第一章 雨とノイズ
雨の音がする。
冷たく、執拗にアスファルトを叩く音だ。
俺は重たい瞼を持ち上げた。
視界が滲んでいる。
「……工藤さん。工藤さん、聞こえますか」
耳元のインカムから、硬質な女性の声が響いた。
オペレーターの真壁だ。
「ああ、聞こえてる。感度は良好だ」
俺は乾いた唇を舐め、革張りのリクライニングシートに深く身を沈めた。
こめかみに装着した『バイザー』が、微かな熱を帯びているのが分かる。
ここは警視庁捜査一課、特殊記憶解析係。
通称『ダイバー』。
死者の脳に残された、最期の一〇分間の記憶を再生し、事件の真相を探る場所だ。
俺、工藤レイジは、人の死に際を覗き見ることを生業にしている。
「被験者、身元確認完了。七瀬ミオ、一七歳。死因は頭部外傷による脳挫傷。高所からの転落死と推定」
真壁の声が事務的に情報を読み上げる。
目の前のモニターには、制服姿の少女の遺影が映し出されていた。
どこにでもいそうな、線の細い女子高生だ。
「警察の判断は自殺。遺書はなし。だが、母親が納得していない」
「よくある話だ」
俺は懐からミントタブレットを取り出し、二粒まとめて口に放り込んだ。
苦味が舌に広がり、少しだけ意識が覚醒する。
「娘は明るい子だった。悩んでいる様子もなかった。……親はいつだってそう言うものさ」
「でも、今回は少し違います」
真壁が言葉を区切った。
「彼女、転落の直前に誰かと通話していた履歴がないんです。SNSの更新もなし。ただ、屋上の防犯カメラには、彼女が柵を乗り越える姿だけが映っていた」
「なら、自殺で決まりだろう」
「母親が言うんです。『あの子は、笑っていた』と」
「は?」
「家を出る時、あの子は今までで一番綺麗な笑顔で『行ってきます』と言った。そんな子が、その数時間後に飛び降りるはずがない、と」
俺は鼻で笑った。
笑顔。
それが絶望を隠す仮面だと知らないのか。
俺は知っている。
人が死ぬ瞬間に何を見るか。
恐怖、後悔、怨嗟。
美しい走馬灯なんて、映画の中だけの話だ。
「工藤さん、心拍数が上がっています。また……奥さんのことを思い出しましたか?」
「余計な詮索はするな。始めるぞ」
俺はバイザーのスイッチを入れた。
視界がホワイトアウトする。
脳髄を直接鷲掴みにされるような、不快な浮遊感。
俺は、死者(七瀬ミオ)の脳へとダイブした。
第二章 灰色の空
風。
強い風が吹いている。
肌を刺すような寒さ。
(ここは……学校の屋上か)
視界は揺れていた。
彼女の記憶だ。
彼女が見ていた景色が、俺の網膜に直接投影される。
錆びついたフェンス。
どんよりと垂れ込めた灰色の雲。
遠くでチャイムの音が聞こえる。
放課後だろうか。
『……怖い』
感情が流れ込んでくる。
言葉ではない。
震えるような、冷たい感情の奔流。
心臓が早鐘を打っている。
彼女はフェンスに手をかけた。
冷たい鉄の感触。
「おい、待て……」
俺は思わず声を上げそうになるが、干渉はできない。
俺はただの観客だ。
彼女はフェンスを乗り越えた。
足元には、わずかなコンクリートの縁しかない。
一歩踏み出せば、二〇メートル下の地面へ逆落としだ。
『寒い……』
彼女の思考がノイズ混じりに響く。
いじめか?
失恋か?
