星屑の硝子、雨上がりの共鳴
第一章 硝子の境界線
網膜を灼くのは、雪片のように降り注ぐ賛辞の光だった。
七色に輝く粒子のひとつひとつが、私――ミスティア・レインの肌を甘く撫でていく。
「――今日も来てくれてありがとう。みんなの声、ちゃんと届いてるよ」
マイクに乗せた声は、蜂蜜を垂らしたように艶やかだ。
けれど、ヘッドマウントディスプレイに覆われた現実の頬は、乾ききっている。空調の効かない六畳間で、汗ばんだ樹脂製のコントローラーを握りしめる指先だけが、冷たく凍えていた。
『ミスティアの声を聞くと、明日も生きようって思える』
『仕事で失敗したけど、浄化された……ありがとう』
視界の隅でインジケーターが明滅する。
その青い輝きが強まるたび、胸の奥にじんわりとした温もりが広がる。まるで冷え切った身体を湯に浸したような、束の間の安らぎ。彼らの祈りが、私の輪郭を辛うじて繋ぎ止めている。
その時だ。
温かな湯が、瞬時にして氷水へと変わったのは。
『■■■……ウソ……ツキ……』
美しい光の旋律に、錆びた鉄を擦り合わせたような不協和音が混じる。
コメント欄を流れていた七色の星屑が、突如として赤黒い刃物へと変貌した。
『死ネ』『裏切リ者』『消エロ』
文字ではない。それは明確な殺意を孕んだ礫(つぶて)だった。
視聴者たちの悲鳴が、ノイズ混じりの耳鳴りとなって鼓膜を突き刺す。私の作り上げた硝子の城壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、破片がパラパラと零れ落ちる。
「大丈夫、怖がらないで」
私は震える指で、鼻梁にかかった「スターリー・グラス」のブリッジを押さえた。
星空を模したそのレンズ越しに、侵入者の正体を見る。
そこにいたのは、不定形の黒い靄などではなかった。
それは、鋭利な刃の集合体だった。かつて誰かがSNSに吐き捨てた罵詈雑言、根拠のない誹謗中傷、嘲笑の顔文字。それらが無数に結合し、巨大な鉈(なた)となって振り上げられている。
『忘レタノ? 雫……ボクたちの……約束……』
振り下ろされかけた刃の奥から響いたのは、機械音ではない。
記憶の底に沈めたはずの、あの夏の日のサイダーのように、痛いほど瑞々しい少年の声だった。
呼吸が止まる。
現実世界の薄暗い部屋で、私は椅子から転げ落ちた。肋骨が床にぶつかる鈍い音すら、遠く聞こえる。
「レン……?」
喉から漏れたのは、ミスティアの美声ではない。
何日も誰とも会話をしていない、雨宮雫の掠れた悲鳴だった。
第二章 瓦礫の庭園
強制的に切断されたモニターの黒い画面に、青ざめた自分の顔が映り込んでいる。
目の下には濃いクマがあり、髪は脂ぎって額に張り付いていた。これが、ミスティア・レインの正体。
私は膝を抱え、薄汚れた万年床にうずくまった。
鼻をつくのは、飲みかけのエナジードリンクの甘ったるい匂いと、カビ臭い湿気。ここが私の世界の全て。安全で、誰の視線にも晒されない、棺桶のような揺り籠。
机の上に、古びた眼鏡ケースが転がっている。
中に入っているのは、度数の入っていない伊達眼鏡。フレームにはめ込まれたレンズには、特殊な偏光フィルムが貼られ、光にかざすと星空のように煌めく。「スターリー・グラス」。
フラッシュバックする。
美術室特有の、油絵具とテレピン油の匂い。
七月の湿った風が、開け放たれた窓から吹き込んでいた。
「ねえ雫、見てよこれ」
レンは、炭酸の抜けたぬるいサイダーを片手に、画用紙に描かれた設計図を指差した。
爪の間には青い絵の具が入り込んでいた。
「この眼鏡をかければ、どんなに汚い現実も、綺麗な星空に変えられるんだ。僕たちの『アストラル・ガーデン』への鍵だよ」
炭酸が弾ける音が、やけに鮮明に鼓膜に残っている。
