第一章 依頼人の嘘
雨の匂いがした。
地下二階、換気扇が壊れかけたこの診療所には、外の天気など関係ないはずだ。それでも、俺の鼻腔は確実に湿ったアスファルトと、安っぽい鉄の錆の匂いを捉えていた。
それは、目の前の少女の記憶から漏れ出している匂いだった。
「……消してください」
少女が震える声で言う。年齢は二十歳そこそこか。濡れた髪が白い頬に張り付いている。彼女が差し出したのは、銀色のメモリーチップではない。自分のこめかみ、つまり『生データ』だ。
「私が人を殺した記憶を。何もかも、なかったことにしたいんです」
俺は吸いかけの煙草をビーカーの底で押し消した。
「ここは正規の病院じゃない。違法な『記憶の仕立て屋(メモリー・テイラー)』だ。料金は高いぞ」
「お金ならあります」
彼女がテーブルに置いたのは、旧紙幣の束だった。今の時代、誰も使わないキャッシュ。だが、足がつかないという意味では最高の支払い方法だ。
俺は溜息をつき、施術用のヘッドギアを手に取った。
「名前は?」
「……エナ、です」
偽名だろう。だが、どうでもいい。俺の仕事は客の素性を探ることじゃない。記憶のほつれを縫い合わせ、都合の悪いシミを消すことだ。
「いいか、エナ。俺がこれからお前の脳(ハコ)に入る。抵抗するな。深層心理が拒絶反応を起こすと、俺もお前も脳が焼き切れる」
彼女は黙って頷き、診察台に横たわった。
俺は自分のこめかみにジャックを差し込む。
視界がノイズに覆われ、世界が反転する。
シンクロ率、正常。ダイブ開始。
第二章 歪んだ断崖
冷たい風。
俺は断崖絶壁に立っていた。視覚情報よりも先に、強烈な『感情』が津波のように押し寄せてくる。
恐怖、混乱、そして──殺意。
(これが、彼女の記憶か)
視界の先には、一人の男が立っていた。逆光で顔は見えない。だが、エナの視点は激しく揺れている。彼女の手が伸びる。
『やめて!』
心の中の声とは裏腹に、彼女の手は男の胸を突き飛ばした。
スローモーションのように男の体が宙に浮く。重力に従い、暗い海へと落下していく。
衝撃。
ここで記憶は途切れている。
「……ふむ」
俺は仮想空間の中で、もう一度そのシーンを再生した。
違和感がある。
俺には特異体質がある。『共感覚的共感(シナスタジア・エンパシー)』。他人の記憶の中で、その感情を色や温度、匂いとして感じ取ることができる。
この記憶、殺意の赤色が強すぎるのだ。
まるで、後からペンキで塗りたくったように不自然なほど赤い。その下には、もっと別の色が隠されている気がする。
「おい、エナ。聞こえるか」
俺は意識の深層へ呼びかけた。
「お前、本当に殺したかったのか?」
『殺した……私が、殺した……』
彼女の意識がリフレインする。
俺は記憶の『テクスチャ』に触れた。男の顔にかかっているモザイクのような霧。これは脳がショックで自己防衛のためにかけたものではない。もっと作為的な、誰かによる改竄の痕跡だ。
俺は仮想の手で、その霧を強引に剥ぎ取った。
瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
男の顔が見えた。
疲れた目、無精髭、少し曲がった鼻。
それは、鏡で毎朝見ている俺自身の顔だった。
第三章 塗り潰された真実
現実世界で、俺の手は震えていたかもしれない。
だが仮想空間の中で、俺は凍り付いていた。
なぜ俺がここにいる? 俺は殺されたのか? いや、俺は生きている。
混乱する頭で、俺は記憶のさらに奥底、深層心理のアーカイブへ潜った。
そこにあったのは『殺意』ではなかった。
深い『悲哀』の青色。
記憶のレイヤーを一枚ずつ剥がしていく。
突き飛ばしたのではない。手を伸ばしたのだ。落ちそうになる男を助けようとして。
だが、届かなかった。
男──つまり過去の俺は、自ら崖から手を離していた。
(そうだ……思い出した)
俺の記憶がフラッシュバックする。五年前、刑事だった頃。汚職の濡れ衣を着せられ、家族にも見放され、絶望して自殺を図ったあの日。
俺は死んだはずだった。だが、奇跡的に助かり、記憶の一部を失ったまま、この闇医者のような生活に身をやつしていた。
そして、あの日、俺を止めようと追いかけてきた少女がいた。
「……マナ」
エナではない。マナだ。俺の娘。
彼女は、父親が目の前で自殺する瞬間を目撃し、そのショックで記憶を乖離させたのだ。
そして誰かが──おそらく俺の元妻か、あるいは彼女を守ろうとした誰かが──『父親は事故で死んだ』のではなく、『自分が突き落とした』という偽の記憶を植え付けた?
