無題
『午前二時の琥珀と、透明な祈り』
第一章 午前二時の透明な文字
自動ドアが開く。気の抜けた電子音が、深夜の粘膜を切り裂くように鳴った。
高野結人の唇が、条件反射で動く。「いらっしゃいませ」
その声は店内に染みついたフライヤーの酸化した油の臭いと、冷蔵ケースの低い唸り声に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
深夜二時。都市が仮死状態に陥る刻限。
だが、この店だけが白々しい蛍光灯に晒され、不眠症の目のように見開かれている。
入店してきたのは、背の丸まったサラリーマンだ。足を引きずるような歩調。結人は眉間を指先で押さえ、視界のピントをわざとずらそうと試みる。だが、網膜にはすでに焼き付いていた。
男の背中から、黒いコールタールのような煙が滲み出し、空中で歪な明朝体へと凝固していく。
『誰でもいい』
『認めてくれ』
『家に帰りたくない』
文字はヘドロのように重く、男の歩みに合わせてゆらりと揺れた。
――見たくない。
結人は強く目を閉じるが、瞼の裏でもその文字は明滅を続ける。他人の臓腑の底に溜まった本音が、視覚情報として強制的に流れ込んでくる。それが結人の抱える「バグ」だった。
同調すれば、こちらの精神まで汚染される。結人は感情のスイッチを切り、ただの肉の機械となってバーコードリーダーを握った。
「温めますか」
「……ああ」
男が去った後、結人はレジカウンターに突っ伏した。胃の奥で冷たい石が転がっているような不快感。吐き気。
その時、再び電子音が鳴る。
現れたのは、あの老人だった。
毎週火曜、午前二時。季節を問わず纏ったツイードのコートからは、雨の日のアスファルトと、朽ちた落ち葉の匂いがした。
老人は無言でレジ前に立ち、皺だらけの指で百円玉を弾く。
「ホット、ですね」
結人が紙コップを差し出すと、老人は深く刻まれた眼窩の奥で、微かに目を細めた。
この老人からは、文字が見えない。彼だけが、情報の濁流の中でぽっかりと空いた「無」だった。
「……若者よ」
コーヒーを受け取る老人の手は、枯れ木のように硬く、冷たい。
「今夜は、床が鳴いているな」
「え?」
老人は足元のリノリウムを見つめ、短く言った。
「底が抜けるぞ」
老人はそれ以上何も語らず、イートインスペースの隅へ向かった。その背中は、崩れ落ちそうな世界を一本の杖で支えているように見えた。
第二章 世界の綻び
異変は、音もなく忍び寄ってきた。
最初は、陳列棚のペットボトルが微かに触れ合う音だった。カチ、カチチ。地震でもないのに、水面が細かく波紋を描いている。
雑誌コーナーの週刊誌が、見えない指で乱暴に捲られるようにバサバサと音を立てた。
店内の空気が、急激に質量を変えた。
肌にまとわりつく湿気と、骨髄まで凍る冷気が同時に押し寄せる。呼吸をするたびに、肺の中に砂が溜まっていくような息苦しさ。
(なんだ、これ……)
視界が歪む。床の白黒のタイルが液状化し、渦を巻き始めた。照明がジジ、ジジジと断末魔のようなノイズを上げて明滅する。日常という薄皮が剥がれ落ち、その下にあるグロテスクな「何か」が露出しようとしている。
「……抑えきれんか」
コーナーの隅で、老人が天井を仰いでいた。その表情には、深い諦念が張り付いている。
「あ、あの、お客様!」
結人が声を張り上げようとした瞬間、自動ドアが限界まで開き、ガコンと外れた。
入ってきたのは、一人の若い女性だった。
いや、それは人の形をした「悲鳴」だった。
派手なメイクは涙と脂で溶け出し、顔というキャンバスを汚濁している。片方のヒールは折れ、裸足になった足からは血が滲んでいた。
彼女が店の中央へよろめき出た瞬間、結人の視界は赤一色に染まった。
『私を見て』
『消えたい』
『助けて』
『全部壊れろ』
彼女の全身から噴き出す文字は、鋭利なガラス片の嵐となって吹き荒れた。
物理的な衝撃波が店を襲う。棚からスナック菓子が弾け飛び、宙を舞う。照明が激しくスパークし、火花を散らした。
世界が、コマ落ちした映像のように明滅する。
老人が立ち上がろうとして、その場に膝をついた。杖が床を滑る。彼にも、もうこの崩壊を止める術はないのだ。
結人はカウンターの中でガタガタと震えていた。
怖い。関わりたくない。いつも通り、目を逸らして嵐が過ぎ去るのを待ちたい。
だが、視界に突き刺さる彼女の「文字」は、結人の網膜を焼き、脳髄を直接殴りつけてくる。
それは怒りではない。誰にも届かなかった、幼子の泣き声だ。
『私には何もない』
