忘却の熱量
第一章 指先の熱傷
柏木湊(かしわぎ みなと)の右手の指先は、時折、世界で最も孤独な嘘つきになる。それは誰かの死を予感した時に訪れる、呪いのような天啓だった。死にゆく者が最後に触れたもの。それに湊が触れると、対象の温度が彼の体温に引きずられるようにして、急激に上昇するのだ。
神保町の古書店『アウリガ書房』の片隅。埃とインクの匂いが混じり合う静寂の中、湊はカウンターに置かれた一冊の文庫本を手に取った。常連の田中老人が、昨日、ここに置いていったものだ。指が触れた瞬間、灼熱が走った。まるで熱した鉄塊を握りしめたかのような、皮膚を突き破って神経を焼く痛み。湊は思わず本を落とした。パサリ、と乾いた音を立てて床に落ちた本は、何の変哲もない古びた紙の塊に戻っている。だが、湊の指先には、まだ幻のような熱傷が疼いていた。温度は、死の確定度と悲劇性に比例する。この熱は、もう手遅れだと告げていた。
翌朝、店の電話が鳴り、田中老人が昨夜、自宅で静かに息を引き取ったことを知らされた。湊は受話器を置くと、陽光が差し込む窓の外に目を向けた。見慣れたはずの街並みに、微かな違和感が混じっていた。通りの向かい、いつもそこにあったはずの古めかしい時計台が、跡形もなく消えている。まるで最初から、そこに存在しなかったかのように、アスファルトは滑らかに続いていた。誰もその消失に気づいていない。世界の記憶に、小さな亀裂が入ったような、薄ら寒い感覚が湊の背筋を撫でた。
第二章 歪んだ記憶の地図
「この感覚、あなたも分かるんですか?」
数日後、カウンターで本の整理をしていた湊に、快活な声が投げかけられた。顔を上げると、結城栞(ゆうき しおり)が興味深そうな瞳でこちらを見つめていた。大学院で比較史学を専攻しているという彼女は、最近よく店に顔を出すようになっていた。
「世界のディテールが、時々、こっそり書き換えられているような……そんな感覚」
栞はそう言って、持参したノートパソコンの画面を湊に向けた。そこには、世界中で報告されている『集団的記憶錯誤』の事例が、びっしりとリストアップされていた。有名な映画のセリフ、企業のロゴ、そして、存在したはずのランドマークの消失。時計台の話をすると、栞は目を輝かせた。
「それです! 私が調べているのは、その『認識の歪み』なんです。誰かが、あるいは何かが、私たちの共有記憶を少しずつ盗んでいるとしたら?」
彼女の言葉は荒唐無稽に聞こえるはずなのに、湊の胸には奇妙な説得力をもって響いた。この世界では、人々が誰かを『裏切る』たびに、裏切られた者の最も大切な記憶が一つ、世界から消えていく。湊はその法則を、経験則として知っていた。そして栞は、その法則が残す『歪み』の痕跡を、学問として追いかけていたのだ。
二人は、時計台が消えた場所へと向かった。アスファルトの継ぎ目を調べていた湊の指が、ふと、地面に埋もれた小さなガラス片に触れた。拾い上げた瞬間、微かな温もりが伝わってきた。それはまるで、遠い昔に誰かが握りしめた体温の残滓のようだった。
第三章 裏切りの連鎖
その熱は、新たな死の序曲だった。栞が「恩師なんです」と紹介してくれた、歴史学の権威である長谷川教授。彼が学会で発表するはずだった論文の草稿を、湊は偶然、栞の鞄から滑り落ちたそれを拾い上げた際に触ってしまった。
熱い。これまでの比ではない。指先から腕を駆け上り、心臓を直接鷲掴みにされるような灼熱の奔流。それは、避けられぬ死と、計り知れないほどの悲劇を物語っていた。湊は息を呑み、顔を青ざめさせた。
「どうしたんですか、柏木さん?」
「……この論文、教授は」
言葉を継ぐ前に、栞のスマートフォンがけたたましく鳴った。長谷川教授が、昨夜から行方不明になっているという知らせだった。警察は事件と事故の両面で捜査しているという。
栞は打ちひしがれていた。彼女だけが、教授の存在の輪郭が急速に薄れていくのを感じていた。「教授が好きだったコーヒーの銘柄、思い出せない……」「研究室の壁に、どんな絵が掛けてあったかしら……」世界が、長谷川教授という人間の記憶を消去し始めている。彼は誰かに裏切られたのだ。栞は、教授が「歴史から人為的に抹消された一族」の存在を突き止め、その研究データを何者かに奪われたと語った。裏切り者は、すぐ近くにいるのかもしれない。
第四章 砂時計の指紋
栞と共に訪れた、警察の許可を得て立ち入った教授の研究室。そこは、主を失ったことで時間が止まったかのような静寂に満ちていた。本棚の隙間に、湊はそれを見つけた。手のひらサイズの、瀟洒なガラス細工。
