不協和の福音
第一章 沈黙の絶叫
雨音は旋律ではない。それは無秩序なノイズの集合体であり、アスファルトを叩く無数の針となって鳴神響(なるかみ ひびき)の三半規管を侵食していた。彼はノイズキャンセリングヘッドホンを頭蓋に押し付けるように強く装着し、呼吸を整える。
「急げ。公安の連中が嗅ぎつけるまで、あと十分しかない」
相沢刑事が響の腕を乱暴に引いた。レインコート越しにも、相沢の心拍が早鐘を打っているのが振動として伝わってくる。いつもの皮肉めいた余裕はない。彼の所属する捜査一課内部に、組織的な証拠隠滅を図る「裏切り者」がいる――ここに来る車中で聞かされた話が、響の胃袋を冷たく締め上げていた。
「正規の鑑識は入れられない。お前の耳で『音』を拾って、データを持ち出すんだ。俺たちが生き残る道はそれしかない」
錆びついた鉄扉が悲鳴を上げ、廃倉庫の闇が二人を飲み込んだ。
そこは、真空に近い静寂に支配されていた。
中央のパイプ椅子に、男が座らされている。首は人間の可動域を超えて捻じ曲がり、眼球は破裂寸前まで充血していた。だが、周囲には争った痕跡も、血の一滴すらも落ちていない。まるで、暴力という概念そのものが音もなく通り過ぎたあとのようだった。
相沢が入り口で見張りに立つ。彼の吐く息が白く濁り、拳銃を握る指が微かに震えている。
響はアタッシュケースを開き、震える指先で『サイコ・ソニック・エンハンサー』の銀色の筐体に触れた。
「……始める」
蜘蛛の脚のようなセンサーを、死体の側頭部と喉元へ這わせる。
電源を入れると、低周波の唸りが響の骨を伝って脳髄へ這い上がってきた。
物質に残留した音響振動を増幅し、過去を再構築する。それは死者の最期の時間を、響自身の神経系を使って再生することを意味した。
キィィィン……。
耳鳴りが視界を歪める。吐き気が喉元までせり上がる。
——熱い。
——音が、頭を割る。
——やめろ、その旋律は。
死者の感覚が、濁流となって響の中に流れ込む。自分の心臓が他人のリズムで打ち始め、肺が酸素ではない何かを求めて喘ぐ。響は唇を噛み切り、血の味で意識を現実に繋ぎ止めた。
「再生(プレイ)」
青白い粒子が空中に舞い、亡霊のようなホログラムを結ぶ。
椅子に縛られた男が、何かに怯えるように痙攣している。その視線の先、暗闇から現れたのは、レインコートを着た人影だった。
人影は指揮棒を振るように優雅に右手を上げ、男の首筋に何かを——注射器のようなデバイスを突き立てた。
その瞬間、エンハンサーのメーターがレッドゾーンを振り切った。
『……ギィ、ガガ……』
不協和音。
黒板を鉄の爪で引っ掻き、同時に数千のガラスが割れるような、神経を直接ヤスリで削る音。
響の鼓膜が、いや、魂が粟立った。
知っている。この音の配列を、この不快な周波数を、細胞レベルで記憶している。
二十年前、両親が血の海に沈んだ夜。クローゼットの隙間から漏れ聞こえた、あの「旋律」。
粒子が収束し、犯人のフードの下の顔が露わになる。
響は息を呑み、自身の喉を押さえた。
そこに映っていたのは、無表情で男の命を刈り取る、鳴神響自身の顔だった。
「……ありえない」
尻餅をつく響の視界で、ホログラムの「響」がゆっくりと首を巡らせた。その双眸は、虚空ではなく、明確に「今の響」を見据えていた。
ホログラムが口を開く。音声はない。だが、唇の動きはこう語っていた。
『み、つ、け、た』
直後、響の脳内で何かが弾けた。
激痛。
視界がホワイトアウトする寸前、相沢がこちらへ駆け寄る足音がスローモーションのように聞こえた。だが、その足音さえも、誰かが譜面に書いた不吉なドラムロールのように感じられた。
第二章 硝子の迷宮
意識が浮上すると、腐った土とカビの臭いが鼻をついた。
病院ではない。どこかの地下室だ。
「目が覚めたか」
相沢の声。だが、その響きは硬い。響が身を起こそうとすると、手首に冷たい金属の感触があった。手錠が、太い配管に繋がれている。
