第一章 歪んだ色彩
水沢響(みずさわ ひびき)の世界は、音に色がついていた。それは生まれついての共感覚(シナスタジア)で、ピアノの澄んだ高音は空色、チェロの深い響きは琥珀色、人々の話し声も、笑い声も、彼にとっては常に鮮やかな色彩のパレットだった。しかし、三年前のあの事故以来、彼の世界には決して混ざることのない、醜い色がこびりついていた。
――濁った、緋色。
それは、雨の夜、交差点に響き渡ったブレーキ音と金属の軋む音の色。彼のピアニストとしての未来を奪った指の痛みと、絶望の色だった。
今、その忌まわしい色が、再び彼の聴覚を、そして視界を侵食していた。
「……これが、沙月さんが最後に遺した音声です」
刑事の無機質な声は、くすんだ灰色をしている。響は、警察署の殺風景な取調室で、小さなボイスレコーダーを前に座っていた。数日前、彼の顧客であり、数少ない友人の一人であった葉山沙月が、自宅マンションで殺害された。第一発見者は、定期調律に訪れた響自身だった。
静寂に包まれた部屋。血の気が引くような冷たさと、甘く腐敗したような鉄の匂い。そして、グランドピアノの傍らで倒れていた沙月の姿。その光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
刑事が再生ボタンを押す。小さなスピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れ出した。
『……やめて……来ないで!』
沙月の悲鳴は、恐怖に引き裂かれたカナリアイエローだった。その声が途切れた直後、低く、押し殺したような男の声が響いた。
『お前が、悪いんだ』
その瞬間、響の世界はぐにゃりと歪んだ。耳の奥でキーンという不快な高周波が鳴り響き、視界のすべてが、あの日の事故と同じ「濁った緋色」に塗りつ潰される。呼吸が浅くなり、冷や汗が背中を伝った。それは、彼の魂に刻まれたトラウマの色そのものだった。
「……水沢さん? 大丈夫ですか?」
心配そうな刑事の声(くすんだ灰色)が、緋色の靄の向こうから聞こえる。響はかろうじて頷き、乱れた呼吸を整えた。
「この……声の主は?」
「それが分かれば苦労はしません。沙月さんの交友関係を洗っていますが、今のところ該当者はいません」
刑事は事務的に答えた。響は唇を噛んだ。警察には言えない。自分の共感覚のことなど、話したところで妄言だと思われるだけだ。しかし、彼には確信があった。この「濁った緋色」の声を持つ男が、沙月を殺した犯人なのだと。そして、この色は、三年前の事故から、ずっと彼を苛み続けている悪夢の正体なのだと。
沙月の無念を晴らすため、そして自分自身の過去と決着をつけるため。響は、誰にも理解されない孤独な捜査に乗り出すことを、静かに決意した。彼の持つ唯一の手がかりは、犯人の声が放つ、不吉な色彩だけだった。
第二章 無色の容疑者たち
調律師の仕事道具であるチューニングハンマーの重みが、今はひどく頼りなく感じられた。響は、沙月の葬儀が終わってからというもの、仕事の合間を縫って、彼女の周辺を嗅ぎまわっていた。警察が聞き込みを終えた後を、亡霊のように辿る。目的はただ一つ、容疑者たちの「声の色」を確かめることだった。
最初に会ったのは、沙月と共同で事業を立ち上げようとしていたという男だった。カフェで対面した彼の声は、自信に満ちた明るいオレンジ色をしていた。事業の頓挫を嘆き、沙月の死を悼む言葉を並べたが、その色彩のどこにも緋色の影はなかった。
次に訪ねたのは、沙月が通っていた絵画教室の講師だった。アトリエに漂う油絵の具の匂いが、響の感覚を鈍らせる。講師は初老の穏やかな男性で、彼の声は落ち着いたオリーブグリーンだった。彼は沙月の才能を惜しみ、彼女が最近、何か大きな悩みを抱えていたようだと語った。
「彼女、時々ひどく思い詰めた顔で、窓の外を眺めていましたよ。まるで、見えない敵と戦っているような……」
見えない敵。その言葉が、響の胸に小さく突き刺さった。
何人もの関係者に会った。嫉妬に燃える元恋人の声は濁った紫色。金の無心をしていた親戚の声は貪欲な黄土色。しかし、どの声も、あのトラウマを呼び起こす「濁った緋色」ではなかった。
