第一章: 骨の鍵、肉の錠
湿り気を帯びた地下の空気。肺胞の裏側にカビの胞子を植え付けていくような、不快な圧迫感。
ダンジョン特有の、死と腐敗が煮凝りになった臭気が鼻腔を撫でる。
暗闇に浮かぶのは、携帯用照明の蒼白い光だけではない。無数のコメントが流れるホログラムの滝、それが薄汚れた石壁を極彩色に染め上げていた。
光の中央に立つ、一人の男。
色素が抜け落ちたような灰色の髪は、血と泥で重く固まり、額に張り付く。
纏うは、かつて白衣だったボロ布。継ぎ接ぎだらけの皮膚が、裂けた布の隙間から覗いている。
虚ろな黒目。そこに理性の光はなく、あるのは深淵のような静寂のみ。
戌井レンは、まるでピクニックに来たかのように微笑んだ。
戌井レン「……さて、行き止まりですねぇ」
レンの視線の先、鎮座するのは巨大な骨で構成された扉。鍵穴など存在しない。
あるのは、人間の腕一本分がすっぽりと収まりそうな、飢えた獣の口のような窪みだけ。
御子柴ミナ「先輩、同接三万超えたっす。みんな『どうすんのこれ』って」
闇に溶け込む黒のゴシックドレスを纏った少女、御子柴ミナ。小柄な身体には不釣り合いな巨大な4Kカメラを構える。
ヘッドドレスのレースが微かに揺れる。片目を隠した前髪の奥、彼女の瞳が爬虫類のように細められた。
戌井レン「ああ、心配ありませんよ。鍵なら、ここにありますから」
レンは右手に持っていた無骨な斧を、躊躇いなく振り上げる。
狙うは、自らの左腕。
《配信ステータス:LIVE》
視聴者数:32,481人
コメント:
「は? 嘘だろ」
「やめろやめろやめろ」
「レンくん逃げて!!」
「まさか」
グチャリ。
肉が爆ぜる音が、密閉された空間に反響する。
斧の刃が骨に食い込み、腱を弾き飛ばす湿った音。それがマイクを通し、数万人の鼓膜を犯していく。
鮮血がスプリンクラーのように噴き出し、ミナのカメラレンズに赤い星屑を散らした。
ボロ雑巾のように石畳へ落下する、レンの左腕。
戌井レン「あぁ……っ、痛い、ですねぇ……素晴らしい熱だ」
彼は切断面を愛おしそうに見つめる。
白い骨が露出した断面から溢れる血液、それが白衣をさらに赤く染め上げていく様。
苦悶ではない。頬を染め、吐息を漏らすその表情は、恋人に触れられた乙女のような恍惚そのもの。
御子柴ミナ「先輩、最高っす。今の断面、めっちゃ映(バ)えてる。スパチャ止まんないっすよ」
戌井レン「それは何よりです。……では、開けましょうか」
レンは落ちた自分の左腕を拾い上げると、それを無造作に扉の窪みへ突っ込んだ。
骨と骨が噛み合う乾いた音が響く。
扉が、ギギギと悲鳴を上げて開き始めた。
痛覚遮断スキル? そんな無粋なものは使いませんよ。この痛みこそが、僕が生ている唯一の証なんですから。
松明を掲げ、断面を焼き焦がして止血するレン。
焼ける肉の匂いが、甘く、濃厚に漂う。
視聴者たちはまだ知らない。
この狂気的な自傷が、彼にとっての「救済」であり、日常的な「オナニー」に過ぎないことを。
扉の向こうに広がる闇よりも、この男の心の方が遥かに深く、昏い。
◇◇◇
第二章: 聖者の食卓
ダンジョンの中層、「嘆きの回廊」。
そこには、腹部をモンスターの爪でえぐられ、臓物をこぼしかけている冒険者が横たわっていた。
瀕死の男を囲むように立つ、レンとミナ。
戌井レン「おやおや、これは酷い。痛いでしょう、苦しいでしょう」
レンは男の血だまりに膝をつき、汚れることも厭わずにその手を握る。
カメラがその「聖なる光景」をクロースアップで捉えた。
「た、助け……て……金なら、払う……」
戌井レン「お金なんて後でいいんです。さあ、僕がその痛みを引き受けましょう。《受難(パッション)》」
《スキル発動:受難(パッション)》
閃光が走る。
次の瞬間、冒険者の腹の傷が塞がり、代わりにレンの腹部が弾け飛んだ。
舞う血飛沫。レンは激痛に顔を歪めるが、その口元は三日月のように吊り上がっている。
戌井レン「ぐ、あぁ……ッ! 新鮮な痛みだ……! あなたの苦しみ、確かに頂きましたよぉ……ッ!」
冒険者は奇跡に涙し、視聴者は「聖人レン!」とチャット欄を埋め尽くす。
しかし、カメラが止まった瞬間、空気は凍りついた。
御子柴ミナ「はい、カット。お疲れっしたー」
ミナはだるそうにカメラを下ろし、懐から羊皮紙の束を取り出す。
レンは傷口を手で押さえながら、先ほどまでの慈愛に満ちた表情を消し去り、冷徹な事務作業員の顔で立ち上がった。
戌井レン「さて、治療費の請求ですね。命の値段は高いですよ? 現金一括、もしくは……」
「え、いや、そんな……話が違う……」
レンは血濡れの手で冒険者の顎を掴み、無理やり上を向かせる。
その瞳の奥に宿る、商品を見るような冷ややかな値踏みの色。
