第一章 腐蝕する鉄の味
古書の黴とインクの匂いが混じり合う静寂のなかで、水島蓮は生きていた。かつて天才調香師と呼ばれた彼は、ある事故をきっかけにその繊細すぎる嗅覚を自ら封印し、今はこの小さな古書店『言の葉の森』の店主として、ひっそりと日々をやり過ごしている。彼にとって、印刷された文字の沈黙は、世界で最も心安らぐ香りだった。
その平穏が、音もなく崩れ始めたのは、ある雨の日の午後だった。
「蓮さん……最近、誰かにつけられているような気がするんです」
カウンター越しにそう囁いたのは、常連客の高村小夜子だった。彼女の白い指は、文庫本の背を不安げになぞっている。その声に含まれた震えが、蓮の鼓膜を微かに揺らした。その瞬間、彼の舌の上に、今まで感じたことのない感覚が広がった。それは、まるで氷の欠片を舐めたかのような、冷たくて鋭い苦味。彼女の「恐怖」が、味覚となって蓮の神経を直接刺したのだ。
「警察には?」
「考えすぎだって、言われるのが怖くて……」
小夜子が俯いたとき、店のガラス戸の向こうを、傘を差した男がゆっくりと通り過ぎた。何の変哲もない通行人。しかし、男が店の前を横切ったまさにその瞬間、蓮の口内は耐え難い味覚に襲われた。
――腐った鉄の味。錆びついた釘を無理やり飲み込まされたような、吐き気を催す強烈な不快感。それは、純度百パーセントの、濃密な「悪意」の味だった。
蓮は思わずカウンターに手をついた。めまいがする。なんだ、これは。今までも、彼は香りの成分を色として認識する共感覚(シナスタジア)を持っていた。だが、こんな風に、他人の感情がグロテスクな味覚として流れ込んでくることなど、一度もなかった。
「蓮さん? 顔色が……」
「いや、なんでもない」
蓮はかろうじて平静を装った。しかし、彼の内面では、世界が根底から覆るような激しい混乱が渦巻いていた。小夜子の恐怖の「苦味」と、見知らぬ男が放った悪意の「鉄錆の味」。それは、蓮がこれまで築き上げてきた静寂の壁を、無慈悲に溶かし始めていた。この日を境に、彼の呪いのような、あるいは啓示のような新しい能力が、その蕾をゆっくりと開き始めたのだった。
第二章 感情のテイスティング
翌日から、蓮の世界は一変した。街は、感情の味で満たされた巨大なビュッフェ会場と化した。通勤ラッシュの駅では、人々の焦燥感が「焦げ付いたトーストの味」となって押し寄せ、公園で笑い合う恋人たちからは「完熟した桃の蜜の味」がふわりと香った。それはあまりにも無防備で、あまりにも生々しい情報だった。蓮は他人の心を、本人の許可なく味わってしまう背徳感と、絶え間なく舌を襲う味の洪水に、急速に精神を摩耗させていった。
それでも彼は、小夜子のために行動することを決めた。あの日感じた「腐蝕する鉄の味」が、彼女に向けられた本物の脅威だと確信していたからだ。彼は自分の新たな感覚を「感情のテイスティング」と名付け、それを頼りにストーカーの正体を探り始めた。
まずは、小夜子の周辺人物からだった。彼女が最近別れたという元恋人の男に会ってみた。男は未練がましさを隠そうともせず、その口から漏れるのは「酸っぱく発酵した葡萄の味」――嫉妬の味だった。次に、小夜子の職場の同僚たち。彼らからは「ピリリと舌を刺す山椒のような嫉妬」や、「気の抜けた炭酸水のような無関心」など、様々な味がした。
誰もが、多かれ少なかれ負の感情を抱えて生きている。蓮はそれを痛感した。しかし、あの男から感じた、すべてを腐らせるような強烈な悪意の味は、誰からも感じられなかった。捜査は行き詰まり、蓮は次第に焦燥感に駆られていく。この能力は、本当に手掛かりになるのだろうか。それとも、ただ彼を狂わせるだけの呪いなのか。
そんなある夜、蓮は小夜子の親友だという藤堂美咲と会う機会を得た。小夜子のマンションの前で偶然鉢合わせたのだ。
「あなたが、蓮さんですね。小夜子からいつも話を聞いています。あの子のこと、いつも気にかけてくださって、ありがとうございます」
美咲はそう言って、花が綻ぶように微笑んだ。その瞬間、蓮の口の中に、驚くほど清らかで、優しい甘みが広がった。
「黄金色の蜂蜜に、アカシアの花を浮かべたような……」
それは、一点の曇りもない、純粋な「慈愛」と「親愛」の味だった。この混沌とした感情の味覚の世界で、これほどまでに美しい味に出会ったのは初めてだった。蓮は、美咲に対して抱いていたわずかな疑念を完全に捨て去った。彼女は心から小夜子を案じている、真の友人なのだと。
第三章 甘すぎる毒
悲劇は、蓮がわずかな安堵を覚えた矢先に起こった。小夜子が自宅で何者かに襲われたのだ。幸い、命に別状はなかったが、彼女は深い精神的ショックを受けていた。蓮は、自分の無力さを呪った。能力がありながら、何も防げなかった。自責の念が、鉛のように重く彼の心にのしかかった。