焦りが募る。自分の感覚は、本当に信じるに足るものなのだろうか。事故の後遺症で、聴覚が歪んでしまっただけではないのか。疑念が、霧のように心を覆い始める。
その夜、響は自宅のピアノの前に座った。事故以来、ほとんど触れていない象牙の鍵盤。震える指で、そっと一つのキーを押す。ポーン、と鳴った音は、かつてのような澄んだ空色ではなく、どこか澱んだ水色をしていた。自分の感覚そのものが、壊れてしまっているのかもしれない。
無力感に打ちひしがれ、彼は沙月の部屋の写真を見つめた。警察が撮影した現場写真のコピーを、無理を言って手に入れていた。グランドピアノ、散らかった楽譜、そして、床に落ちた高性能なノイズキャンセリングヘッドホン。沙月は音楽家ではなかったが、極度の集中を要する翻訳の仕事をしており、ヘッドホンは必需品だったと聞く。
ふと、違和感を覚えた。なぜ、ボイスレコーダーにあれほど酷いノイズが混じっていたのだろう。現代の機器なら、もっとクリアに録音できるはずだ。それに、あの男の声。低く、不自然に加工されたような響きが、今更ながらに気になった。
何かがおかしい。パズルのピースが、致命的に足りていない。響は、もう一度だけ現場へ行く必要があると感じていた。そこには、まだ誰も気づいていない、沙月の本当のメッセージが残されているような気がしてならなかった。
第三章 緋色のシナリオ
警察の許可を得て、再び沙月の部屋に入った。窓から差し込む西日が、埃を金色に照らし出している。響は、甘くまとわりつく死の残り香を振り払うように、部屋の中を注意深く見渡した。そして、まっすぐにPCデスクへと向かった。
沙月が使っていたノートパソコン。その横に、例のヘッドホンが無造Cに置かれている。響はパソコンの電源を入れた。幸いにもパスワードはかかっていない。デスクトップには、見慣れない音声編集ソフトのアイコンがあった。
胸騒ぎを覚えながら、ソフトを起動する。最近編集したファイルのリストに、見覚えのあるファイル名が残っていた。『message_final』。
クリックすると、画面に二つの波形が表示された。上段は、聞き覚えのある沙月の悲鳴。そして下段には、あの男の声の波形。響はヘッドホンを装着し、下段の波形だけを再生してみた。
『お前が、悪いんだ』
やはり、あの「濁った緋色」の声だ。しかし、ヘッドホンを通して聞くと、音の細部がより鮮明に聞こえる。声の奥に、何か別の音が混じっている。響はソフトの機能を使い、ノイズリダクションを試みた。特定の周波数帯をカットしていくと、声の質感がわずかに変化する。
さらに、ピッチ(音の高さ)を調整する。少しずつ、少しずつピッチを上げていく。すると、信じられないことが起きた。
低く響いていた声は、徐々に聞き慣れた音域へと変化していった。そして――。
「……嘘だろ」
ヘッドホンの中で響いたのは、紛れもなく**自分自身の声**だった。三ヶ月ほど前、調律に訪れた際、沙月に頼まれてマイクテストで喋った、何気ない言葉。それが加工され、犯人の声として作り上げられていたのだ。
全身の血が凍りつく。では、あの「濁った緋色」は? 響は、先ほどノイズとしてカットした部分だけを再生してみた。
キィィン、という耳障りな高周波音。それは、単なるノイズではなかった。三年前の事故で聞いた、金属が引き裂かれる音の周波数と酷似していた。沙月は、響のトラウマを正確に把握し、彼の声にその周波数を重ねることで、彼にだけ「犯人の声」を誤認させるよう、巧妙に細工していたのだ。
頭を殴られたような衝撃。信じていた友人に、なぜ。彼女は、自分を犯人に仕立て上げようとしていたのか? 絶望と裏切りが、黒いインクのように心を汚していく。
しかし、その黒い感情の底から、新たな疑問が湧き上がった。なぜ、沙月はこんな手の込んだことを? 彼女が本当に響を犯人にしたいなら、もっと直接的な方法があったはずだ。これは、罠であると同時に、何かを伝えるためのメッセージなのではないか。
『見えない敵と戦っているようだった』
絵画講師の言葉が脳裏をよぎる。沙月の敵は、一体誰だったのか。響をこの事件の当事者に引きずり込み、彼にしか解けない謎を追わせようとしたのではないか。
響は、自分の感覚を利用された怒りよりも、友人が命を賭して遺した歪んだ信頼の形に、心を揺さぶられていた。これは、彼女からの最後の依頼なのだ。自分を陥れたシナリオの、本当の結末を見つけ出すという、血塗られた依頼。
