第一章 時の置き土産
都会の喧騒が遠く耳に届く、古い木造アパートの一室。倉木悠は、慣れない手つきで亡き妹、美咲の遺品を整理していた。七年前、たった八歳で交通事故に遭い、命を落とした美咲。その記憶は、悠の心に深い傷となって刻み込まれている。出版社で編集者として働く悠は、日々校正記号と活字に埋もれることで、かろうじて日常の平静を保っていた。
美咲が使っていた、無数の落書きで飾られた古い学習机の引き出しを開けた時、悠の指先にひんやりとした感触が触れた。薄汚れた埃の層の下に、一冊の古い日記帳が隠されていた。手にとって開くと、そこには見慣れた文字が並んでいる。まぎれもなく、自分の筆跡だ。しかし、書かれている内容に、悠は目を見開いた。
『20XX年6月17日。水曜。夕方、西村が社の階段で転倒。右腕を骨折するだろう。』
西村は、悠の部署の同僚だ。しかし、今日はまだ6月15日。日記の日付は、二日後の未来を示していた。まるで誰かの悪質なジョークか、あるいは過去の自分が書いた支離滅裂な創作物か。悠は一瞬困惑したが、ふと、その記述の隅に、美咲が描いた小さな笑顔の落書きを見つけた。その絵は、まるで美咲自身が何かを伝えようとしているかのように、悠の心をざわつかせた。
その日の夜、悠は日記帳をカバンに忍ばせ、仕事に出かけた。そして、6月17日の夕方、社内でまさに日記に記された通りの出来事が起こった。西村が階段で足を滑らせ、右腕を骨折したと聞かされた時、悠の心臓は激しく脈打った。偶然の一致にしては、あまりにも具体的すぎる。
背筋に冷たいものが走る感覚。再び日記を開くと、次のページにはさらに恐ろしい記述があった。
『20XX年6月25日。廃墟と化した久遠総合病院にて殺人事件。被害者は元医師、高橋浩一。犯人は黒い影の男。』
久遠総合病院。それは、美咲が事故で運ばれ、そして息を引き取った病院だった。数年前に閉鎖され、今は廃墟となっている。悠の脳裏に、七年前の病院の白い廊下、消毒液の匂い、そして美咲の小さな手が冷たくなっていく感覚が蘇る。なぜ、この日記は、妹の死と縁深い場所で起こる未来の殺人を予言しているのか。そして、なぜ自分の筆跡で書かれているのか。その疑問は、悠の心に深く根を下ろし、日常を蝕み始めた。
第二章 螺旋の予言
日記の恐るべき信憑性は、悠を不可解な未来へと引きずり込んだ。6月25日。悠は、日記に書かれた「久遠総合病院」へ向かうことを決意した。警察に知らせることも考えたが、未来を予言する日記の存在を説明できる自信がなく、なにより、真実を自分の目で確かめたいという抑えきれない衝動があった。
閉鎖された病院は、異様な静寂に包まれていた。朽ちた外壁、割れた窓ガラス、まるで過去の悲劇を凝縮したかのような廃墟の佇まいが、悠の心を重くする。美咲の小さな命が消え去った場所。その記憶が、薄暗い廊下の奥から悠を呼んでいるかのようだった。
病院の入り口を抜けると、錆びた金具が軋む音が、湿った空気の中で響き渡る。心臓の音が耳元で大きく鳴り、鼓動がまるで走っているかのように速くなる。呼吸を整えながら、悠は日記に記された「手術室」へと足を踏み入れた。
手術室は、かつての清潔さを失い、無数の瓦礫と埃に覆われていた。その中央に、倒れた男がいた。胸元には、赤黒い染みが広がり、その表情は苦痛に歪んでいた。まさしく日記に書かれた通りの「高橋浩一」だった。悠は息を呑んだ。日記の予言が、再び現実のものとなったのだ。
その時、悠の背後で物音がした。振り返ると、黒いフードを深く被った男が、悠の目の前を通り過ぎ、病院の奥へと消えていった。「黒い影の男」──日記の記述と完全に一致する。
茫然自失のまま立ち尽くしていた悠は、やがてスマートフォンを取り出し、震える指で警察に通報した。
現場に到着した警察官たちによって、廃病院は慌ただしく封鎖された。悠は参考人として事情聴取を受けた。何故廃病院にいたのか、何を目撃したのか。悠は警察の質問に、たまたま懐かしくなって訪れたと嘘をつき、黒い影の男について曖昧な供述をした。日記のことは決して口にできなかった。この日記は、あまりにも現実離れしており、警察に話したところで信じてもらえるはずがないと悟っていたからだ。
家に戻り、再び日記を開いた悠は、恐怖と混乱に打ち震えた。次のページには、高橋浩一殺害事件の真犯人の名前と、さらに次のターゲットの名前が記されていた。そして、日記の最後に、悠の心を凍りつかせる一文が書かれていた。