戌井レン「払えないなら、その『眼球』と『腎臓』で手を打ちましょうか。次の配信の素材にちょうどいい」
ガシャン。
ミナが背後の巨大なケースを開く。そこには、ホルマリン漬けにされた「元・冒険者たち」の一部が、宝石のように並べられていた。
御子柴ミナ「先輩、この人の指、形いいっすね。私のコレクションに一本もらっていーっすか?」
戌井レン「ええ、構いませんよ。どうせ再生するんですから、無駄なく使いましょう」
救済の美談の裏で回る、搾取の歯車。
レンにとって、他者は「痛みの提供者」か「素材」でしかない。
その倫理観の欠落こそが、この狂った世界で最も効率的な生存戦略だった。
冒険者の絶望的な悲鳴が響くが、防音結界の中では誰の耳にも届かない。
◇◇◇
第三章: 拍動する呪い
その男は、正義を具現化したような姿で現れた。
獅子堂レオ。銀の鎧は一点の曇りもなく、碧眼はレンの薄汚れた白衣を軽蔑の色で射抜く。
獅子堂レオ「貴様のような外道、冒険者の風上にも置けん! 告発させてもらうぞ、戌井レン!」
トップランカーである彼の剣は速い。
しかし、レンは戦わない。ただ、笑って「罠」を踏んだ。
ダンジョンの床が抜け、二人はモンスターの巣窟である最下層の空洞へと落下する。
レオは即座に受け身を取るが、レンは岩肌に身体を打ち付け、全身の骨を砕きながら底へ落ちた。
戌井レン「あぐッ、はぁ……レオさん、無事、ですか……?」
獅子堂レオ「貴様……なぜ身を呈して……?」
レオは困惑した。レンが自分を庇ってクッションになったように見えたからだ。
だが、それは誤解。レンはただ、より「劇的」な絵を撮りたかっただけ。
致命傷を負ったレンの胸部が大きく陥没している。心臓が潰れているのは明白だった。
御子柴ミナ「先輩! 心拍停止! マジでヤバいっすよこれ!」
ミナの声が震える。だがカメラのアングルは完璧に、レンの「死に顔」と、無傷で立ち尽くすレオを捉えていた。
レンは震える手で、自らの胸をかきむしる。
戌井レン「レオさん……あなたは、生きて、真実を……伝えてください……」
獅子堂レオ「待て、死ぬな! 俺は貴様を裁くために……!」
戌井レン「いいえ、僕の心臓を……あげます」
レンの指が、肋骨をこじ開けた。
ブヂュウウゥゥッ!!
濡れた雑巾を絞るような音。レンは自らの胸郭から、まだ微かに脈打つ心臓を引きずり出した。
血管がブチブチと千切れ、熱い血がレオの銀の鎧にかかる。
その心臓は、毒々しい紫色に変色し、呪いの文様が浮かび上がっていた。
獅子堂レオ「な、何を……やめろぉぉぉ!!」
戌井レン「受け取ってください、僕の『命』です!!!」
レンはレオの鎧の隙間に指をねじ込み、強引に胸部を切り裂くと、自分の心臓をレオの体内へ叩き込んだ。
《強制移植》。
同意なき救済。
ドクンッ!!
レオの身体が弓なりに反る。
血管の中を、他人の、汚れた、狂った血が駆け巡る感覚。
脳髄が白く焼ける。
獅子堂レオ「あああああぁぁぁぁぁっ! 私の身体が……意識が、溶け……ッ!?」
戌井レン「適合しましたね。これで私たちは一心同体です」
心臓を失ったはずのレンが、何事もなかったかのように立ち上がる。
その胸の穴には、いつの間にかダンジョンの核(コア)の欠片が埋め込まれ、青白く明滅していた。
一方、レオは糸が切れた人形のように崩れ落ち、そしてゆっくりと顔を上げる。
その碧眼は、レンと同じ虚ろな黒色に染まっていた。
《強制従属完了》
ターゲット:獅子堂レオ
状態:傀儡(パペット)
獅子堂レオ「……レン様。ご命令を」
視聴者は「感動の自己犠牲」と「奇跡の生還」に涙し、過去最高額の投げ銭が画面を埋め尽くす。
正義の騎士は死んだ。
ここにいるのは、レンの狂気を体現する、頑丈な肉人形だけだ。
◇◇◇
第四章: 拡張する肉体、浸食する都市
地上。東京第3隔離居住区。
サイレンが鳴り響く中、街の巨大スクリーンにはレンの配信が映し出されていた。
戌井レン「皆さん、聞こえますか? この星の悲鳴が。素晴らしい音色だ」
レンの姿はもはや人とは呼べない。
右腕はダンジョンの壁面と同じ石質に変化し、背中からは血管のような触手が無数に伸びて、周囲の空間を侵食している。
痛みは彼にとって極上の蜜となり、ダンジョンの核と融合した脳は、破壊こそがエンターテインメントだと結論づけていた。
御子柴ミナ「先輩、背景ヤバいっす。空が割れてる」
レンの背後で、空間がガラスのように砕け、そこから異形のモンスターたちが雪崩のように溢れ出す。
「ダンジョン攻略」ではない。「ダンジョンの拡張」だ。
戌井レン「さあ、パーティの時間ですよぉぉぉ!!」
レンは自らの石化した指を引き千切ると、眼下の雑踏へ放り投げた。
ドォォォォォォンッ!!