私たちは、誰にも否定されず、誰も傷つかない世界を作ろうとした。
レンがコードを書き、私が色を塗った。
けれど、世界は私たちの未熟な理想を許さなかった。
ある日突然鳴り止まなくなった通知音。スマートフォンの画面を埋め尽くす「盗作」の二文字。住所の特定。学校へのイタズラ電話。
レンの繊細な指先は、キーボードを叩くことを止め、震えることしかできなくなった。
『ごめん、雫。もう、星は見えないや』
そう言い残して、レンは消えた。
そして私は、部屋に鍵をかけ、現実を捨てて「ミスティア」という仮面を被った。
「あの刃は……レンの痛みなの……?」
私の逃避と、レンの絶望。それがネットの海で澱み、腐敗し、誰も触れられない凶器となって帰ってきた。
PCのファンが唸りを上げる。
ディスプレイの向こう側で、あの刃の塊が暴れている。私の城を、思い出の場所を、食い荒らしている。
『助ケテ……雫……痛イ……痛イヨ……』
スピーカーから漏れる声は、私を呼んでいるようにも、呪っているようにも聞こえた。
私は震える手で、現実のスターリー・グラスを握りしめる。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
逃げてはいけない。
今度こそ、私が彼の手を引かなければならない。
そのためには、「ミスティア」という美しい鎧を脱ぎ捨て、醜い「雨宮雫」として彼と対峙する必要がある。
「怖い……」
恐怖で胃液がせり上がる。
それでも、このままレンを化け物のままにしておくことの方が、死ぬよりも恐ろしかった。
第三章 星を継ぐもの
決意と共に、私は再び深淵へとダイブした。
いつもの煌びやかな城ではない。瓦礫と化した「アストラル・ガーデン」の廃墟。
暴風が吹き荒れている。
風の一筋一筋が、「キモい」「死ね」「無価値」という文字の形をして、私のアバターを切り裂いていく。
ドレスが裂け、光の粒子が血飛沫のように舞う。
痛い。
痛覚フィードバックが、バーチャルの痛みを脳への電気信号に変え、全身を焼くような激痛となって襲いかかる。
『ナゼ来タ! 見ルナ! ボクハ、コンナニ汚レテシマッタ!』
中心に佇む黒い影が絶叫した。
その身体には無数の刃が突き刺さっている。彼自身に向けられた悪意と、彼が世界に向けた憎悪が、棘となって全身を覆っていた。
「ごめんね、レン。私、ずっと耳を塞いでた」
私は一歩、また一歩と彼に近づく。
一歩進むたびに、ミスティアの美しい銀髪が剥がれ落ちる。
華やかなドレスがノイズに侵食され、消滅していく。
露わになるのは、ジャージ姿の、背中を丸めた、みすぼらしい私の姿。
「見ないで!」と叫びたい羞恥心が、喉元まで出かかった。
けれど、私は顔を上げた。
『ウアアアア! チガウ、オ前ハ、ミスティア・レインダロ!? ソンナ醜イ姿、見タクナイ!』
影が腕を振り回す。巨大な「否定」の文字が、私の肩を深々と抉った。
現実の私の肉体もまた、激痛に跳ねる。
それでも、足は止めない。
「違うよ。私はミスティアじゃない。私は雨宮雫。あなたの共犯者だよ」
私は血の滲むような思いで、現実と仮想、双方の手でスターリー・グラスを構えた。
システム的な解決なんてない。魔法のようなコマンドもない。
あるのは、私という人間の「記憶」と「視覚」だけ。
私は、暴れ狂う影の懐に飛び込んだ。
全身を刃に刻まれる感触。
それでも、彼を抱きしめるようにして、その顔のない顔に、スターリー・グラスを押し当てる。
「見ようよ、レン。私たちが本当に見たかったものを」
叫びと共に、私は脳内の全リソースをグラスに注ぎ込んだ。
視覚情報の強制上書き。
罵詈雑言の刃ではない。私が見てきた、彼との記憶。
美術室の西日。絵の具の匂い。微温いサイダー。
