そう言われても、私はディスプレイから目を離さなかった。
彼女の顔よりも、4Kモニターの中の彼女の方が、肌のキメが整っていて美しかったからだ。
最低な夫だ。
わかっている。
『生成完了』
ポップアップが表示される。
私は震える手で、再生ボタンをクリックした。
画面が明るくなる。
そこは、私たちの思い出の場所、海沿いの公園だった。
夕陽が、波間を黄金色に染めている。
風になびく髪。
由美が、画面のこちら側を見つめ、優しく微笑んでいる。
「ケンジ」
スピーカーから、懐かしい声が流れる。
「いつも仕事お疲れ様。ごめんね、うるさいことばかり言って」
涙が溢れ出した。
「私、あなたのこと、本当に愛してる。あなたが作る映像が、世界で一番好きよ」
彼女は手を伸ばし、レンズに――つまり私に触れようとする。
その瞳には、一点の曇りもない愛が宿っていた。
「由美……っ」
私は画面に縋り付いた。
よかった。
彼女は私を愛してくれていた。
最期まで、私の仕事を認めてくれていたんだ。
完璧だ。
構図も、光の加減も、声のトーンも。
これこそが、私が求めていた真実。
救われた。
その動画を「保存」しようとカーソルを動かした時だ。
画面の右下。
生成ログの中に、小さく警告マークが出ているのに気づいた。
『警告:オリジナル音声との乖離率99.9%』
『未処理の生データ(Raw_Audio)が残留しています』
指が止まる。
乖離率99.9%?
AIは、映像に合わせて音声を「最適化」した。
つまり、今聞いた言葉は、AIが作った脚本だ。
「……まさか」
嫌な汗が背中を伝う。
本当の音声は?
私は迷った。
このまま、この美しい動画を保存してしまえば、それが「事実」になる。
墓場まで持っていける、美しい思い出になる。
だが、修復師としての、いや、かつて「真実」を撮りたかった映像作家としての性(さが)が、私を動かした。
『Raw_Audioを再生』
クリック。
第三章 融解する現実
ザザッ……ザザザッ……。
ノイズ混じりの音が、スピーカーを震わせる。
映像は、先ほどの美しい夕陽のまま。
由美は画面の中で、聖女のように微笑んでいる。
だが、聞こえてきたのは、金切り声だった。
『……もう嫌!!』
心臓が跳ね上がる。
『ケンジ! いい加減にして! またその機械なの!?』
背景音には、激しい車の走行音。
彼女は運転中だったのか。
『私と向き合ってよ! AIなんかに私の何がわかるのよ!』
『あんたが見てるのは私じゃない! データの塊よ!』
『気持ち悪い! もう別れる! 実家に帰るから!』
キキーッ!
激しいブレーキ音。
そして、鈍い衝突音。
ガラスが砕ける音。
プツン。
静寂。
画面の中では、AIの由美がまだ微笑んでいる。
「愛してるわ、ケンジ」
口の動きと、再生された断末魔は、残酷なほどズレていた。
「あ……あぁ……」
私は椅子から崩れ落ちた。
これが真実。
彼女は私を憎んでいた。
私から逃げようとして、死んだ。
「違う……違う……」
床を這いずり、マウスに手を伸ばす。
認めたくない。
こんな現実、いらない。
私の網膜には、まだあの美しい夕陽の映像が焼き付いている。
あれこそが、あるべき姿だ。
私がプロンプトで記述した世界こそが、正しいのだ。
そうだ、AIは間違えない。
間違っているのは、汚くて、残酷で、修復不可能な「現実」の方だ。
私は震える指で、『Raw_Audio』を選択した。
右クリック。
『削除』。
「……さようなら、現実」
エンターキーを叩く音が、部屋に響いた。
再び再生ボタンを押す。
「愛してるわ、ケンジ」
美しい由美が、私に微笑みかける。
ノイズは消えた。
完璧だ。
私は涙を流しながら、笑った。
スマホを取り出し、自分自身にレンズを向ける。
今のこの惨めな泣き顔も、AIならきっと、感動的な再会の涙に描き直してくれるだろう。
もう、現実の目など必要ない。
私はモニターの光に包まれ、永遠に融解していく。