彼女の頭上に浮かんだその言葉が、巨大な鎌首をもたげ、今にも彼女自身を喰らい尽くそうとしていた。
第三章 琥珀色の架け橋
(逃げるな)
結人は奥歯が砕けるほど噛み締めた。
彼女が求めているのは破壊じゃない。誰かがこの嵐の中で、錨(いかり)を下ろしてくれることだ。
結人はカウンターを出た。足が竦み、床に散乱したポテトチップスの袋を踏み潰す音が、ひどく遠くに聞こえる。
彼女に近づくほど、肌がピリピリと痛んだ。拒絶のオーラが針となって全身を刺す。
彼女が顔を上げる。空洞のような瞳が結人を捉えた。
「……何よ」
『来るな』という文字が、鋭い棘となって結人の頬を掠めた。鋭い痛みが走る。実際に皮膚が切れたかのように、熱を持った。
それでも、結人は止まらなかった。
言葉など無力だ。「大丈夫?」なんて言葉は、今の彼女には猛毒でしかない。
結人は彼女の横を通り過ぎ、レジ横のコーヒーマシンへ向かった。
震える指でボタンを押す。
ガリガリガリガリ。
豆を挽く騒音が、異界と化した店内に無遠慮に響き渡った。それはあまりにも日常的で、無骨な機械音だった。だが、その音が、崩れかけた世界に強引に杭を打ち込む。
じょぼじょぼと抽出される音。
立ち上る湯気。
焦げたような、それでいて甘く香ばしい匂いが、腐臭の漂う空気を塗り替えていく。
結人は、抽出されたばかりのカップを掴んだ。
熱い。
指先が焼け付くような熱さ。だが、その痛みが「今、生きている」という証だった。
彼はカップを持ち、彼女の前に戻った。そして、膝をついて視線を合わせる。
「……どうぞ」
気の利いたセリフは出てこない。ただ、震える両手でカップを差し出した。
彼女が睨みつける。彼女を取り巻く赤い文字の刃が、結人の喉元に突きつけられる。
結人は視線を逸らさなかった。あなたの痛みが見えている、と伝えるように、ただ真っ直ぐに彼女を見つめた。
彼女の視線が、湯気を立てるカップに落ちる。
迷い、疑い、そして懇願するように、彼女の手が伸びた。
指先がカップに触れる。
「……っ、あつ」
熱さが、彼女の指先から神経を駆け巡る。
その瞬間、彼女を取り巻いていた赤い嵐が、ふっと揺らいだ。
彼女は両手でカップを包み込み、口元へ運ぶ。一口、すする。
琥珀色の液体が喉を焼き、冷え切った胃袋へと落ちていく。その単純で暴力的なまでの「熱」が、彼女を幻覚の世界から現実の肉体へと引き戻した。
「……あったかい」
彼女が掠れた声で漏らした。
その一言が、呪文のように世界を解いた。
空中に浮かんでいた『全部壊れろ』という凶器が、飴細工のように音もなく砕け散る。
代わりに、湯気の中に淡く、頼りない文字が浮かび上がった。
『生きてていいの?』
それはすぐに消え、店内の歪みも嘘のように収束していった。
照明の明滅が止まり、冷蔵ケースの低い唸り声だけが戻ってくる。
彼女はカップに顔を埋め、子供のように肩を震わせて泣きじゃくった。床に落ちる涙の音だけが、静寂の中に響いていた。
最終章 夜明けのコーヒー
自動ドアの向こうが、群青色から白金(プラチナ)色へと変わり始めていた。
女性は腫れた目で「ありがとう」と小さく頭を下げ、店を出て行った。その背中には、もう文字は浮かんでいなかった。あるいは、結人が見ようとしなかっただけかもしれない。
散乱した商品を片付け終えた結人は、イートインスペースへと足を運んだ。
そこには、空になった紙コップが一つ、ぽつんと置かれているだけだった。
老人の姿はない。
ただ、コップの下に、走り書きされた紙ナプキンが挟まれていた。
『神の奇跡より、一杯のコーヒーか。人間とは、面白い』
結人はその文字を見つめ、思わず微苦笑した。
窓から差し込む朝日が、店内の埃をキラキラと光らせている。
身体の重さは消えていた。
今まで、他人の本音が見えるこの目を、呪いだと憎んでいた。見えすぎるから傷つき、傷つくから心を閉ざした。
だが、見えたからこそ、踏み込めた一歩があった。言葉にできない痛みに、ただ熱い一杯を差し出すことならできる。
「……またお待ちしております」
結人は誰もいない席に向かって、深く頭を下げた。
あの方は、待っていたのかもしれない。超常の力で世界を縫い合わせるのではなく、人が人の手で、日常を取り戻すその瞬間を。
「いらっしゃいませ!」
早朝の作業着を着た客が入ってくる音に合わせて、結人は声を上げた。
その声は、もうフライヤーの音にかき消されることはなかった。
エプロンの紐をきつく締め直す。今日、この店を訪れる誰かの、声なき声を聞き逃さないために。結人はレジカウンターの中に立ち、昇る朝日に向かって静かに息を吸い込んだ。