『時の砂時計』。
中の砂はすべて落ちきり、ガラスの表面はまだ生々しい熱を帯びていた。そして、そのくびれた部分には、まるで熱で焼き付けられたかのように、一つの鮮明な指紋が残されていた。
湊は、覚悟を決めてそれに触れた。
瞬間、意識が爆ぜた。熱と共に、膨大な記憶の断片が脳内になだれ込んでくる。誰かの初恋の風景、家族との最後の食卓、友にかけた約束の言葉。それらが裏切りの瞬間に引き剥がされ、悲鳴を上げて消えていく様を見せつけられた。これは、消された人々の記憶の墓場だ。
そして、湊は戦慄した。熱で焼き付いた指紋の主。その渦状紋の微細な特徴が、すぐ隣で息を殺している栞の、華奢な指先のそれと、寸分違わず一致していたのだ。
「栞さん……君が、教授を?」
裏切り者は、彼女だったのか。湊の問いに、栞は血の気の引いた顔で首を横に振った。
第五章 未来からの呼び声
「違う……私が、そんなこと……」
栞は混乱し、自分の指先を恐ろしげに見つめている。彼女には何の記憶もない。だが、指紋という物証は冷徹な事実を突きつけていた。
その時、湊の手の中の砂時計が、淡い光を放ち始めた。熱が再び奔流となり、今度は一つの明確な『声』として彼の意識に直接響いてきた。
《我々は、調停者。未来より時を遡り、歴史の致命的な分岐点を修正している》
声は感情を排した合成音声のようだった。
《結城栞。君は裏切り者ではない。君の血統こそが、我々が回避すべき破滅の未来へと繋がる『特異点』そのものだ》
未来からの干渉者。彼らは、人類の破滅を回避するため、その原因となる特定の血族――結城家――の存在を、歴史の節目節目で消去していたのだ。そのために、彼らは栞の祖先たちに近しい人間を操り、「裏切らせる」ことで、彼らの大切な記憶を世界から消し去ってきた。栞自身も、己の血統を抹消するための、無自覚なトリガーとして利用されていたに過ぎなかった。長谷川教授は、その歴史改変の不自然さに気づいてしまったがために、消されたのだ。
第六章 忘却の熱量
《柏木湊。君の能力は、消去される存在の最後の残響……我々が『エコー』と呼ぶ、記憶の熱量を感知する特異体質だ。君が感じていた熱は、消えゆく運命だった人々の、生きていた証であり、最後の願いそのものだったのだ》
大規模な記憶喪失の謎。死の連鎖と裏切りの法則。すべてのピースが、絶望的な形で一つに繋がった。これは救済などではない。ただ、未来という存在のエゴによる、過去への一方的な虐殺だ。
そして、と声は続けた。
《最終プロトコルを開始する。特異点、結城栞の存在情報を、現時間軸より完全に消去する》
その瞬間、栞の身体が、足元から徐々に透き通り始めた。湊は叫び、彼女に駆け寄ろうとする。栞は、悲しげに、しかし穏やかに微笑んだ。
「柏木さん、ありがとう。私という人間がいたこと、誰かが気づいてくれただけで、私は……」
彼女が最後に触れたのは、湊が働く古書店の、いつも彼女が寄りかかっていた本棚だった。湊は、消えゆく彼女の代わりに、その本棚の縁に手を伸ばした。
――ゴオォッ、と魂ごと燃え上がるような、想像を絶する熱量が、彼の全身を貫いた。一人の人間が存在したという事実、彼女の喜び、悲しみ、夢、その人生のすべてが凝縮された、星の爆発にも似た凄まじい熱。それは、結城栞という存在の悲劇性と、彼女を失う世界の途方もない喪失の大きさそのものだった。
第七章 君がいた世界の温度
世界から、結城栞という大学院生は消えた。彼女がいた痕跡も、彼女が情熱を注いだ『認識の歪み』に関する研究も、すべてがリセットされ、誰も彼女を覚えてはいない。
神保町の古書店『アウリガ書房』は、昨日と変わらぬ静けさの中にある。ただ、カウンターに立つ柏木湊だけが、すべてを記憶していた。
彼の右の手のひらには、決して消えることのない火傷の痕が、淡く残っている。あの日、栞の存在のすべてを受け止めた証。触れるたびに、幻のような温もりが蘇る。
湊は店先に出て、空を見上げた。世界は平穏に見える。だが、この平和がどれほど多くの『なかったこと』にされた犠牲の上に成り立っているのかを、知っているのは彼だけだ。
彼はこれから、誰にも知られず消えていった人々の記憶の熱を、その温もりを、たった一人で抱きしめて生きていくのだろう。それは呪いであり、同時に、彼だけが受け取った祝福なのかもしれない。
湊は、手のひらの痕にそっと左手を重ねた。そこに宿る、君が生きていた世界の温度を、僕は決して忘れない。