いや、違う。
彼女自身だ。彼女の心が、あまりの悲しみに耐えきれず、『父に見捨てられた』という事実よりも、『自分が殺した』という罪悪感の方を選んだのだ。愛する人に捨てられるより、自らの罪で失う方が、まだ理屈がつくから。
なんという残酷な自己防衛。
俺は歯噛みした。
彼女は、俺を殺したという罪悪感に五年間も苛まれ続け、ついに耐えきれずに記憶を消しに来た。
もし俺がここで「俺は生きている、父さんだ」と名乗り出ればどうなる?
彼女の記憶は修復されるかもしれない。だが、同時に「父親が自分を捨てて自殺しようとした」という残酷な真実とも向き合うことになる。
それは、彼女の心を再び壊す刃になるだろう。
第四章 優しいハサミ
「……ふざけるなよ」
俺は仮想空間の中で呟いた。目頭が熱い。これがシナスタジアのせいなのか、俺自身の感情なのか分からない。
俺は『ハサミ』を取り出した。記憶編集用のツールだ。
選択肢は二つ。
真実を告げて、父として彼女を抱きしめるか。
あるいは、依頼通りに記憶を消し、他人として生きるか。
俺は娘の震える深層心理に触れた。そこには、幼い頃の俺との思い出が、宝石のように輝きながらも、黒い鎖で封印されていた。
俺のような薄汚れた犯罪者が、今の彼女に関わっていいはずがない。
「……さよならだ、マナ」
俺はハサミを入れた。
『殺意』の赤を切り取る。そして、『落下』の記憶そのものを改竄する。
俺はシナリオを書き換えた。
断崖絶壁ではない。空港のロビーだ。
男は死ぬのではない。海外への長い旅に出るのだ。
「元気でな」と笑顔で手を振り、ゲートの向こうへ消えていく父。
それは嘘だ。ありもしない綺麗な嘘だ。だが、彼女が明日を生きていくために必要な『物語』だ。
俺は丁寧に、繊細に、記憶の断片を縫い合わせた。ほつれがないように。涙の跡が残らないように。
作業を終えると、俺は静かにダイブアウトした。
第五章 名もなき対価
ヘッドギアを外すと、強烈な吐き気に襲われた。
診察台の上で、エナ──マナがゆっくりと目を開ける。
その瞳から、あの暗い影は消えていた。
「……私、眠っていたんですね」
彼女は不思議そうに自分の手を見た。
「気分はどうだ?」
「なんだか、とても……心が軽いです。私、何を悩んでいたんでしょう」
彼女はもう、人を殺した記憶を持っていない。それどころか、父親が自分を捨てたという事実さえも、美しい別れの記憶に変わっている。
「施術は成功だ。もう行きな」
俺はぶっきらぼうに言った。顔を見られたくなかった。
彼女は身支度を整え、カウンターに置いた旧紙幣に手をやった。
「あの、先生。お代は……」
「いらねえ」
「え?」
「機械の調子が悪くてな。完全な消去ができたか怪しい。今回はモニターってことにしてやる」
彼女は困惑したように瞬きをしたが、やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……あの、どこかでお会いしましたか?」
心臓が止まりそうになった。
俺は背を向け、わざとらしくあくびをした。
「あるわけねえだろ。俺みたいなヤブ医者と、お嬢さんが」
「……そう、ですよね。失礼しました」
ドアベルが鳴り、彼女が出ていく。
雨の音が少し大きくなり、そしてまた遠ざかった。
俺は誰もいない診療所で、彼女が残していこうとした紙幣の束を見つめた。その一番上には、古びた写真が紛れ込んでいた。
若い頃の俺と、小さなマナが笑っている写真。
俺はそれを手に取り、ライターで火をつけた。
写真はチリチリと音を立てて灰になっていく。
これでいい。
俺は死んだ男だ。彼女の記憶の中で、俺は遠い国で幸せに暮らしている。
「……達者でな」
煙草に火をつける。煙が目に染みた。
雨はまだ、降り止みそうになかった。