病院の集中治療室の前に駆けつけると、そこには憔悴しきった美咲がいた。
「私のせいです……私がもっと、ちゃんとそばにいてあげていれば……」
涙を流す彼女からは、やはりあの「黄金色の蜂蜜の味」がした。だが今回は、そこに「苦い薬草を混ぜたような悲嘆」の味がわずかに混じっていた。蓮は彼女を慰める言葉も見つけられず、ただ立ち尽くすしかなかった。
その夜、蓮は古書店の自室で、眠れずに天井を見つめていた。頭の中で、これまでの出来事を何度も反芻する。元恋人の酸っぱい嫉妬、同僚たちの些細な悪意、そして、美咲の純粋なまでの甘い優しさ。何かがおかしい。パズルのピースが、どうしても嵌らない場所がある。
その違和感の正体に気づいたのは、夜が白み始めた頃だった。
美咲の味だ。甘すぎる。あまりにも、純粋すぎるのだ。
人間はもっと複雑な生き物のはずだ。親友を心から心配する時でさえ、そこには「自分がいなければ」という微かな自負や、「面倒だ」と感じる一瞬の利己心、未来への漠然とした不安といった、様々な不純物が混じるはずだ。だが、美咲から感じた味には、そうした雑味が一切なかった。まるで、人工的に精製された完璧なシロップのようだった。
蓮の脳裏に、調香師だった頃の記憶が蘇る。
『純粋すぎる香りは、時に毒となる。完璧な調和は、不自然さの現れだ』
師匠の言葉が、雷のように彼を貫いた。そうだ、天然のローズオイルには、数百もの香気成分が含まれている。その中には、ごく微量の、不快とも言える成分も含まれている。それら全てが合わさって、初めて人を魅了する、深く豊かな薔薇の香りが生まれるのだ。
美咲の感情は、あまりにも「完璧」すぎた。
蓮は恐ろしい仮説にたどり着いた。美咲が小夜子に抱いている感情は、純粋な友情などではない。それは、美しい蝶を標本箱に閉じ込めて、永遠に自分のものにしたいと願うような、歪みきった「独占欲」。彼女が感じさせていた「甘い味」は、友情の味ではなかった。それは、小夜子を自分の庇護下に置き、完全に支配できるという「至上の喜び」の味だったのだ。
ストーカー騒ぎは、小死ぬことうなずか夜子を精神的に孤立させ、自分だけに依存させるための、美咲の自作自演。そして今回の襲撃は、恐怖に打ちのめされた小夜子を、完全に自分の管理下に置くための、狂気の最終手段。あの日、蓮が店の前で感じた「腐った鉄の味」は、美咲が金で雇った実行犯から発せられていたものに違いない。すべては、小夜子という「楽園」を独り占めにするための、美咲が描いた完璧なレシピだったのだ。
第四章 真実のあと味
蓮は震える手で警察に電話をした。証拠は何もない。あるのは、常人には到底理解されないであろう、「感情の味」というあまりに不確かな感覚だけだ。しかし、彼の声には、もはや迷いはなかった。彼の言葉は、異常なまでの確信と、犯人の心理を的確に突いた鋭さを持っていた。最初は半信半疑だった刑事も、蓮が語る美咲の言動の微細な矛盾点や、常軌を逸した支配欲の可能性に、次第に耳を傾け始めた。
蓮の通報がきっかけとなり、捜査は大きく動いた。警察が美咲の周辺を洗い直すと、彼女が過去にも、親しくなった相手に対して異常な執着を見せ、トラブルを起こしていたことが判明した。そして、彼女が襲撃のために雇った男も、金の流れから特定され、逮捕に至った。男の自白が、蓮の推理のすべてを裏付けた。
事件は解決した。しかし、蓮の能力が消えることはなかった。彼はこれからも、人々の感情の味と共に生きていかねばならない。以前の彼ならば、その現実に絶望し、再び心を閉ざしていただろう。だが、今の彼は違った。
古書店のカウンターに座り、蓮は窓の外の雑踏を眺める。道行く人々から流れ込んでくる、甘い味、塩辛い味、酸っぱい味、苦い味。かつては苦痛でしかなかった感情の洪水が、今はまるで、複雑で、深く、そしてどこか愛おしい交響曲のように感じられた。
彼は、香りの調和を追求したかつてのように、今度は人間の感情という、このどうしようもなく不完全で美しい「味」の調和を、理解しようと試みているのかもしれない。それは苦しみに満ちた道程だろう。だが、彼はもう逃げないと決めていた。小夜子の心の痛みを感じたからこそ、彼は知ったのだ。他人の痛みに寄り添うことの、本当の意味を。
一人の少女が店に入ってきて、絵本を手に取り、嬉しそうに母親のもとへ駆け寄っていく。彼女から零れた「弾けるソーダ水のような喜びの味」が、蓮の舌の上で優しく泡立った。
蓮は静かに微笑み、目の前にあった古書を開いた。その表情には、苦悩の痕跡と、それを受け入れる静かな覚悟が同居していた。呪いだと思っていたこの力は、彼が世界と、そして人間を深く味わうための、神が与えたささやかな贈り物だったのかもしれない。真実のあと味は、いつもほろ苦く、そして、忘れがたい。