「……どういうつもりだ、相沢さん」
「俺じゃない。上がお前の身柄を要求している。お前を『重要参考人』として確保しろとな」
相沢は薄暗い裸電球の下で、一枚の波形データを響に突きつけた。
「現場で記録された音響データだ。この波形に含まれる特殊なパルス信号……お前が大学で研究していた『脳機能への音響干渉』の理論値と完全に一致した。警察上層部は、お前が自分の理論を実証するために連続殺人を犯していると判断した」
響は波形を見つめた。美しいまでに計算され尽くした、悪意の数式。
「……違う。これは僕の理論じゃない。僕の理論を盗み、歪め、兵器へと転用したものだ」
「証明できるか? この状況で」
相沢の目が、値踏みするように細められる。
「俺はお前を信じたい。だが、論理はお前を黒だと示している。俺を納得させる『音』を聞かせてみろ」
響は頭痛をこらえながら、記憶の中の「音」を手繰り寄せた。
ホログラムの「自分」が発していた音。あれは単なる殺人音波ではなかった。その裏側、可聴域の外側に、微細なノイズが隠されていたはずだ。
「……エンハンサーを。あれに残っているデータを再解析させてくれ」
「無理だ。あれは証拠品として……」
「相沢さん!」
響は鎖を鳴らして叫んだ。
「あの音には続きがあるんだ! 骨伝導で記録された、もっと深い層の音が! それを聞けば、犯人がどうやって僕の姿を偽装したか、そして奴がどこにいるかが分かる!」
相沢は長い沈黙の後、忌々しげに舌打ちをした。腰のホルスターから鍵を取り出し、手錠を外す。
「……五分だ。それ以上は公安が突入してくる」
渡されたエンハンサーに指を走らせる。
表面的な悲鳴、環境音、肉が裂ける音。それらすべてをイコライザーで削ぎ落とす。
残ったのは、深海の底で響くような、重く、粘着質な低周波。
ブブブ……ブブ……。
響はそのリズムに合わせて、キーボードを叩く。音を座標へ、周波数を文字へ。
モニターに浮かび上がったのは、廃墟と化したコンサートホールの座標。
そして、埋め込まれていた音声ファイルが再生された。
『ヒビキ……耳を澄ませて……』
響の全身が凍りついた。
母の声だ。二十年前、死の直前に録音されたものではない。今の、成長した自分に語りかけるようなトーン。
いや、違う。これは合成された音声だ。母の声をサンプリングし、再構築された偽りのメッセージ。
だが、その背後に流れる微かなピアノの旋律に、響は戦慄した。
「……御子柴教授」
かつての恩師。音響心理学の権威であり、数年前に事故死したはずの男。彼が好んで弾いていた、歪んだバッハのアレンジ。
「死人が蘇ったとでも言うのか?」
相沢が眉を寄せる。
「あるいは、死んだふりをして、地下で指揮棒を振り続けていたかだ」
響は立ち上がった。恐怖は怒りに焼き尽くされ、瞳の奥に冷たい青白い炎が宿っていた。
「行きましょう、相沢さん。招待状が届いた。……僕の『耳』を完成させるための、最終楽章への招待状が」
第三章 不協和の檻
廃墟となったコンサートホールは、巨大な怪物の死骸のようだった。
崩れ落ちた天井から月光が差し込み、埃まみれの客席を照らし出している。
ステージの中央には、不釣り合いに真新しいグランドピアノ。その周囲を、塔のような巨大スピーカー群が取り囲んでいる。
「ようこそ。私の最高傑作」
スピーカーから、割れたガラスのような声が響き渡った。
ステージの袖から現れたのは、御子柴だった。
だが、響の記憶にある温厚な老教授の姿ではない。顔の半分が火傷のようにただれ、そこを金属のインプラントが覆っている。
「御子柴……やはり、あなたが」
「感動的な再会だね、響くん。君の両親も、草葉の陰で喜んでいるだろう。……いや、彼らの脳髄はまだ私のラボの培養槽にあるから、聞いているかもしれないな」
響の中で理性が弾け飛んだ。
「貴様ッ!」
飛びかかろうとした瞬間、御子柴がピアノの鍵盤を一つ、強く叩いた。
ガァァァン!!
