第一章 雨と砂礫の記憶
空が腐っていた。
頭上を覆う分厚い鉛色の雲から、廃油のように粘りつく雨が降り注いでいる。路地の窪みに溜まった水は、ネオンの毒々しい紫と赤を吸い込み、都市の膿そのもののように淀んでいた。
カインは濡れたコートの襟を立て、震え続ける老婆の手を握りしめた。皺だらけで、死人のように冷たい皮膚。その感触が指先から這い上がり、神経という導火線を伝って脳髄へと侵入してくる。
拒絶反応で胃液がせり上がるのを、奥歯を砕くほどに噛み締めて堪える。視界がノイズ混じりの砂嵐に覆われ、鼓膜の奥で高周波の耳鳴りが叫び声を上げた。
他者の脳内へ潜る行為は、泥沼の中を目を開けたまま泳ぐに等しい。
――ガチリ。
神経が接続(リンク)した。
現実の路地裏が弾け飛び、セピア色の映像が網膜に焼き付く。
焦げたトーストの香ばしさと、黴臭い畳の匂い。老婆の視界だ。食卓の向こうに、十歳ほどの少年がいる。あどけない笑顔。だが次の瞬間、扉が蹴破られる音と共に世界は反転した。
侵入者の影。少年の悲鳴。連れ去られる際の、老婆の喉を灼くような絶望。そして、犯人の男の腕に刻まれた刺青――絡みつく二匹の蛇。
口の中に、鉄錆と胆汁の味が広がった。
カインは乱暴に手を離した。
接続が切れた反動で、世界がぐるりと回転する。彼は泥水の中に膝をつき、激しく咳き込んだ。
「……港だ。第四倉庫。蛇の刺青がある男たちが、そこにいる」
掠れた声で告げると、老婆は涙を流してカインの足元に縋り付こうとした。
「あぁ、ありがとうございます、なんとお礼を……」
「触れるな」
カインは老婆の手を振り払った。冷淡さを装わなければ、彼女まで巻き込んでしまう。
「行け。私の気が変わらないうちに」
老婆が去った路地裏に、雨音だけが戻ってくる。
カインは震える手で懐を探り、ラミネート加工された一枚の写真を取り出した。
雨に濡れぬよう守られたその写真の中で、桜色の髪をした女性が微笑んでいる。
カインの指先が、写真の彼女の頬をなぞる。
――大丈夫。まだ、覚えている。
彼女の名前はエリス。好きな花はリンドウ。コーヒーには角砂糖を三つ入れる甘党で、笑うと右の目の下に小さなエクボができた。
だが。
ふと、カインの思考に亀裂が走った。
昨夜のことだ。夢の中で彼女は何かを言っていた。あの時、彼女はどんな声で僕を呼んでいた?
思い出そうとした瞬間、脳裏にあったはずの「声」のファイルが、砂の城のようにサラサラと崩れ落ちた。
高めの声だったか、落ち着いたアルトだったか。
記憶の糸を手繰り寄せようとすればするほど、その糸は千切れ、深淵へと吸い込まれていく。他人の記憶を覗き見た代償として、自分の脳の容量(リソース)が上書きされ、古い記憶から順に削除(デリート)されていくのだ。
「あっ……ああ……!」
カインは喉の奥から獣のような嗚咽を漏らした。
忘れたくない。それだけが、この灰色の世界で彼を人間たらしめている唯一の錨(いかり)なのに。
彼女の笑顔の映像はある。だが、その笑顔に向けられた感情の「温度」が、急速に冷めていくのを感じる。まるで、見知らぬ他人の写真を見ているような感覚に陥る恐怖。
カインは写真ごと自分の胸を掻きむしった。
胸元で揺れる、虹色に鈍く光る鉱石のペンダント。かつて彼女が持っていたそれだけが、今の彼に残された確かな物質だった。
「必ず見つけ出す……僕が僕であるうちに」
彼は泥を拭い、よろめきながら立ち上がった。その瞳には、狂気と紙一重の決意が宿っていた。
第二章 善意という名の呪い
港の倉庫街は、腐った魚の内臓と廃油を混ぜ合わせたような悪臭に満ちていた。
雨は激しさを増し、叩きつけるような音が視界を遮る。
第四倉庫の鉄扉は、半ばからひしゃげて開いていた。