そして、彼がどれだけ世界を美しく描こうとしていたかという、私だけが知る真実。
情報の奔流が、血管を焼き切る勢いで彼の中へと流れ込む。
『……っ、あ……』
影の動きが止まった。
グラスのレンズ越しに、世界の色が変わる。
彼を刺していた無数の言葉の刃が、ガラス細工のように砕け散り、キラキラと輝く星屑へと変わっていく。
廃墟の空に、満天の星空が広がった。かつて二人が夢見た、あの天井のプラネタリウムのように。
黒い靄が晴れ、その下から、懐かしい少年の顔が現れる。
彼は泣いていた。
自分の手を見つめ、そして、私のボロボロのジャージ姿を見て、くしゃりと顔を歪めた。
「……雫、その格好。全然イケてないよ」
「うるさいな。レンだって、泣き顔ひどいよ」
私たちは笑い合った。
次の瞬間、世界がまばゆい光に包まれる。
ミスティア・レインという偶像が消滅し、ただの二つの魂が、星の海へと溶けていった。
第四章 雨上がりの珈琲店
ドアに取り付けたカウベルが、カランコロンと硬質な音を立てた。
「いらっしゃいませ」
私は布巾でカウンターを拭きながら、顔を上げた。
かつては直視することすらできなかった「他人」の顔。今はまだ、少しだけ心臓が早鐘を打つけれど、もう視線は逸らさない。
「ブレンドを一つ。あと、このチーズケーキを」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
古びた喫茶店の片隅。
エスプレッソマシンの蒸気がシューッと音を立て、深く煎った豆の香ばしい匂いが店内に広がる。
カップにお湯を注ぎながら、私はふと、レジ横の飾り棚に目をやった。
そこには、レンズの割れた伊達眼鏡が静かに置かれている。
あれから、私はネットの海を去った。ミスティアは伝説となり、私は小さな世界で、温かい飲み物を出すことで誰かの心を癒やすことを選んだ。
「お待たせしました」
客席にコーヒーを運ぶ。疲れた顔をしたサラリーマンが、一口飲んでふぅと息を吐き、微かに口角を上げた。
その小さな変化を見届けるだけで、今の私には十分だった。
夕暮れ時、通り雨が上がり、西日が濡れたアスファルトを黄金色に染め始めた頃。
再びドアが開いた。
逆光の中に、背の高い影が立っている。
「いらっしゃいませ」
私は反射的に声をかけ――そして、布巾を持つ手が止まった。
その青年は、白杖をつき、ゆっくりとした足取りで店内に入ってきた。
色素の薄い髪。理知的な顔立ち。記憶の中の少年とは違う、大人の男性の姿。
けれど、その纏っている空気の静けさが、時を超えて重なった。
彼は見えない目で、正確に私の方を向いた。
「……良い香りですね。ずっと、ここに来たかった気がするんです」
その声。
あの日、ノイズの嵐の中で聞いた声とは違う、穏やかで、少し低くなった響き。
けれど、語尾のわずかな揺らぎが、照れくさそうに頬をかく仕草が、痛いほどに彼だった。
私の唇が震える。
心臓が肋骨を叩く音が、耳元でうるさいほどに響く。
本当に? まさか。そんな奇跡が。
いや、違う。彼はきっと、自分の足で、音と匂いを頼りに、ここまで辿り着いてくれたのだ。
彼は不安そうに首を傾げた。
「あの、お店、やってますか?」
その不器用な問いかけに、私の目から熱いものが溢れ出した。
喉の奥がつかえ、言葉が出てこない。
息を吸い込み、震える声を必死に抑え込む。
驚きと、戸惑いと、そして、じわじわと湧き上がるどうしようもない歓喜を噛み締めて。
私はエプロンで涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
「……はい、やってますよ」
一呼吸、間を置いて。
私は、万感の思いを込めて告げた。
「おかえりなさい、レン」
窓の外では、雨上がりの街が、まるで星空のように煌めいていた。