記憶の断片を探る。
教室での嘲笑。
上履きに書かれた落書き。
教科書の切れ端。
やはり、そうか。
典型的なケースだ。
彼女は追い詰められていた。
逃げ場を失い、空へ逃げようとした。
(終わりだな)
俺は解析を終了しようとした。
自殺の動機は明白。
事件性なし。
母親には残酷だが、これが真実だ。
その時だった。
『あ……』
彼女の視線が、ふと下を向いた。
地面ではない。
もっと手前。
風に煽られ、屋上の縁に置かれていた古びたプランターが、ぐらりと傾いた瞬間だった。
赤茶色のテラコッタ鉢。
中には枯れた植物。
それが、強風に押され、縁から滑り落ちそうになっている。
その真下。
校舎の裏庭。
小さな影があった。
黄色い帽子。
ランドセル。
小学生くらいの男の子が、野良猫を追いかけてしゃがみ込んでいる。
『ケンちゃん……!』
彼女の思考が、恐怖から焦燥へと塗り替わった。
弟だ。
このままでは、プランターが男の子の頭上を直撃する。
距離がある。
叫んでも声は届かない。
風が強い。
プランターが、宙に舞った。
「あっ!」
俺は息を呑んだ。
その瞬間、彼女は跳んだ。
死ぬためではない。
掴むために。
重力に引かれ、落下するプランター。
それを追うように、彼女の体も宙に投げ出された。
第三章 重力の彼方
世界がスローモーションになる。
風の音が消えた。
彼女の手が伸びる。
必死に、空を掻くように。
指先がプランターの縁にかかった。
『届いて……!』
祈りのような絶叫が、俺の脳を揺さぶる。
彼女は空中で体を捻り、プランターを胸に抱き込んだ。
激しい衝撃。
だが、彼女は離さない。
自分の体が地面に叩きつけられることなど、忘れているかのようだ。
ただ、弟を守ることだけ。
その一心で。
視界がぐるりと回る。
地面が迫ってくる。
灰色のコンクリート。
その隅に、驚いて見上げる少年の顔が一瞬だけ映った。
そして、彼女は見た。
少年の無事な姿を。
『よかった』
安堵。
温かい、蜂蜜のような感情。
恐怖は消えていた。
痛みへの予感さえも。
最期の瞬間、彼女の視界を埋め尽くしたのは、絶望的な灰色の空ではなかった。
雨雲の切れ間から差し込む、一筋の光。
それが、濡れたアスファルトに反射して、七色に輝いていた。
きれい。
そう思った瞬間、プツンとノイズが走り、世界は暗転した。
第四章 告白
「……工藤さん? 工藤さん! バイタルが乱れています! 強制切断します!」
「待て」
俺は荒い息を吐きながら、バイザーをむしり取った。
汗が目に入る。
心臓が痛いほど脈打っている。
「切断は不要だ。解析は終了した」
俺はふらつく足取りで立ち上がり、取調室のマジックミラーの向こうを見た。
そこには、憔悴しきった母親が座っていた。
俺はドアを開け、中に入った。
母親が顔を上げる。
縋るような目。
「刑事さん……あの子は、あの子は……」
俺は深呼吸をして、モニターに最後の映像を映し出した。
ただし、彼女が地面に激突する直前で静止させて。
「七瀬さん。あなたの娘さんは、自殺ではありませんでした」
「え……?」
「彼女は、事故死です」
俺は嘘をついた。
いや、半分は真実だ。
「弟さんを守るために、彼女は自ら空へ飛び出したんです」
モニターには、彼女がプランターを抱きかかえ、弟の頭上を庇うように落下していく姿が映っていた。
そして、その表情。
死の恐怖に歪んでいるのではない。
大切なものを守り抜いた、聖母のような穏やかさ。
微かに口角が上がっている。
彼女は、笑っていたのだ。
「あぁ……ミオ……」
母親が崩れ落ちる。
慟哭。
だがそれは、やり場のない絶望の叫びではなかった。
娘の愛を知った、救済の涙だった。
「お母さんの言った通りでしたよ。彼女は最期まで、立派な娘さんでした」
俺はそれだけ告げると、逃げるように部屋を出た。
廊下の窓から、雨上がりの空が見える。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいた。
俺は胸ポケットから、古びたロケットペンダントを取り出した。
中には、亡き妻の写真。
彼女もまた、事故で死んだ。
俺はずっと、彼女が最期に何を感じたのか、知るのが怖かった。
俺を恨んで死んだのではないかと。
だが、今の俺なら分かる気がした。
俺は震える手で、もう一度ペンダントを握りしめた。
「……お前も、笑っていたのか?」
返事はない。
ただ、雨上がりの街が、滲んで輝いて見えた。