カインは銃を構えることもなく、闇の中へと足を踏み入れた。
静かすぎる。人の気配はおろか、呼吸音ひとつ聞こえない。
あるのは、床一面に広がる粘着質な液体と、散乱した木箱の残骸だけだ。
奥へ進むにつれ、カインの足取りが重くなる。本能が警鐘を鳴らしていた。
そして、倉庫の中央に辿り着いたとき、彼は息を呑んだ。
そこには、異様な「オブジェ」があった。
人間の手足や胴体が、融解した飴細工のように混ざり合い、一つの巨大な肉塊となって脈動している。
その肉塊の表面に、見覚えのある顔が浮かんでいた。
さっきの老婆の孫だ。少年は恐怖に引き攣った表情のまま、肉の壁に埋まり、声もなく喘いでいる。
だが、それだけではなかった。
少年の隣に埋まっている顔。あれは、先月カインが借金取りから救った男だ。
その下の腕。あれは、病気の特効薬を届けてやった少女の腕だ。見覚えのあるブレスレットが、膨れ上がった肉に食い込んでいる。
カインの脳髄を、氷の杭が貫いた。
「……嘘だろ」
倉庫の壁一面に、無数の写真や書き付けが貼られていることに気づく。
それらは全て、カインがこれまでに能力を使って救った人々だった。
救った日付。その後の経過。そして最後に、赤い×印と共に記された死因――『因果崩壊』。
彼らは誘拐されたのではなかった。
カインが運命に介入し、本来訪れるはずだった「小さな不幸」を取り除いた結果、行き場を失った因果の歪みが彼らの肉体に蓄積し、内側から破裂させたのだ。
老婆の孫も、カインが関わったからこそ、この肉塊の一部として取り込まれた。
カインは膝から崩れ落ちた。
救済者気取りで彼が行ってきた全てが、彼らを最も残酷な地獄へ突き落とす引き金だった。
ヒュウ、と風が鳴る。
いつの間にか、肉塊の周囲を囲むように、灰色のローブを纏った人影たちが立っていた。顔にはのっぺりとした仮面。
彼らは言葉を発しない。ただ、その無機質な視線がカインを射抜く。
彼らはこの世界の自浄作用。バグを修正するシステム管理者。
語らずとも、カインには理解できてしまった。自分の「善意」こそが、この世界にとっての猛毒なのだと。
そして、肉塊の頂点に、一つの輝きが見えた。
虹色の鉱石。カインが持っているものと対になる欠片。
それが、肉塊の核として埋め込まれている。
あぁ、そうか。
エリス。君もそうだったのか。
君が消えたのは、何者かに連れ去られたからじゃない。
僕が君を愛し、君の運命を変えようとしたから、世界が君を「削除」したんだ。
カインは乾いた笑い声を上げた。
喉が引きつり、涙が溢れ出る。
愛すれば愛するほど殺し、救えば救うほど壊す。
このふざけた世界の理(ことわり)を、カインは心の底から憎んだ。
第三章 無の調律
憎悪ではない。悲嘆でもない。
カインの胸の内に灯ったのは、静かで、冷たく、決して消えることのない青白い炎だった。
彼はゆっくりと立ち上がった。
胸元のペンダントを握りしめる。石のエッジが掌に食い込み、血が滲む。
灰色の監視者たちが、ゆらりと動いた。彼らはカインを排除しようとしている。世界のバグである彼を。
「……全部、返すよ」
カインは呟いた。
能力の使い方は知っている。他人の脳に干渉できるなら、この世界の「脳」、すなわち因果を司る中枢領域(レコード)にも干渉できるはずだ。
ただし、それには莫大なエネルギーがいる。
一人の人間の精神などでは足りない。魂ごと、存在ごと燃料にくべる必要がある。
カインは目を閉じ、意識の深淵へとダイブした。
暗闇の中に、巨大な樹木のような神経網が広がっている。それが彼自身だ。
彼は迷わず、その根元に火を放った。
激痛が走った。
指先をハンマーで砕かれるような痛みではない。自分という存在の輪郭が、強酸で溶かされていくような根源的な恐怖と苦痛。
――ガガガガッ!