物理的な衝撃波が響を襲った。空気が固体となって身体を打ち据える。
響は吹き飛ばされ、客席の瓦礫に背中を強打した。
「ぐっ、う……!」
「暴力ではないよ。これは『音圧』だ。君の三半規管を直接ハッキングしたのだ」
御子柴は恍惚とした表情で指揮棒を振るった。
「さあ、始めようか。『不協和音による人格再編』の実験を!」
スピーカー群が唸りを上げる。
空間そのものが歪むような、超高周波と超低周波の複合音。
響の視界が赤く染まる。
——殺せ。
——お前は殺人鬼だ。
——両親を殺したのはお前だ。
——お前の望みは血だ。
脳内に直接、偽りの記憶と殺意が書き込まれていく。
幻覚が見える。自分の手が血に濡れている。目の前に相沢がいる。彼を殺せと、脳髄が命令する。
「う、あああああ!」
響は頭を抱えて転げ回った。自分の叫び声さえも、御子柴の奏でる交響曲の一部として取り込まれていく。
「そうだ! その絶望だ! その苦痛こそが、君を新たな『指揮者』へと進化させる!」
相沢が銃を構えるが、音波の影響で平衡感覚を失い、膝をつく。「くそっ、狙いが……定まらない……!」
御子柴は笑う。
「無駄だ。この空間は私の支配下にある。君たちの脳は、私が奏でる譜面通りにしか思考できない!」
響の意識が漆黒に塗りつぶされそうになる。
思考が溶ける。自分が誰なのか分からなくなる。
ただ、音に従いたい。楽になりたい。
その時、懐のエンハンサーが熱を帯びた。
無意識に指がダイヤルに触れていた。
——違う。
響の指が動く。
御子柴の奏でる「完璧な支配の音」。その波形が見える。
美しい正弦波。狂気によって整えられた、完全な秩序。
だが、僕は違う。
僕の中にあるのは、秩序じゃない。
両親を失った悲しみ。孤独な夜の耳鳴り。吐き気がするようなノイズ。
その「不純物」こそが、僕だ。
「……僕は、あんたの楽器じゃない!」
響はエンハンサーの出力を最大にした。
ただし、同調させるのではない。
御子柴の音に対して、真逆の位相。
自身のトラウマ、恐怖、汚濁、それら全ての「ノイズ」をぶつける。
「消えろォォォッ!!」
響が叫ぶと同時に、エンハンサーからどす黒い衝撃波が放たれた。
『キギィィィィィン——!!!』
完璧な和音が、汚れたノイズによって引き裂かれる。
絶対的な支配の波形が崩壊し、互いに干渉し合い、暴走する。
「な、なんだ!? 私の音が……濁る!?」
御子柴の表情が驚愕に歪む。
スピーカーが火花を散らし、過負荷で次々と爆発した。
「馬鹿な……不協和音が、調和を凌駕するだと……!?」
「あんたの音は綺麗すぎるんだよ!」
響は瓦礫を蹴って走った。音の防壁はもうない。
相沢が叫ぶ。「響、伏せろ!」
銃声が一発。
御子柴の右肩が弾け、指揮棒が宙を舞う。
よろめいた御子柴に、響はエンハンサーそのものを叩きつけた。
鈍い音と共に、老教授がピアノの上へと崩れ落ちる。
不協和な音が鳴り響き、そして——静寂が訪れた。
第四章 残響の果てに
静寂は、轟音よりも重かった。
御子柴はピアノの弦の上で、血の泡を吐いていた。
「……素晴らしい」
虫の息の中で、彼は笑っていた。
「君のその『汚れ』……それこそが、最強の武器だとはな……」
響は肩で息をしながら見下ろした。
「終わりだ、御子柴」
「終わる? ふふ……組織は、私一人ではない。私は……第一楽章に過ぎない」
御子柴は血に濡れた手で、胸元のペンダントを握りしめた。
「君に……ギフトをやろう。私の『耳』のすべてを」
彼がペンダントを砕くと、人間の可聴域を超えた特殊な周波数のパルスが放たれた。
キィン。
鋭い痛みが響の脳を貫く。
それは攻撃ではなかった。データだ。
膨大な組織のネットワーク、資金源、潜伏者たちのリスト、そして音響兵器の設計図。それらが圧縮された音声信号として、響の脳神経に焼き付けられた。
「これを聞いた君は……もう人間には戻れない。……さあ、奏でたまえ。永遠の地獄を」
御子柴の瞳から光が消えた。
だが、彼が最期に残した呪いは、響の体内で確実に芽吹いていた。
「響! 大丈夫か!」
相沢が駆け寄ってくる。
響はゆっくりと顔を上げた。
その目を見た瞬間、相沢は言葉を詰まらせた。
響の瞳孔は開ききり、そこには人間的な感情の揺らぎが一切なかった。
「……響?」
「聞こえますか、相沢さん」
響の声は、不気味なほど落ち着いていた。
「聞こえる? 何がだ?」
「彼らの足音が。地下深くに潜む、次の奏者たちの息遣いが」
響は自分の耳に手を当てた。
世界が変わってしまった。
相沢の心臓の鼓動が、不快なドラムのようにドカドカと響く。
遠くのパトカーのサイレンが、悲鳴のようなコーラスに聞こえる。
風の音が、虫の這う音に変換される。
御子柴の「ギフト」は、響の聴覚野を書き換え、世界中のあらゆる音を「敵意」や「情報」として処理するように改造してしまったのだ。
常に、世界が自分を殺そうとする音が聞こえる。
安らぎの静寂は、もう二度と訪れない。
「……事件は解決だ。だが、戦いは始まったばかりです」
響はエンハンサーを拾い上げた。その手つきは、もはや怯える学者のものではなく、熟練した兵士のそれだった。
「行くぞ、相沢さん。ノイズが五月蝿すぎて、眠れそうにない」
響は背を向け、崩れかけた出口へと歩き出した。
月光が彼の影を長く伸ばす。その影は、まるで指揮棒を振る悪魔のように揺らめいていた。
彼の歩くリズムだけが、壊れた世界で唯一、正確な死への行進曲を刻んでいた。