『この日記の作者は、あと七日で死ぬ。』
自分の筆跡で書かれた、自分の死の予言。悠は、この日記が単なる未来の出来事の記述ではないことを直感した。これは、未来の自分からの警告なのか。それとも、避けられない運命を記した、死の宣告なのか。妹の死を予見できなかった後悔と、自らの死を予見する奇妙な日記。悠の心は、深い闇の螺旋に囚われていくようだった。
第三章 過去の残響、未来の足音
日記に記された自身の死の予言は、悠を深い絶望と同時に、奇妙な衝動へと駆り立てた。予言された運命を受け入れるのか、それとも抗うのか。妹の死という過去の悲劇が、今の自分を縛り付けているかのように感じられた。あの時、もし自分が何かを知っていたら、美咲は死なずに済んだのではないか。その思いが、悠の胸を締め付ける。
日記に書かれた手がかりを元に、悠は高橋浩一と次のターゲットに関する情報を独自に調べ始めた。高橋は元医師で、美咲が運ばれた病院に勤務していたことを突き止める。そして、次のターゲットとされた人物も、美咲の事故に関わっていたことが判明した。美咲の事故は、単なる不運な出来事ではなかったのか。何か、隠された真実があるのではないか。悠の疑念は確信へと変わっていく。
調査を進める中で、悠は日記に書かれた文字が、いつも自分が使っているペンとは異なるインクの色をしていることに気づいた。それは、淡い群青色。悠は美咲が愛用していた、一本の万年筆を思い出した。妹の形見として、ずっと机の引き出しの奥にしまわれていたものだ。取り出してみると、その万年筆には、日記と同じ群青色のインクが充填されていた。そして、その万年筆で書かれた文字は、悠自身の筆跡でありながら、どこか硬く、荒々しい印象を与えるものだった。
その夜、悠は日記の最後のページに、これまで見落としていた追記があるのを見つけた。それは、小さな文字で、あたかも意図的に隠すように書かれていた。
「私は、この日記が未来のあなたに届くように願う。これは予言ではない。私が仕組んだ復讐劇のシナリオだ。」
悠の心臓が、まるで停止したかのように感じられた。復讐劇のシナリオ?自分自身が?
混乱しながら読み進めると、そこにはさらに衝撃的な事実が記されていた。
「高橋浩一は、美咲の事故の際に医療過誤を隠蔽した。次のターゲットも、その隠蔽工作に加担した。この日記は、彼らに罪を償わせるための、私の計画だ。」
そして、日記の記述は、悠がこれまで抱いてきた妹の死への悲しみと怒りを、形あるものとして具現化させていた。美咲の事故は、単なる不運な事故ではなく、明確な意図を持った隠蔽工作によって真実が闇に葬られていたのだ。
悠の価値観が根底から揺らぐ。この日記は、未来からの予言などではなかった。過去の自分が、美咲の死の真相を知り、復讐を計画し、その道筋を日記として記したものだったのだ。そして、その計画の執行者として、未来の自分(現在の悠)にそれを完遂させることを促している。日記に記された「自身の死」は、復讐を完遂した後の「制裁」あるいは「自裁」を示唆しているかのようだった。悠は、自分が誰かの思惑によって動かされている操り人形なのか、それとも、この復讐の連鎖を断ち切る自由な意志を持っているのか、激しい葛藤に苛まれた。
第四章 運命の罠、あるいは選択
日記の真実が明らかになった時、悠の心は激しい怒りと深い悲しみに包まれた。過去の自分が仕組んだ復讐劇。その標的となった者たちが、妹の死に関わった人間たちであるという事実は、悠の復讐心を煽り立てるには十分だった。美咲の笑顔が脳裏にちらつくたび、あの幼い命を奪い、その真実を隠蔽した者たちへの憎悪が募る。
警察の捜査の手は、既に悠のすぐそこまで迫っていた。高橋殺害事件の現場にいた人物として、悠は重要参考人となっていた。日記が示す次のターゲットは、美咲の事故現場の目撃者であり、警察への証言を偽り、事故の真相を隠蔽した人物、佐伯だった。佐伯は現在、地方都市でひっそりと暮らしている。悠は、復讐を完遂すべきか、あるいはこの連鎖を断ち切るべきか、倫理的な葛藤に苦しんだ。
「これは予言ではない。私が仕組んだ復讐劇のシナリオだ。」
日記の言葉が、悠の頭の中で繰り返し響く。過去の自分は、復讐という形でしか、美咲の無念を晴らせないと考えたのだろうか。もし、自分が復讐を完遂すれば、日記に記された通り、自分も死ぬことになるのだろうか。それは、過去の自分が自分自身に課した罰なのか。