指一本が着弾した瞬間、高層ビルがひしゃげ、爆炎が舞い上がる。
逃げ惑う人々。悲鳴と爆音が交響曲(シンフォニー)のように重なり合った。
レンはその光景を、特等席で眺めながら涙を流して笑う。
戌井レン「痛いでしょう!? 怖いでしょう!? それが生です! 死んだように生きる日常より、遥かに美しいじゃないですか!!」
獅子堂レオ「排除します」
かつての英雄レオが、大剣で避難民の退路を断つ。
その動きに躊躇いはない。レンの命令は絶対であり、彼の心臓が「殺せ」と脈打つたびに、レオの身体は快楽に震えるようになっていた。
チャット欄の速度が限界を超える。
「これCGだろ?」「マジで死人が出てるぞ」「警察なにやってんだ」「神だ」「世紀末キター」
恐怖と熱狂が入り混じる混沌。
レンはカメラのレンズに顔を近づける。
その瞳孔は、もはや人間のものではなく、渦巻く混沌の模様を描いていた。
戌井レン「ねぇ、モニターの前のあなた。……安全な場所で見てるつもりですか? あなたの部屋の床、もう『ダンジョン』になってますよ?」
ズズズ……
視聴者の部屋の床から、レンの血管と同じ触手が滲み出す。
画面越しの狂気が、現実を侵食し始めたのだ。
世界そのものが、レンという名の悪夢に飲み込まれようとしていた。
◇◇◇
第五章: 鮮血のカーテンコール
最深部。ダンジョンの王が座していた玉座の間。
そこには、肉塊と化した元・ダンジョンマスターの残骸が散らばっていた。
それを喰らい尽くしたレンが、新たな王として玉座に深く腰掛けている。
彼の身体は巨大化し、ダンジョンそのものと一体化していた。
壁面が呼吸するように脈打ち、天井からは粘液が滴る。
ミナだけが、変わらぬ姿でその傍らに立ち、恍惚とした表情でカメラを回し続けていた。
御子柴ミナ「先輩……いや、王様。画角、完璧っす。これが伝説のラスト配信っすね」
戌井レン「ええ、ミナさん。長い旅でしたねぇ」
レンの声は、空間そのものから響くような重低音に変質していた。
だが、その口調は相変わらず丁寧で、優しく、そして狂っている。
戌井レン「僕の一部になりたい人は、おいで。痛みも、苦しみも、全て僕の中で一つにしてあげますから」
ダンジョンの入り口から、無数の足音が響いてくる。
それは、レンに魅入られた狂信的なファンたちだった。
彼らは笑顔で、あるいは泣きながら、自らレンの触手に身体を差し出していく。
グチャッ、バキッ、ジュルリ。
レンの身体から伸びた無数の触手が、人々を抱擁し、締め上げ、そして融合していく。
骨が砕ける音と、愛の言葉が混ざり合う。
「レン様、レン様!」
「痛い、幸せ!」
人々はレンの肉体の一部となり、永遠に再生と破壊を繰り返す細胞の一つへと成り果てていく。
それは地獄絵図でありながら、宗教画のように冒涜的な美しさを放っていた。
獅子堂レオ「……侵入者、全て処理完了。私も、お側に」
レオもまた、自らの剣を捨て、レンの巨大な肉塊の中へと沈んでいく。
戌井レン「あぁ……満たされる。世界が、僕になっていく」
レンはカメラに向かって、血塗れの、しかしこの世で最も幸せそうな笑顔を向けた。
戌井レン「これで配信は終わりません。永遠に、この痛みを分かち合いましょうね。……高評価、忘れないでください?」
画面がブラックアウトする。
しかし、配信終了の通知は出ない。
真っ暗な画面の奥から、クチャクチャと何かを咀嚼する音と、楽しげな笑い声だけが、視聴者の耳元で永遠に続き始めた。
《SYSTEM ERROR: 配信を切断できません》
《SYSTEM ERROR: あなたの現在地は『戌井レンの胃袋』です》
あなたの部屋のドアが、ノックされた。
コン、コン、と。
骨で叩くような、乾いた音。