彼はパソコンのファイルを探し続けた。そして、パスワードで固くロックされたフォルダを見つけ出す。パスワードのヒントは、『私たちの不協和音』。
響は、かつて沙月と交わした会話を思い出していた。響がピアノを弾けなくなったことを嘆いた時、沙月は言ったのだ。
「いいじゃない、不協和音。完璧なハーモニーより、少しずれてる方が人間らしいわ。私たちの友情みたいにね」
パスワードは、二人が出会った日付だった。フォルダが開かれ、中には一つの日記ファイルが遺されていた。その最初のページには、こう書かれていた。
『響くん、ごめんなさい。でも、あなたしかいないの。どうか、私の最後の不協和音を、鎮魂歌(レクイエム)に変えて』
第四章 沈黙のレクイエム
沙月の日記は、絶望と復讐心の記録だった。彼女は、数年前に海外の投資話に乗り、退職金と貯蓄のすべてを失っていた。典型的な投資詐欺だった。しかし、そのグループは巧妙で、警察に訴えても証拠不十分で取り合ってもらえなかったという。
日記を読み進める響の指が、ある一点で止まった。詐欺グループの主犯格とされる男の名前。―――相馬巧(そうま たくみ)。
その名前に、響は息を呑んだ。それは、三年前、雨の夜に信号無視の車で交差点に突っ込み、彼の指と未来を奪った男の名前だった。相馬は当時、有力者の息子であることから執行猶予付きの軽い判決で済み、響は示談金を受け取ることで無理やり納得させられていた。
すべてが繋がった。沙月は、自分を騙した男が、響の人生を狂わせた男と同一人物だと知ってしまったのだ。法で裁けない巨悪を前に、彼女は独りで戦うことを決意した。そして、最後の手段として、自らの命を賭けた壮大な計画を立てた。
響の共感覚とトラウマを利用し、彼を事件の渦中へと引きずり込む。彼ならば、個人的な復讐心と、類稀なる聴覚で、必ずや相馬に辿り着いてくれると信じて。それは、友に対する最も残酷で、最も信頼に満ちた賭けだった。
「……なんて馬鹿なことを」
響の頬を、熱い雫が伝った。裏切られたと思っていた友人は、誰よりも彼を信じ、自分の無念を託して死んでいったのだ。彼女が遺した緋色のシナリオは、響を犯人にするためのものではなく、真犯人を指し示すための、血塗られた道標だった。
日記の最後には、相馬が経営するコンサルティング会社の名前と、彼が頻繁に出入りする隠れ家的なバーの情報が記されていた。響は涙を拭い、静かに立ち上がった。彼のやるべきことは、もう一つしかなかった。
数日後、響は問題のバーにいた。客の少ないカウンターの隅で、ターゲットを待つ。やがて、重厚なドアが開き、一人の男が入ってきた。上質なスーツを着こなし、自信に満ちた足取り。相馬巧だった。
響は、彼のそばを通り過ぎるふりをして、耳を澄ませた。相馬がバーテンダーに何かを話している。
その声は、響が今まで聞いたどんな色とも違っていた。それは、深く、冷たく、底光りするような「藍鉄色」。感情の温度を一切感じさせない、まるで機械が発するような、無機質で危険な色彩だった。この男は、他人の痛みなど、何一つ感じない人間なのだと、響は瞬時に理解した。
響は、密かに録音していた相馬の声を警察に届けた。沙月の日記と、状況証拠を添えて。当初は懐疑的だった警察も、響の鬼気迫る説得と、日記に記された詐欺の具体的な手口から、本格的な再捜査に乗り出した。
やがて、相馬の詐欺グループは摘発され、沙月殺害への関与も立証された。相馬が、金の返済を求めてきた沙月を口封じのために殺害したのだった。
すべてが終わった日、響は久しぶりに自宅のピアノの前に座った。まだ完全には動かない指で、そっと鍵盤に触れる。
ポーン。
彼が鳴らした一つの音は、悲しいほどに澄み切った「瑠璃色」をしていた。
沙月を失った悲しみ、彼女の歪んだ愛情への感謝、そして、忌まわしい緋色のトラウマから解放された安堵。様々な感情が入り混じり、一つの和音となって響の心に響き渡る。それは完璧なハーモニーではなかった。少しだけ不協和音の混じった、切なくも優しい響き。
彼は、沙月のための鎮魂歌を弾き始めた。それは、誰に聞かせるでもない、ただ二人の魂だけが知る、沈黙のレクイエムだった。彼の世界から緋色が消え、新しい色彩が生まれようとしていた。