悠は、美咲の小さな万年筆を握りしめた。冷たい金属の感触が、悠の手のひらに現実を突きつける。
数日後、悠は佐伯が暮らす地方都市へと向かった。車窓から流れる見慣れない景色の中で、悠の心は揺れ動いていた。復讐を遂げたとして、美咲が本当に喜ぶだろうか? 憎しみの連鎖の先に、本当の安らぎはあるのだろうか? しかし、心の奥底では、美咲の無念を晴らしたいという強い衝動が渦巻いている。
佐伯の家は、人通りの少ない古い住宅街にあった。夕暮れ時、佐伯が庭で水やりをしているのを見つける。憔悴しきった様子の佐伯は、悠が想像していたような悪人面とは程遠い、普通の老人に見えた。しかし、その顔に刻まれたしわは、過去の罪の影を宿しているようにも感じられた。
悠は、佐伯に近づいていく。佐伯は悠に気づき、驚いた表情で振り返った。その瞬間、悠の手には、美咲の万年筆が握られていた。万年筆のペン先が、夕日に鈍く光る。過去の自分からの、復讐という名の命令が、悠の行動を支配しようとしていた。
第五章 贖罪の果てに
佐伯と対峙した悠は、胸の奥で渦巻く感情に押し潰されそうになっていた。万年筆を握る手が、微かに震える。佐伯は、突然の訪問者に驚き、警戒の色を露わにしていた。
「あなたは…一体?」佐伯の声は震えていた。
悠は、美咲の万年筆を強く握りしめたまま、かつて事故現場で美咲を目撃した時の佐伯の言葉を口にした。「七年前、美咲の事故の時、あなたは真実を語らなかった。どうして?」
佐伯の顔から血の気が引いた。彼は視線を足元に落とし、沈黙した。長い沈黙の後、佐伯は重い口を開いた。「あの時、私は…あの現場にいた。見たんだ。美咲ちゃんが飛び出した時、大型トラックが、減速せずに突っ込んできたのを。運転手は、酒を飲んでいた。だが、事故後すぐに、私と、病院の人間、そして運転手の関係者から口止め料を渡され、証言を偽るように強要されたんだ…」
佐伯は、当時の状況を絞り出すように語った。医療過誤、飲酒運転、そして証言の隠蔽。全てが日記に書かれた通りだった。佐伯は、その罪の意識に長年苛まれてきたことを告白し、涙を流した。
悠は、佐伯の懺悔を聞きながら、万年筆をゆっくりと下げた。確かに、目の前の男は罪を犯した。しかし、その顔に浮かぶ後悔の念は、悠の復讐心を揺さぶった。美咲が本当に望むのは、これなのだろうか? 憎しみの連鎖を繋ぎ、自分自身もまた、過去の自分の計画の犠牲になることが、果たして美咲の魂を癒すことになるのか?
悠は、美咲の万年筆を強く握りしめ、そして自らの手で、その万年筆を地面に投げつけた。カツン、と乾いた音が響き、万年筆は二つに割れた。それは、過去の自分からの命令を拒絶し、運命の輪から自ら降りるという、悠自身の決意の表明だった。
「あなたの罪は、私が償わせる。だけど、私の手で、あなたを傷つけることはしない。」
悠は、そう告げると、スマートフォンを取り出し、警察に通報した。そして、全ての真相を話すことを告げた。自分自身が過去の事件に関与した罪、そして、この復讐の計画の全てを。
パトカーのサイレンが、遠くから聞こえてくる。悠は、佐伯に背を向け、サイレンの音の方向へと歩き出した。警察官に身柄を拘束された悠の顔には、長年抱えていた重荷を下ろしたような、どこか清々しい表情が浮かんでいた。過去の自分が書いた復讐のシナリオを破り捨て、自らの意思で未来を選んだのだ。
数週間後、美咲の事故の真相は世間に公表され、関与した全ての人物が法によって裁かれることになった。悠もまた、自身の罪を償うために刑務所に収監された。
しかし、悠の心には、以前のような深い闇はなかった。独房の小さな机に向かい、悠は新しいノートを開く。そして、割れた美咲の万年筆の代わりに、安物のボールペンを手に取った。
悠は、静かに日記を書き始める。それは、復讐の計画ではない。過去と向き合い、未来を生きる自身の物語だ。予言された自身の死は避けられたが、別の形で責任を取る選択をした。悠は、美咲の無念を抱きしめながらも、憎しみではない、新たな形で生きる道を歩み始めていた。果たして、これが本当の贖罪なのか、それとも、これもまた、目に見えない運命の螺旋の一部に過ぎないのか。ノートの白いページが、静かに悠の問いを受け止めている。