視界が明滅する。記憶が燃えていく。
最初に消えたのは幼年期だ。母の温かい手。父の低い笑い声。初めて自転車に乗れた日の、風の匂いと草いきれ。それらがフィルムのように焼け焦げ、灰になって散っていく。
カインの口から、声にならない絶叫が漏れた。
自分が自分でなくなっていく。空っぽの器になっていく。
監視者たちが襲いかかってくるが、カインの身体から溢れ出す輝きが彼らを弾き飛ばした。
光は虹色から白へ、そして透明な虚無へと変わっていく。
肉塊となっていた人々が、光の中で分解され、元の姿へと再構築されていく。歪められた因果が、カインという生贄を喰らうことで正常化されていくのだ。
まだだ。まだ足りない。
カインは最後の、最も奥底にある記憶の扉を開けた。
そこには、エリスがいた。
桜色の髪。悪戯っぽい瞳。
彼女との日々。初めて手を繋いだ時の、お互いの手汗の感触。喧嘩した夜、背中合わせで眠ったベッドの沈み具合。誕生日に彼女が焼いてくれた、少し焦げたクッキーの味。
「……いやだ」
カインの魂が悲鳴を上げた。
これだけは。これだけは渡せない。この記憶さえあれば、地獄でも生きていける。これを失えば、僕はもう僕ですらなくなる。
記憶の中のエリスが、微笑んで何かを言った。
音声はもう再生されない。だが、唇の動きでわかった。
『ありがとう』
カインは泣きながら、その記憶を掴み――そして、自らの手で握り潰した。
瞬間、白い光が世界を飲み込んだ。
痛みも、未練も、愛しさも、全てが光の彼方へ溶けていく。
カイン・アッシュフォードという物語が、終わりのページを迎えることなく、白紙へと還っていった。
最終章 白紙の朝
頬を撫でる風がくすぐったくて、男は目を覚ました。
目を開けると、木漏れ日が視界いっぱいに降り注いでいた。
昨夜の嵐が嘘のように、空は澄み渡るような青だった。
男は身体を起こし、ぼんやりと周囲を見回した。
公園のベンチだ。鳩が数羽、足元で餌をついばんでいる。
通りを行き交う人々は皆、穏やかな顔をしていた。
誰かが落とした帽子を、通りがかりの学生が拾って渡す。「ありがとう」「どういたしまして」。そんな些細なやり取りが、世界中に満ちている。
誰も傷つかず、誰も歪まない。当たり前の日常。
男は自分がなぜここにいるのか、ここがどこなのか、そもそも自分が何者なのか、何もわからなかった。
名前も、過去も、帰るべき場所も、記憶の引き出しは全て空っぽだった。
けれど、不思議と不安はなかった。
身体は羽のように軽く、心は凪いだ湖のように静かだ。
ふと、コートのポケットに違和感があり、男は手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、小さな石ころだ。
色はなく、ガラス玉のように透明で、何の変哲もないただの石。
男はその石を取り出し、太陽にかざしてみた。
透明な石の中を光が透過し、地面に小さな虹を描く。
その時。
ズキリ、と胸の奥が疼いた。
痛みではない。
まるで、凍えていた指先を急にお湯につけた時のような、痺れるような温かさ。
石に残る微かな熱が、男の指先から流れ込み、空っぽの心を満たしていく。
それは言葉にも映像にもならない、純粋な感情の残滓。
誰かをどうしようもなく愛したような切なさ。
誰かに愛されていたような安らぎ。
何かとても大切な約束を果たしたような、誇らしさ。
気づけば、男の頬を涙が伝っていた。
「……綺麗な空だ」
男は独りごちた。自分の声を聞くのが、まるで初めてのようだった。
なぜ泣いているのかわからない。けれど、この涙を拭うのはもったいない気がした。
男は石を大切にポケットにしまい込むと、ベンチから立ち上がった。
名前のない男は、光に満ちた世界へと、ゆっくりと歩き出す。
その足取りは迷いなく、どこまでも軽やかだった。